詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「夢を捨てて木の傷」

2006-08-07 16:14:12 | 詩集
 豊原清明「夢を捨てて木の傷」(「火曜日」87)。
 書き出しが面白い。

毎朝、寝床から立ち上がる瞬間、
こう、切り裂かれていく
原っぱの悲惨な光景がポツンと
広がっていく。
「ぜいたくは、敵」
そんな言葉をポッと思い出しては
アッ、しまった!と落ち込む

 「ぜいたくは、敵」という突然の転換がおかしい。そして、そのことばを思い出して「落ち込む」という感覚がすてきだ。世間にはいやなことばが満ちている。それは肉体にも染み付いている。そうしたことばひとつひとつに好き嫌いという感覚を持っていて、それをはっきり書くことができる、というのが豊原の詩の楽しさだ。
 2行目の「こう、」ということばもすばらしい。「こう、」といわれても具体的には何もわからない。わからないのに「こう、」と自分のなかでことばを探すときの感覚が、頭のなかの感覚ではなく、肉体の、身振り手振りとなって肉体を揺さぶる。肉体のなかの何かが刺激されて、すっと読んでしまう。
 豊原のことばには、いつも確かな肉体がある。それもアスリートのように鍛えられた肉体というのではなく、ちょっとだらしない(?)甘やかされた肉体がある。その十分に甘やかされた肉体の感覚が、甘く誘う。
 2連目の

ダイエット? 今は起き上がる度に
床が軋むではないか!
うっ、うっ、うっ。くっー

 ああ、いいなあ、と思う。

 肉体に染み付いたことば、といえば、「旅に夢を残して」にも、そんなことばが登場する。それは笑いの仕掛けとなって立ち上がってくる。「頭」で笑うのではなく、肉体が笑い出してしまう。

少年よ、大志を抱け。
青年よ、青い帆を破け。
中年よ、中志を抱け。
壮年は騒々しくなれ。
晩年はゴッホと咳をして
老人よ、元気に成れ。
若者は疲れやすくなるから。

 豊原は、真に肉体に染み付いたことばだけで詩を書くことができる天才である。「晩年はゴッホと咳をして/老人よ、元気に成れ。」と笑わせたあと、「若者は疲れやすくなるから。」とすとんとことばを落としてしまうところがいい。
 最終連もいい。とてもいいな。

二十四歳で鼻ちょうちんが出なくなった
今はタコの口をして
風呂の水の中に沈没してゆく
父の小六の顔が思い出され
「私」小説でも出来そうや、
されど、原稿用紙に布団はかけられぬ。

 「布団」はもちろん「私小説」の代表作をもじったものだが、そんな遊びよりも、「されど」「られぬ」という突然の「古語」のタイミングがなんともいえずすばらしい。「出来そうや」の口語とぶつかりあって、その衝突がとてもおかしい。こういうことばの、ことば同士の対話は肉体になってしまったことばにしかできない交流だ。



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西川美和監督「ゆれる」

2006-08-07 00:11:26 | 映画
監督 西川美和 出演 香川照之、オダギリジョー

 これは最初から完成した脚本があったのか、それとも映画を撮りながら徐々に脚本を完成させていったのか。後者と思いたい。そんな不思議な映画だ。

 最初に写真を現像しているシーンがある。現像液のなかでゆれる映像。それが何かわからない。ただ現像しているということだけがわかる。このシーンはとても象徴的だ。あらゆる映像は現像の仕方によってかわる、とつげていように思える。
 兄弟がいて、恋人がいて、その奪い合いがある。吊り橋から恋人が落ちる。事故か、殺人か。--ストーリーは「真実」をめぐって、ゆれる。その「ゆれ」もおもしろいが、もっと興味深いのは、兄と弟のこころのゆれである。
 「真実」はひとつのはずなのに、ふたりとも、それをどう語っていいかわからない。真実を語ることが相手に対して何をすることになるのかわからない。自分自身に対しても、それがどんな意味があるのかわからない。「真実」よりもつたえたいことがあるからだ。その微妙な人間の心理を香川照之が絶妙に演じている。
 随所に「嘘」をはさむ。「嘘」に対して弟がどう反応するか(正直に反応するか、嘘で答えるか)をさぐりながら、「嘘」のなかでしか言えないことをいう。どうして、おまえ(弟)がいつも言っていることをおれが言ってはいけないのか。他人への怒り、自分の本音をどうして言ってはいけないのか。そんな心の叫びが、そのまま肉声になって噴出する。その演技、香川照之の演技がすばらしい。
 まるで香川照之がこんな演技がしたい、こんな人間を演じたい、と申し入れてストーリーをつくっていったような感じがする。おとなしい兄、人間のできた兄のこころのなかではこんなことが起きているということを、こんなふうに演じてみたい、と香川が申し入れて人間を造形していったのではないかと思ってしまう。
 その「嘘」のなかにひめられたこころの叫び、それは対抗するようにオダギリジョーが繰り広げる「嘘」と真実。「いい兄」に対することばにならない怒り、憎しみ。
 だれもがことばにならない「声」を肉体のうちに持っている。それを、この兄弟はともに「嘘」でしか語れない。互いに相手を「嘘つき」と思っているのに、その「嘘つき」という批判だけはことばにしない。そこから「ゆれ」がはじまる。だから「ゆれ」のなかにしか「真実」はない。「嘘」と「嘘」のあいだに、声にならない声、真実の声がひそんでいる。
 「嘘つき」と言えればよかったのに、二人とも「嘘つき」と言えないばっかりに、どんどん道を踏み外していく。「ゆれ」つづける。

 香川の演技がなければ成り立たない映画である。



 西川美和の映画は初めて見た。とても鋭い人間観察力を持っていると思う。残念なのは自然描写が美しくない。吊り橋、川の流れ、山が絶対的な存在として浮かび上がってこない。人間を無視して存在を主張してこない。それが見ていて少しつまらない。ただし、街の描写はおもしろい。車の流れ、高速道(?)の表情、ビルの表情、すべてに生々しい動きがある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする