城戸朱理「水の否決」(「ガニメデ」37)。
たいへん魅力的なタイトルだ。同じように書き出しも魅力的だ。
アスファルトの道ではない自然の道、それを感じる肉体の不思議な認識力--たしかにこういうことはある。道のない山の中を歩いていて、あ、こっちへいくと水があるなとわかる瞬間がある。足首や膝、腰もそれを感じるけれど、特に足裏、足の指のうごきなどが、土に反応する。肉体の記憶を呼び覚まされるようで、ぐいと引き込まれた。
だが、次の瞬間、とても違和感を感じた。やわらかい土の中に硬い小石がまじっているのを踏みつけたときのような、いやな感じ、足首や膝、腰まで反応してしまうし、上半身もバランスをとるために動いてしまうような違和感。
これは「足裏」が発した「疑問」だろうか。そんなふうには思えない。
「川岸」という認識には「足裏」以外の肉体が関与している。たとえば目。視線が川の水を見ている。そして、記憶が川岸というものがどの程度水を含んでいるかを無意識のうちに判断し、その判断と「足裏」の実感との違和を浮かび上がらせる。それはよくわかるが、そのとき、「足裏」が「川岸が/こんなにも乾いているのは/なぜなのだろう」と疑問に思うとは私の肉体には思えない。「足裏」は何も考えない。ただ感じるだけのものだ。感じたものを肉体全体に伝えるだけのものだ。ただ感じ、その感じを感じのまま伝えるからこそ、つまりそこに信頼できる何かが生まれる。肉体を信じるとはそういうことだと思う。そうしたとき「わかる」ということが起きる。この土地がどれくらい水分を含んでいるかが「わかる」とは、そういう信頼関係のことだ。
「足裏」の魅力的な認識能力を書きながら、城戸は突然、「足裏」という肉体を放棄する。捨て去る。
肉体を放棄して、純粋に「精神」(あるいは「脳」「頭脳」と言った方が城戸の場合、正確かもしれない)の方へ傾いてしまう。
ここにはもはや「足裏」の入り込む余地はない。
「足裏」がほんとうに「生涯」というようなものを思いめぐらすなら思いめぐらしてもいい。実際にそうであるなら、その思いめぐらしこそ読んでみたいが、そういう肉体をきちんと見つめなおした詩を城戸は書かないだろう。(残念なことだが)
なんだか「足裏」の魅力的なありようは読者をだますための作為のように(ほんとうに城戸が感じたことではないように)思えてしまうのだ。
「足裏」の触覚--そういうものを城戸は信じていないだろう。城戸の肉体には「足裏」などないのだと思う。城戸に肉体があるとしたら、たぶん目、視力が肉体を代表するだろう。引用のつづき。
「人が川の源を見たいと思うのは。」の「見たい」をささえるのは目であり、視力である。もし「足裏」(少なくとも足)が思考し続ける、感情を維持しつづけるなら、「見たい」ということばはここでは登場しないだろう。濡らしたい、触れたい、というようなことばに代表される欲望だろう。
それに先立つ「起源から隔てられるようにして。」ということばの「隔てられる」を感じている肉体も点検してみなければならないだろう。「足裏」が水分が遠い、水分が遠くに隔てられていると感じるように(第1連は、そういうことを書こうとしていたように私には思える)、肉体で感じたことが書かれているわけではない。「名指しえぬ感情」と城戸は書いている。ここには肉体を離れた「感情」、センチメンタルな概念だけがあり、それがかってにことばを動かしているように思えて仕方がない。
私は詩に肉体がなければならないとは必ずしも思わない。「頭脳」の詩があっていい。しかし「頭脳」の詩を書くなら、そこに「足裏」、その肉体だけが感じるようなもので読者を誘い込むような奇妙な「技法」はとるべきではないと思う。
もっと純粋に「頭脳」を主体にして、精神を主体にして、肉体など関係ないという詩を城戸は書くべきなのではないだろうか。
たいへん魅力的なタイトルだ。同じように書き出しも魅力的だ。
こうやって歩き
歩きつづけていると
土地という土地が
どのていどの水を含んでいるものなのか
足裏から伝わってくるようになるのだが
アスファルトの道ではない自然の道、それを感じる肉体の不思議な認識力--たしかにこういうことはある。道のない山の中を歩いていて、あ、こっちへいくと水があるなとわかる瞬間がある。足首や膝、腰もそれを感じるけれど、特に足裏、足の指のうごきなどが、土に反応する。肉体の記憶を呼び覚まされるようで、ぐいと引き込まれた。
だが、次の瞬間、とても違和感を感じた。やわらかい土の中に硬い小石がまじっているのを踏みつけたときのような、いやな感じ、足首や膝、腰まで反応してしまうし、上半身もバランスをとるために動いてしまうような違和感。
だとしたら川岸が
こんなにも乾いているのは
なぜなのだろう--
これは「足裏」が発した「疑問」だろうか。そんなふうには思えない。
「川岸」という認識には「足裏」以外の肉体が関与している。たとえば目。視線が川の水を見ている。そして、記憶が川岸というものがどの程度水を含んでいるかを無意識のうちに判断し、その判断と「足裏」の実感との違和を浮かび上がらせる。それはよくわかるが、そのとき、「足裏」が「川岸が/こんなにも乾いているのは/なぜなのだろう」と疑問に思うとは私の肉体には思えない。「足裏」は何も考えない。ただ感じるだけのものだ。感じたものを肉体全体に伝えるだけのものだ。ただ感じ、その感じを感じのまま伝えるからこそ、つまりそこに信頼できる何かが生まれる。肉体を信じるとはそういうことだと思う。そうしたとき「わかる」ということが起きる。この土地がどれくらい水分を含んでいるかが「わかる」とは、そういう信頼関係のことだ。
「足裏」の魅力的な認識能力を書きながら、城戸は突然、「足裏」という肉体を放棄する。捨て去る。
肉体を放棄して、純粋に「精神」(あるいは「脳」「頭脳」と言った方が城戸の場合、正確かもしれない)の方へ傾いてしまう。
水に拒否されるもの、
川に否決されるとき
生涯というものはものうく
瞬(またた)けば余生が始まっている
(谷内注 「ものうく」は立心偏に「頼」の正字、漢字が表記でき
ないのでひらがなで代用)
ここにはもはや「足裏」の入り込む余地はない。
「足裏」がほんとうに「生涯」というようなものを思いめぐらすなら思いめぐらしてもいい。実際にそうであるなら、その思いめぐらしこそ読んでみたいが、そういう肉体をきちんと見つめなおした詩を城戸は書かないだろう。(残念なことだが)
なんだか「足裏」の魅力的なありようは読者をだますための作為のように(ほんとうに城戸が感じたことではないように)思えてしまうのだ。
「足裏」の触覚--そういうものを城戸は信じていないだろう。城戸の肉体には「足裏」などないのだと思う。城戸に肉体があるとしたら、たぶん目、視力が肉体を代表するだろう。引用のつづき。
とどこおるように
かえりみるように
ふるさとに包まれて
起源から隔てられるようにして。
そんなときだ、
たとえば「祖国」という言葉のように
名指しえぬ感情が生まれるのは。
たとえば、そんなときだ
人が川の源を見たいと思うのは。
「人が川の源を見たいと思うのは。」の「見たい」をささえるのは目であり、視力である。もし「足裏」(少なくとも足)が思考し続ける、感情を維持しつづけるなら、「見たい」ということばはここでは登場しないだろう。濡らしたい、触れたい、というようなことばに代表される欲望だろう。
それに先立つ「起源から隔てられるようにして。」ということばの「隔てられる」を感じている肉体も点検してみなければならないだろう。「足裏」が水分が遠い、水分が遠くに隔てられていると感じるように(第1連は、そういうことを書こうとしていたように私には思える)、肉体で感じたことが書かれているわけではない。「名指しえぬ感情」と城戸は書いている。ここには肉体を離れた「感情」、センチメンタルな概念だけがあり、それがかってにことばを動かしているように思えて仕方がない。
私は詩に肉体がなければならないとは必ずしも思わない。「頭脳」の詩があっていい。しかし「頭脳」の詩を書くなら、そこに「足裏」、その肉体だけが感じるようなもので読者を誘い込むような奇妙な「技法」はとるべきではないと思う。
もっと純粋に「頭脳」を主体にして、精神を主体にして、肉体など関係ないという詩を城戸は書くべきなのではないだろうか。