坂本つや子「見知らぬ人」(「すてむ」35)。
第二次大戦中、中国で助けられた記憶を描いている。風邪をひいて熱で動けない。そのときの中国人との偶然の出会い。やさしいことば。
すばらしい行だ。
「しっかり出汁をとった」の「しっかり」の向こう側に、親切にしてくれる見知らぬ人の人柄が滲む。何事に対しても自分のできる限りのことをする人柄が滲む。
その「うどんのにおい」はそしてあたたかいにおいだ。あたたかさそのものだ。においをとおして、あたたかさが坂本の体のなかへ入っていく。そして体を苦しめる熱そのものを追い出して行く。
「幸せ」の実感が、肉体そのものとして伝わってくる。
「恥しい」が、また美しい。先に引用した行の「案じてくれる」(案じる)ということばの深さと同じように、ここには、そのことばでしかあらわすことのできない深々とした日本語の美しさ、生きている人間が受け継いできたことばの美しさがある。
「幸せ」を恥じ入る必要は人間にはない。しかし、人はかつて「幸せ」を恥ずかしいと感じたことがあった。それはきっと幸せな自分は誰かに対して何ができるか、という自問でもあったのだと思う。
「幸せ」が恥ずかしくないためには、うどんの出汁のように、「しっかり」と生きなければならない。「しっかり」とは「丁寧」でもある。自分にも、他人にも丁寧に。こうしたことは「道徳」の教科書の説明でも書いているようなことかもしれない。だが、坂本のことばを読んでいると、自然にそうしたことばが出てきてしまう。誘い出されてしまう。忘れていた何かに触れて、私自身が生まれ変わるような気がする。
その気持ちを、きょうは大切に持ち続けたいと思った。
*
同じ「すてむ」35の、松尾茂夫「金魚の死」。その5連目。
「タイヘンダァ! 」に私は、坂本の書いた「しっかり出汁をとったうどん」の「しっかり」と通い合うものを感じる。「しっかり」も「大変」も本当はとても簡単なことである。簡単であるために人は手抜きをしてしまいがちだ。手抜きをしても、どうこう問題になることではないと思ってしまいがちだ。たぶん、ほんの小さなことが「しっかり」とそうではないものを分けるのである。「大変」と大変ではないものを分けるのだ。そのささいなもの、小さなもの(6連目で、松尾はそれを「つまらぬこと」と書いているが)を、明確に見抜く目が、ここにある。
ささいなこと、ちいさなことへの向き合い方のなかに「やさしさ」があらわれる。その人の人間性があらわれる。そんなことに「人間性」があらわれる、と書かれては、たぶん松尾は恥ずかしがるだろう。だからこそ「タイヘンダァ! 」とおおげさに驚いて見せる。「おれより長生きしそうじゃないか」とおどけて見せる。そうやって「恥ずかしさ」をユーモアのなかに隠す。
こういうことばの動きが私は大好きだ。
第二次大戦中、中国で助けられた記憶を描いている。風邪をひいて熱で動けない。そのときの中国人との偶然の出会い。やさしいことば。
見知らぬ人の案じてくれる声は しっかり出汁(だし)をとった掛けうどんのにおいがする
すばらしい行だ。
「しっかり出汁をとった」の「しっかり」の向こう側に、親切にしてくれる見知らぬ人の人柄が滲む。何事に対しても自分のできる限りのことをする人柄が滲む。
その「うどんのにおい」はそしてあたたかいにおいだ。あたたかさそのものだ。においをとおして、あたたかさが坂本の体のなかへ入っていく。そして体を苦しめる熱そのものを追い出して行く。
「幸せ」の実感が、肉体そのものとして伝わってくる。
ゆるやかな耳鳴りのなか 切れぎれに眠っているわたしは恥しい程幸せだった 空腹からも戦争からも保護されているひととき
「恥しい」が、また美しい。先に引用した行の「案じてくれる」(案じる)ということばの深さと同じように、ここには、そのことばでしかあらわすことのできない深々とした日本語の美しさ、生きている人間が受け継いできたことばの美しさがある。
「幸せ」を恥じ入る必要は人間にはない。しかし、人はかつて「幸せ」を恥ずかしいと感じたことがあった。それはきっと幸せな自分は誰かに対して何ができるか、という自問でもあったのだと思う。
「幸せ」が恥ずかしくないためには、うどんの出汁のように、「しっかり」と生きなければならない。「しっかり」とは「丁寧」でもある。自分にも、他人にも丁寧に。こうしたことは「道徳」の教科書の説明でも書いているようなことかもしれない。だが、坂本のことばを読んでいると、自然にそうしたことばが出てきてしまう。誘い出されてしまう。忘れていた何かに触れて、私自身が生まれ変わるような気がする。
その気持ちを、きょうは大切に持ち続けたいと思った。
*
同じ「すてむ」35の、松尾茂夫「金魚の死」。その5連目。
思いついて金魚の寿命を調べてみた
八歳から十五歳、三十歳の例もある
タイヘンダァ!
このチビッコども
おれより長生きしそうじゃないか
「タイヘンダァ! 」に私は、坂本の書いた「しっかり出汁をとったうどん」の「しっかり」と通い合うものを感じる。「しっかり」も「大変」も本当はとても簡単なことである。簡単であるために人は手抜きをしてしまいがちだ。手抜きをしても、どうこう問題になることではないと思ってしまいがちだ。たぶん、ほんの小さなことが「しっかり」とそうではないものを分けるのである。「大変」と大変ではないものを分けるのだ。そのささいなもの、小さなもの(6連目で、松尾はそれを「つまらぬこと」と書いているが)を、明確に見抜く目が、ここにある。
ささいなこと、ちいさなことへの向き合い方のなかに「やさしさ」があらわれる。その人の人間性があらわれる。そんなことに「人間性」があらわれる、と書かれては、たぶん松尾は恥ずかしがるだろう。だからこそ「タイヘンダァ! 」とおおげさに驚いて見せる。「おれより長生きしそうじゃないか」とおどけて見せる。そうやって「恥ずかしさ」をユーモアのなかに隠す。
こういうことばの動きが私は大好きだ。