豊原清明「夢を捨てて木の傷」(「火曜日」87)。
書き出しが面白い。
「ぜいたくは、敵」という突然の転換がおかしい。そして、そのことばを思い出して「落ち込む」という感覚がすてきだ。世間にはいやなことばが満ちている。それは肉体にも染み付いている。そうしたことばひとつひとつに好き嫌いという感覚を持っていて、それをはっきり書くことができる、というのが豊原の詩の楽しさだ。
2行目の「こう、」ということばもすばらしい。「こう、」といわれても具体的には何もわからない。わからないのに「こう、」と自分のなかでことばを探すときの感覚が、頭のなかの感覚ではなく、肉体の、身振り手振りとなって肉体を揺さぶる。肉体のなかの何かが刺激されて、すっと読んでしまう。
豊原のことばには、いつも確かな肉体がある。それもアスリートのように鍛えられた肉体というのではなく、ちょっとだらしない(?)甘やかされた肉体がある。その十分に甘やかされた肉体の感覚が、甘く誘う。
2連目の
ああ、いいなあ、と思う。
肉体に染み付いたことば、といえば、「旅に夢を残して」にも、そんなことばが登場する。それは笑いの仕掛けとなって立ち上がってくる。「頭」で笑うのではなく、肉体が笑い出してしまう。
豊原は、真に肉体に染み付いたことばだけで詩を書くことができる天才である。「晩年はゴッホと咳をして/老人よ、元気に成れ。」と笑わせたあと、「若者は疲れやすくなるから。」とすとんとことばを落としてしまうところがいい。
最終連もいい。とてもいいな。
「布団」はもちろん「私小説」の代表作をもじったものだが、そんな遊びよりも、「されど」「られぬ」という突然の「古語」のタイミングがなんともいえずすばらしい。「出来そうや」の口語とぶつかりあって、その衝突がとてもおかしい。こういうことばの、ことば同士の対話は肉体になってしまったことばにしかできない交流だ。
書き出しが面白い。
毎朝、寝床から立ち上がる瞬間、
こう、切り裂かれていく
原っぱの悲惨な光景がポツンと
広がっていく。
「ぜいたくは、敵」
そんな言葉をポッと思い出しては
アッ、しまった!と落ち込む
「ぜいたくは、敵」という突然の転換がおかしい。そして、そのことばを思い出して「落ち込む」という感覚がすてきだ。世間にはいやなことばが満ちている。それは肉体にも染み付いている。そうしたことばひとつひとつに好き嫌いという感覚を持っていて、それをはっきり書くことができる、というのが豊原の詩の楽しさだ。
2行目の「こう、」ということばもすばらしい。「こう、」といわれても具体的には何もわからない。わからないのに「こう、」と自分のなかでことばを探すときの感覚が、頭のなかの感覚ではなく、肉体の、身振り手振りとなって肉体を揺さぶる。肉体のなかの何かが刺激されて、すっと読んでしまう。
豊原のことばには、いつも確かな肉体がある。それもアスリートのように鍛えられた肉体というのではなく、ちょっとだらしない(?)甘やかされた肉体がある。その十分に甘やかされた肉体の感覚が、甘く誘う。
2連目の
ダイエット? 今は起き上がる度に
床が軋むではないか!
うっ、うっ、うっ。くっー
ああ、いいなあ、と思う。
肉体に染み付いたことば、といえば、「旅に夢を残して」にも、そんなことばが登場する。それは笑いの仕掛けとなって立ち上がってくる。「頭」で笑うのではなく、肉体が笑い出してしまう。
少年よ、大志を抱け。
青年よ、青い帆を破け。
中年よ、中志を抱け。
壮年は騒々しくなれ。
晩年はゴッホと咳をして
老人よ、元気に成れ。
若者は疲れやすくなるから。
豊原は、真に肉体に染み付いたことばだけで詩を書くことができる天才である。「晩年はゴッホと咳をして/老人よ、元気に成れ。」と笑わせたあと、「若者は疲れやすくなるから。」とすとんとことばを落としてしまうところがいい。
最終連もいい。とてもいいな。
二十四歳で鼻ちょうちんが出なくなった
今はタコの口をして
風呂の水の中に沈没してゆく
父の小六の顔が思い出され
「私」小説でも出来そうや、
されど、原稿用紙に布団はかけられぬ。
「布団」はもちろん「私小説」の代表作をもじったものだが、そんな遊びよりも、「されど」「られぬ」という突然の「古語」のタイミングがなんともいえずすばらしい。「出来そうや」の口語とぶつかりあって、その衝突がとてもおかしい。こういうことばの、ことば同士の対話は肉体になってしまったことばにしかできない交流だ。