岩成達也「ずれる(私的なメモ・その6)」(「現代詩手帖」9月号)。
「いや」「あるいは」ということば。そして「おそらく」「とある」「似た」ということば。そうしたことばが作り出す推進力というか、前へ前へとことばを動かしていく力。それを受け止める「もの」というあいまいなことば。岩成にしか具体的に見えない「もの」ということば。(「岩成にしか具体的に感じられない「もの」ということば、と言い換えた方がいいかもしれない。)
ここには客観的にというのも奇妙だけれど、あらゆる読者が正確に共有できる「もの」は書かれてはいない。岩成のことばを読むとき、わかるのは、岩成のことばが何かに向けて動いている。そしてその動きは一直線ではない。「いや」と逆方向に動いたかと思えば、「あるいは」とそれまでとは別方向に動くという「動いている」事実しかわからない。あるいは(と岩成にならってことばをつかえば)、動こうとしているということしかわからない。「いや」「あるいは」と瞬時につみかさねられては、ほんとうにどこかへ動いたのか、動こうとして迷っているだけなのかもわからない。しかし、ここにはどこかへ、ここではないどこかへ動こうとする意思、あるいはエネルギーがあるのは確かだろう。
岩成は何を書きたいのだろう。
「辿る」「追う」「なぞる」。この動詞が岩成のエネルギーの運動の仕方であるが、「なぞる」が、おもしろい。先にあるもの、すでに存在するもの、「ことば」であるかぎり、それは誰が(人々が)すでにつかっていたものであり、岩成以前に(すでに)存在しているものであるが--それを「なぞる」。単に「追う」「辿る」のではなく、自分自身をすりつけるようにして動く。明確な接触がある。自分の肉体を触れさせながら動く、触れながら自分自身をすりつけていく。
触れるということは、自分以外の存在を常に自分のなかに取り込むことであり、同時に自分を相手に押しつけることである。触れるときは、かならず相互の交渉がある。
岩成はすでにあることば、それに自己をすりつける。すりつけながらなぞる。そのとき、すでにあることばには「人々の想い」も含まれているが、それまでに岩成自身がつかってきた意味合いも含まれている。また、触れることによって喚起される新しい意味合いが岩成の内部に生まれ、それを瞬時のうちにすでにあることばに伝えもすることになる。
その結果として、ことばは意味が明確になるというよりも、いっそう複雑になる。輻輳する。あいまいさのなかに遠ざかる。
だが、このあいまいなまま遠ざかることが、同時に、「なぞり」を促す。先へ先へと岩成のあたらしいことば、岩成の精神の内部で生成してくることばを誘う。言わばそれは、岩成のことばの「誘い水」として遠ざかる。
この運動には限りがない。「到達不能」ということばが途中に出てくるが、到達不能と知りながら、それでもことばを動かす。ことばはこんなにも動き回れる、動き続けることができる--岩成の書きたいのは「もの」ではなく、動き続けることができるということばそのもののエネルギーのありようなのだと思う。
「到達不能」と知りながら、それでも動き続けることばのエネルギーそのものに岩成はなりたいのだと思う。このような詩において、何が書かれていたかということは重要ではない。何行書き続けることができたかが重要である。そして、読者にとっては、やはり何を読み取ることができたかが重要ではなく、何行読み続けることができたかが重要である。読み続けることができれば、それは岩成のことばのエネルギーを信じることができた(ことばにリアリティーを感じることができた)ということであり、読み通せなければ、それは岩成の書いていることが信じられなかったということである。「信じる・信じない」は、読者の内部のことばの自在性(可塑性)にかかっている。そういう意味では、岩成のことばは、いわば読者を試しているのだともいえるかもしれない。岩成は、いわなりのことばをなぞりとおせる人にだけ向けてことばを動かしている。
粘着力の強いことばなのに、どこかですっきりしているのは、そうした諦念のようなものが隠れているからかもしれない。
あの(内的な指)--それはいったい何だったのか
爪も関節もない不具の指 いや おそらくは指でさえなくて
単なる肉(シェール)の小破片 あるいは肉の とある躓きや裂開に似た(もの)
「いや」「あるいは」ということば。そして「おそらく」「とある」「似た」ということば。そうしたことばが作り出す推進力というか、前へ前へとことばを動かしていく力。それを受け止める「もの」というあいまいなことば。岩成にしか具体的に見えない「もの」ということば。(「岩成にしか具体的に感じられない「もの」ということば、と言い換えた方がいいかもしれない。)
ここには客観的にというのも奇妙だけれど、あらゆる読者が正確に共有できる「もの」は書かれてはいない。岩成のことばを読むとき、わかるのは、岩成のことばが何かに向けて動いている。そしてその動きは一直線ではない。「いや」と逆方向に動いたかと思えば、「あるいは」とそれまでとは別方向に動くという「動いている」事実しかわからない。あるいは(と岩成にならってことばをつかえば)、動こうとしているということしかわからない。「いや」「あるいは」と瞬時につみかさねられては、ほんとうにどこかへ動いたのか、動こうとして迷っているだけなのかもわからない。しかし、ここにはどこかへ、ここではないどこかへ動こうとする意思、あるいはエネルギーがあるのは確かだろう。
岩成は何を書きたいのだろう。
「(内的な指/内的な舌)がのろのろのと闇の斑な部分を辿っている」
(そのために 手始めに この一行を逐語的に追ってみる
(略)
かっての(ことば)への人々の想いを (指)にそってなぞってみる
「辿る」「追う」「なぞる」。この動詞が岩成のエネルギーの運動の仕方であるが、「なぞる」が、おもしろい。先にあるもの、すでに存在するもの、「ことば」であるかぎり、それは誰が(人々が)すでにつかっていたものであり、岩成以前に(すでに)存在しているものであるが--それを「なぞる」。単に「追う」「辿る」のではなく、自分自身をすりつけるようにして動く。明確な接触がある。自分の肉体を触れさせながら動く、触れながら自分自身をすりつけていく。
触れるということは、自分以外の存在を常に自分のなかに取り込むことであり、同時に自分を相手に押しつけることである。触れるときは、かならず相互の交渉がある。
岩成はすでにあることば、それに自己をすりつける。すりつけながらなぞる。そのとき、すでにあることばには「人々の想い」も含まれているが、それまでに岩成自身がつかってきた意味合いも含まれている。また、触れることによって喚起される新しい意味合いが岩成の内部に生まれ、それを瞬時のうちにすでにあることばに伝えもすることになる。
その結果として、ことばは意味が明確になるというよりも、いっそう複雑になる。輻輳する。あいまいさのなかに遠ざかる。
だが、このあいまいなまま遠ざかることが、同時に、「なぞり」を促す。先へ先へと岩成のあたらしいことば、岩成の精神の内部で生成してくることばを誘う。言わばそれは、岩成のことばの「誘い水」として遠ざかる。
この運動には限りがない。「到達不能」ということばが途中に出てくるが、到達不能と知りながら、それでもことばを動かす。ことばはこんなにも動き回れる、動き続けることができる--岩成の書きたいのは「もの」ではなく、動き続けることができるということばそのもののエネルギーのありようなのだと思う。
「到達不能」と知りながら、それでも動き続けることばのエネルギーそのものに岩成はなりたいのだと思う。このような詩において、何が書かれていたかということは重要ではない。何行書き続けることができたかが重要である。そして、読者にとっては、やはり何を読み取ることができたかが重要ではなく、何行読み続けることができたかが重要である。読み続けることができれば、それは岩成のことばのエネルギーを信じることができた(ことばにリアリティーを感じることができた)ということであり、読み通せなければ、それは岩成の書いていることが信じられなかったということである。「信じる・信じない」は、読者の内部のことばの自在性(可塑性)にかかっている。そういう意味では、岩成のことばは、いわば読者を試しているのだともいえるかもしれない。岩成は、いわなりのことばをなぞりとおせる人にだけ向けてことばを動かしている。
粘着力の強いことばなのに、どこかですっきりしているのは、そうした諦念のようなものが隠れているからかもしれない。