小長谷清実『我が友、泥ん人』(書肆山田)。
小長谷の詩はリズムがあっておもしろい。リズムに誘われてことばを追っているうちに、今、ここではなく、知らない時間、知らない場所へ導かれている。と、書いてしまえば批評はおしまいになってしまう。「なんだか……」ということばがふいに口をついて出て、あれ、これに似たことばはなかったかなと思い返し、詩集をもう一度開く。
「空の破れめ」。その1連目の後半。
「なんだか」ということばが、そこにあった。
この「なんだか」は何だろう。絶対必要なものだろうか。意味上は不必要である。「なんだか」を削除しても意味・論理はかわらない。少なくとも読者にとっては、その1行があろうがなかろうが、何の影響もないように思える。人によってはない方がすっきり読めるという意見もあると思う。
だが、私は、そういう不必要なものに魅せられてしまう。
人は不思議なことに、論理上、あるいは意味上、必要ではないことばを書く。書いてしまう。それは無意識の呼吸のようなもの、息継ぎのようなものである。そういうものが、なぜか私を引きつける。そういうことばに出会うと、私は詩人の肉体に出会ったような気持ちになるのだ。(私は、実際に詩人に会ったことはほとんどない。彼らがどんな肉体をしているか、まったく知らない。)
「なんだか」は読者には必要がない。しかし小長谷には必要なのである。そこで小長谷は呼吸をととのえ、深呼吸し、新しい空気で胸を膨らませて、一気にことばを新たに追い始める。「みたい」「みたい」という連続が、その「一気」というリズムだ。ことばを一気に追いかけながら、追いついた瞬間に、あ、これではない、と気がつき、そのことばから先へさらに進む。すると、ときどきとんでもないことばに出会ってしまう。
これは何? どういう意味か私にはわからない。もちろん、「とりとめのなさ」が小長谷の詩そのものみたい、という意味に理解できることはわかるが、そんな大学入試の答えのような「意味」ではなく、いったいなぜこんな展開になるのか、その意味、小長谷の肉体のなかで動いた力がわからない。そして、わからないからこそ、引きずられ、繰り返し読んでしまう。読みながら、「来し方かたる」という音の美しさに、口が、舌が、のどが、口蓋が、耳が、まるで自分のものではないかのように躍りだすのを感じる。「来し方かたる/経歴みたい」以外のことばが、ここにあるとは思えなくなる。意味ではなく、音が肉体を踊らせる。酔わせる。酩酊させ、それでいいじゃないか、それ以外にありえないじゃないか、とささやく。
詩に酔うのは、こういう瞬間である。
小長谷の詩については音が好き--と書いてしまえば、私はほかに書くことがないのかもしれない。でも、「なんだか」もう少し書いてみたい。もう少し先へ私のことばを動かしてみたい。
「なんだか……みたい」という繰り返し。それは断定を避けたことばである。断定を避け、意識をずらす。そのとき存在(ことばの対象)がずれる。その「ずれ」あるいは「揺らぎ」のなかに存在するものがある。揺らぎの振幅、音楽でいう和音のようなもの。「ハモる」といえばいいのか、別個のものが互いを認識しながら、自分であって自分ではない存在に変わってしまう瞬間。不思議な「親和力」がそのとき、「ずれ」と一緒に浮かび上がる。「ずれ」と「ずれ」の隙間からではなく、「ずれ」そのものが「親和力」としてうかひあがる。それはたとえば「ド」と「ミ」の長調の3度の和音を聞くとき、肉体がドでもミでもなく、その融合、揺らぎを聞くのと似ている。
小長谷が書きたいのは、たぶん、そういものだと思う。ことばによる音楽を書きたいのだと思う。
先の引用では、そうしたことばそのものの音楽の楽しみは少し遠ざけられているかもしれない。おもしろい音楽の行を引用しておく。「ドアを押し、叩いて」。
「けちゃっぷ……」の1行は、音にかかわる肉体すべてをくすぐる。同時に「たゆたひゆれる」の突然の「旧かなづかい」の出現が、脳をもくすぐる。「たゆたい」と書いてしまえば、この行はつまらない。「たゆたひ(たゆたふ)」だからこそ「ぷ」「ぽ」という音とも反応する。「は行」と「ぱ行」は本当は違うものかもしれない。だからこそここでくすぐられているのは肉体ではなく、脳という感じがするのだ。
脳をくすぐるといえば、「推敲の果てには……」の2行も肉体ではなく、脳を刺激する。なぜ突然、ここにこんな堅苦しいことばが出てくる? タイトルとも関係があるし、引用のすぐ前に出てくることばとも関係する。「ドアを押し、叩いて」。推敲とは、唐の詩人の1行に由来することばである。「門を推して」(押して)がいいのか「敲いて」(叩いて)がいいのか。
小長谷の詩には音楽と古典が同居している。そのどちらも、読者をくすぐる。愉快にさせる。
小長谷の詩はリズムがあっておもしろい。リズムに誘われてことばを追っているうちに、今、ここではなく、知らない時間、知らない場所へ導かれている。と、書いてしまえば批評はおしまいになってしまう。「なんだか……」ということばがふいに口をついて出て、あれ、これに似たことばはなかったかなと思い返し、詩集をもう一度開く。
「空の破れめ」。その1連目の後半。
その
とりとめのなさは
なんだか
わたしの住む世界みたい、
わたしの
こころの在りようみたい、
顔みたい、
はらわたみたい、
影みたい、
来し方かたる
経歴みたい
「なんだか」ということばが、そこにあった。
この「なんだか」は何だろう。絶対必要なものだろうか。意味上は不必要である。「なんだか」を削除しても意味・論理はかわらない。少なくとも読者にとっては、その1行があろうがなかろうが、何の影響もないように思える。人によってはない方がすっきり読めるという意見もあると思う。
だが、私は、そういう不必要なものに魅せられてしまう。
人は不思議なことに、論理上、あるいは意味上、必要ではないことばを書く。書いてしまう。それは無意識の呼吸のようなもの、息継ぎのようなものである。そういうものが、なぜか私を引きつける。そういうことばに出会うと、私は詩人の肉体に出会ったような気持ちになるのだ。(私は、実際に詩人に会ったことはほとんどない。彼らがどんな肉体をしているか、まったく知らない。)
「なんだか」は読者には必要がない。しかし小長谷には必要なのである。そこで小長谷は呼吸をととのえ、深呼吸し、新しい空気で胸を膨らませて、一気にことばを新たに追い始める。「みたい」「みたい」という連続が、その「一気」というリズムだ。ことばを一気に追いかけながら、追いついた瞬間に、あ、これではない、と気がつき、そのことばから先へさらに進む。すると、ときどきとんでもないことばに出会ってしまう。
来し方かたる
経歴みたい
これは何? どういう意味か私にはわからない。もちろん、「とりとめのなさ」が小長谷の詩そのものみたい、という意味に理解できることはわかるが、そんな大学入試の答えのような「意味」ではなく、いったいなぜこんな展開になるのか、その意味、小長谷の肉体のなかで動いた力がわからない。そして、わからないからこそ、引きずられ、繰り返し読んでしまう。読みながら、「来し方かたる」という音の美しさに、口が、舌が、のどが、口蓋が、耳が、まるで自分のものではないかのように躍りだすのを感じる。「来し方かたる/経歴みたい」以外のことばが、ここにあるとは思えなくなる。意味ではなく、音が肉体を踊らせる。酔わせる。酩酊させ、それでいいじゃないか、それ以外にありえないじゃないか、とささやく。
詩に酔うのは、こういう瞬間である。
小長谷の詩については音が好き--と書いてしまえば、私はほかに書くことがないのかもしれない。でも、「なんだか」もう少し書いてみたい。もう少し先へ私のことばを動かしてみたい。
「なんだか……みたい」という繰り返し。それは断定を避けたことばである。断定を避け、意識をずらす。そのとき存在(ことばの対象)がずれる。その「ずれ」あるいは「揺らぎ」のなかに存在するものがある。揺らぎの振幅、音楽でいう和音のようなもの。「ハモる」といえばいいのか、別個のものが互いを認識しながら、自分であって自分ではない存在に変わってしまう瞬間。不思議な「親和力」がそのとき、「ずれ」と一緒に浮かび上がる。「ずれ」と「ずれ」の隙間からではなく、「ずれ」そのものが「親和力」としてうかひあがる。それはたとえば「ド」と「ミ」の長調の3度の和音を聞くとき、肉体がドでもミでもなく、その融合、揺らぎを聞くのと似ている。
小長谷が書きたいのは、たぶん、そういものだと思う。ことばによる音楽を書きたいのだと思う。
先の引用では、そうしたことばそのものの音楽の楽しみは少し遠ざけられているかもしれない。おもしろい音楽の行を引用しておく。「ドアを押し、叩いて」。
推敲の果てには いつかきっと
たどり着くところは コトバは
けちゃっぷちゃぷちゃぽたゆたひゆれる
食堂の端っこ 食卓の端っこ
「けちゃっぷ……」の1行は、音にかかわる肉体すべてをくすぐる。同時に「たゆたひゆれる」の突然の「旧かなづかい」の出現が、脳をもくすぐる。「たゆたい」と書いてしまえば、この行はつまらない。「たゆたひ(たゆたふ)」だからこそ「ぷ」「ぽ」という音とも反応する。「は行」と「ぱ行」は本当は違うものかもしれない。だからこそここでくすぐられているのは肉体ではなく、脳という感じがするのだ。
脳をくすぐるといえば、「推敲の果てには……」の2行も肉体ではなく、脳を刺激する。なぜ突然、ここにこんな堅苦しいことばが出てくる? タイトルとも関係があるし、引用のすぐ前に出てくることばとも関係する。「ドアを押し、叩いて」。推敲とは、唐の詩人の1行に由来することばである。「門を推して」(押して)がいいのか「敲いて」(叩いて)がいいのか。
小長谷の詩には音楽と古典が同居している。そのどちらも、読者をくすぐる。愉快にさせる。