粕谷栄市「もぐら座」(「現代詩手帖」9月号)。
ここから何が始まるか。何も始まらない。実際には何もしないまま、ただ「うどん屋」の夢を見ているだけである。ある一日、客の来ないどん屋で、ぼんやりしている。そういう夢を見ているだけである。
ところが、その夢を語っているうちに奇妙なことが起きる。夢のなかで、「うどん屋」がまた別の夢を見るのである。「夢のなかの夢」が描かれるのである。
そして……。
これは、夢見られた「うどん屋」に起きたことである。
そのとき、「うどん屋」になってぼんやり一日を過ごしたいとは思っていた「私」(粕谷)はどこへ消えたのか。
それとも、消えてしまうことまで「私」の夢のつづきなのだろうか。
たぶん、書いているのが粕谷であるから、夢のなかのうどん屋が消えてしまうことも、粕谷の夢なのだ。
だが、そのとき「今となっては、誰も知る由もないのだ。」というときの「誰」とはいったい誰だろうか。「その日」というのは「夢見られたうどん屋」(夢のなかのうどん屋)にとっての一日だろうから、それは「夢見られたうどん屋」の周囲の人だろうか。
それとも、「誰も知る由もなかった」ということも、最初に登場する「私」(粕谷)の夢だろうか。
物語の中に物語が紛れ込んで、主語が見分けられなくなる。というよりも、私は主語を見分けることを忘れて読んでしまう。
粕谷にとっての「詩」とは、そうした主語が見分けられなくなって、その見分けられないという世界を時間が流れていくということなのだろう。
入沢にとって、「架空」は、ある特定の時間、一瞬の時間である。ある一瞬に、世界が現実のものか架空のものかわからなくなる。「もの」(こと)の境界が入り乱れる。そこでは時間が静止している。時間が静止したために、「もの」がかってに動いてしまった。それを見ている「私」(入沢)は揺るがない。「私」は現在という時間から、ある瞬間(ものが入り乱れる瞬間)を見ていて、入り乱れるがゆえに「偽記憶」と呼ぶ。そこには記憶は入り乱れてはいけないという「常識」がある。判別がつかない記憶はどこか間違っているという「常識」がある。あるいは、そういう「常識」を笑ってみせる精神がある。たぶん、後者の方、つまり、どちらが本当であり、どちらが幻かわからないような記憶は記憶として不十分であるという常識に対して、「そうかな」と疑問をつきつけ、常識にこだわる読者を笑ってみせるというのが入沢の試みかもしれない。
これに対して、粕谷は、「物語」のなかへずるずると入っていく。「物語」のなかで、入沢の作品と違って「もの」が何かに変わるということはない。変わるのは「人間」そのものがかわる。「もの」の真偽は問題にならない。「人間」の真偽--どちらが粕谷かということが問題になる。そして、よくよく考えてみれば、どちらも粕谷である。どちらが粕谷かと問うてみることは、ぜんぜん楽しくない。「私」という「枠」がとけてしまって、時間となって、ずるずると流れてしまう。ずるずるっと溶けるために「物語」という構造、架空が必要なだけである。
時間が、ずるずるっと溶けて、最後に「もの」が残る。たとえば星が、星空が。それは「唯一」の存在である。
入沢の「偽記憶」(幻)が真実と偽という「二つの存在」、そしてそれをみつめる「唯一の精神」によって構成されるのに対し、粕谷の「物語」は、見分けのつかない「いくつかの私」(融合した私)と「一つのもの」によって構成される。
たぶん「時間」に対する考え方が入沢と粕谷ではまったく違うのだろう。
たぶん、できないだろうが、もし、できることなら、
私は、遠いその田舎町で、一日だけ、うどん屋になって
過ごしたい。とは言っても、私は怠け者だ。本当は、何
もしないで、ぼんやりしていたい。
ここから何が始まるか。何も始まらない。実際には何もしないまま、ただ「うどん屋」の夢を見ているだけである。ある一日、客の来ないどん屋で、ぼんやりしている。そういう夢を見ているだけである。
ところが、その夢を語っているうちに奇妙なことが起きる。夢のなかで、「うどん屋」がまた別の夢を見るのである。「夢のなかの夢」が描かれるのである。
そして……。
そして、夜更け、やって来た三人目の客も、私そっく
りのもぐらの顔をした女だった。驚いたことに、彼女は、
入ってくるなり、いきなり、私に抱きついてきた。
それから、何がどうなったかは、その女に聞いて見な
ければ分からない。分かるのは、その後、暫く、店のの
ぼりが、激しく揺れていたが、やがて、突然、私の小さ
な店は、闇にかき消えてしまったということだけだ。
その一日は、そうして過ぎた。それにしても、その夜、
「もぐら座」の星が、なぜ、誇らしげに、満点に煌いて
いたのか、今となっては、誰も知る由もないのだ。
これは、夢見られた「うどん屋」に起きたことである。
そのとき、「うどん屋」になってぼんやり一日を過ごしたいとは思っていた「私」(粕谷)はどこへ消えたのか。
それとも、消えてしまうことまで「私」の夢のつづきなのだろうか。
たぶん、書いているのが粕谷であるから、夢のなかのうどん屋が消えてしまうことも、粕谷の夢なのだ。
だが、そのとき「今となっては、誰も知る由もないのだ。」というときの「誰」とはいったい誰だろうか。「その日」というのは「夢見られたうどん屋」(夢のなかのうどん屋)にとっての一日だろうから、それは「夢見られたうどん屋」の周囲の人だろうか。
それとも、「誰も知る由もなかった」ということも、最初に登場する「私」(粕谷)の夢だろうか。
物語の中に物語が紛れ込んで、主語が見分けられなくなる。というよりも、私は主語を見分けることを忘れて読んでしまう。
粕谷にとっての「詩」とは、そうした主語が見分けられなくなって、その見分けられないという世界を時間が流れていくということなのだろう。
入沢にとって、「架空」は、ある特定の時間、一瞬の時間である。ある一瞬に、世界が現実のものか架空のものかわからなくなる。「もの」(こと)の境界が入り乱れる。そこでは時間が静止している。時間が静止したために、「もの」がかってに動いてしまった。それを見ている「私」(入沢)は揺るがない。「私」は現在という時間から、ある瞬間(ものが入り乱れる瞬間)を見ていて、入り乱れるがゆえに「偽記憶」と呼ぶ。そこには記憶は入り乱れてはいけないという「常識」がある。判別がつかない記憶はどこか間違っているという「常識」がある。あるいは、そういう「常識」を笑ってみせる精神がある。たぶん、後者の方、つまり、どちらが本当であり、どちらが幻かわからないような記憶は記憶として不十分であるという常識に対して、「そうかな」と疑問をつきつけ、常識にこだわる読者を笑ってみせるというのが入沢の試みかもしれない。
これに対して、粕谷は、「物語」のなかへずるずると入っていく。「物語」のなかで、入沢の作品と違って「もの」が何かに変わるということはない。変わるのは「人間」そのものがかわる。「もの」の真偽は問題にならない。「人間」の真偽--どちらが粕谷かということが問題になる。そして、よくよく考えてみれば、どちらも粕谷である。どちらが粕谷かと問うてみることは、ぜんぜん楽しくない。「私」という「枠」がとけてしまって、時間となって、ずるずると流れてしまう。ずるずるっと溶けるために「物語」という構造、架空が必要なだけである。
時間が、ずるずるっと溶けて、最後に「もの」が残る。たとえば星が、星空が。それは「唯一」の存在である。
入沢の「偽記憶」(幻)が真実と偽という「二つの存在」、そしてそれをみつめる「唯一の精神」によって構成されるのに対し、粕谷の「物語」は、見分けのつかない「いくつかの私」(融合した私)と「一つのもの」によって構成される。
たぶん「時間」に対する考え方が入沢と粕谷ではまったく違うのだろう。