『碧南偏執的複合的私言』収録の「ひとみさんこらえるとゆうことは」の書き出しについて再び。
1行目「ひとみさんこらえるとゆうことは」は「ひとみさんこらえるとは」と書き換えても意味はかわならい。「ゆうこと」は省略しても意味は同じである。だが永島は「ひとみさんこらえるとゆうことは」と書く。「ゆうこと」ということばこそが永島の「思想」である。「ゆう」ということに、永島の「思想」があらわれている。
「ゆう」とは「言う」である。それは実際にことばにすること。肉体をくぐらせることである。
「こらえるとは」と抽象的に、つまり自分の外にある概念(ことばの意味)を説明するのではなく、それを自分の肉体で消化したものを、自分の肉体で納得していることがらを、実際に声に出して言う。だれそれの考えを伝達するのではなく、自分の声によって責任を持つ、という「深さ」がそこにある。
また「ひとみさんこらえるとゆうことは」という行の「ひとみさん」と「こらえるとゆうことは」の連続性、読点のない連続性に永島の「思想」があらわれている。その連続制覇、「ひとみさん」と私(永島)との連続性である。同じ肉体を持った人間として、じかにつながっているという意識があるから、そこに「読点」が入り込まない。この「つながり」(連続性)が、永島のことばにうねりをもたらす。「ひとみさん」の肉体と永島の肉体はもちろん別々の存在である。どんなに触れ合っても、ひとつにはつながらない。かならず切断している。その切断しているものを、ことばによって、一種の強引さでつないでいくとき、そこには「うねり」が生じる。「うねり」とは存在の変形である。「ひとみさん」とひとつづきになるとき、永島はそれまでの永島と同一人物ではありえない。何らかの変化(変形)が永島の側に生じている。自分の形を変えて、それでもなおかつ「ひとみさん」につながろうとする。「ひとみさん」に自分の肉体の持っているものを伝えようとする。そこに「うねり」が生まれてくる。
ことばがうねるということは、単に精神がうねるということではない。肉体そのものがうねるということである。自己の肉体をうねらせてでも、つまり自己が変形するという犠牲をはらってでも伝えたいことがある。それこそ、愛というものであろう。「ひとみさん」への愛が「ひとみさんこらえるとゆうことは」から始まることばをうねらせるのである。そのうねりの起点というか、出発点が「ゆうこと」に含まれる肉体である。このとき、うねる肉体、うねりそのものが「思想」になる。うねることば、そのリズム、それこそが永島の「思想」である。単純な直線ではなく、うねり、たわみ、それでも動いていくもの、ことばでは明確に言えないもの、ことばで言おうとしてこぼれてしまうもの、そのこぼれたものをなお拾い上げながら突き進むことばの運動、そのなかにこそ「思想」がある。
「うねり」は反復に通じる。直線的に進むのではなく、進みながら後退し、その後退した場所から再び先に進んだ方向へ進む。その反復運動はけっして同じものではない。常に前に進んだときの何かを肉体が覚えており、それより先に進むために何かをすべきだと肉体にささやきかけるからである。反復するとき、よりより反復のために肉体は「うねり」(ゆがみ)を抱え込む。そのくりかえしのなかで、「うねり」のなかの何かがよりたしかなものになる。「どんなにすばらしくにがい体刑であるか」という行のなかの「体刑」その「体」こそ、私が肉体とこれまで書いてきたものだ。
肉体で知ったこと、肉体がたくわえつづける「知恵」(知識ではない)こそが「思想」というものだろう。「知恵」は「知識」ではないから、ことばでは説明できないものを持っている。頭ではなく、肉体の全体をつかって吸収しなければならないもの、あいまいで、不透明なものを持っている。あいまいで、不透明で、その上をたどろうとすれば、うねりながらでなくては進めないような、何か、「分厚い」内部を抱えたものである。
そうした「知恵」としての「思想」は永島だけが持っているのではない。永島が持っているなら、永島が向き合っている世界も同じように「知恵」としての「思想」、内部の分厚い闇のようなものを持っている。「みえない自らの敵について」は、そうしたことを描いている。
この「みえないもの」をたとえば「ふるさと」と呼べば、永島がこの詩集で書いている「ふるさと」がわかりやすくなるかもしれない。「ふるさと」とは永島にとって郷愁の場ではない。室生犀星が書いているような「ふるさと」とは違って、遠くにあって思うものではない。永島が今生きていて、実際に、そこに肉体を持ったひとびとが、それぞれの肉体のなかに、単独で、同時に共同でつくりあげてきた「知恵」を抱え込んでいる世界である。不透明で分厚い内部を抱え込んで、自在にうねる肉体が集まっている世界である。
その「知恵」のなかには「ことばにならない/ひとのくらしが うきあがっては沈む」(「門のそとで木や花が死んでゆく唄」)のである。「すきまのない ひとのくらし」(「幻影のそとでよみがえる囚人」)が「ふるさと」なのである。
私が今引用した2篇の詩のタイトルは「そと」ということばを含んでいるが、「ふるさと」は永島の外にありながら、同時に永島と連続している。
「外」と書かずに「そと」とひらがなで書いているのは、それが「外」と普通私たちが呼ぶものとは違っていることを伝えたいためだろう。何が違っているかと言えば、普通「外」というとき内と外を区切る「境界線」のようなものが想定されるが、永島の「そと」にはその境界線がない。つまり、いつでも永島と連続している。肉体によって。人間が肉体を持った存在であるということによって。
「ことば」は肉体とは違って自在である。本来は肉体に不可能な動き、運動が可能である。しかし永島はことばをつねに肉体のなかで動かす。動かそうとする。肉体のなかで動いてこそ、つまり肉体と一体であってこそ「知恵」(思想)となるからである。だが、この運動は非常に困難をともなう。ことばは「はるか灯台の あざやかな光りが/一瞬 ひとつの暗示をあたえようとする」ものだからである。ことばが肉体ではたどりつけない何かを暗示し、それに向けて肉体を動かせと暗示する。しかし、簡単に肉体は動かないし、そうした動きを阻もうとする「ふるさと」としての肉体もあるからだ。そして、永島は、そうした「ふるさと」の肉体を否定せず、いのちとして受け入れるからである。正確に向き合い、「ふるさと」といっしょに動いていこうとするからである。
うねりと同時に、そこには不思議にあたたかい粘着力がある。それがことばをつややかにする。
ひとみさんこらえるとゆうことは
どんなに夜の星をかきあつめても
あなたは空のようにひろがれやしない
1行目「ひとみさんこらえるとゆうことは」は「ひとみさんこらえるとは」と書き換えても意味はかわならい。「ゆうこと」は省略しても意味は同じである。だが永島は「ひとみさんこらえるとゆうことは」と書く。「ゆうこと」ということばこそが永島の「思想」である。「ゆう」ということに、永島の「思想」があらわれている。
「ゆう」とは「言う」である。それは実際にことばにすること。肉体をくぐらせることである。
「こらえるとは」と抽象的に、つまり自分の外にある概念(ことばの意味)を説明するのではなく、それを自分の肉体で消化したものを、自分の肉体で納得していることがらを、実際に声に出して言う。だれそれの考えを伝達するのではなく、自分の声によって責任を持つ、という「深さ」がそこにある。
また「ひとみさんこらえるとゆうことは」という行の「ひとみさん」と「こらえるとゆうことは」の連続性、読点のない連続性に永島の「思想」があらわれている。その連続制覇、「ひとみさん」と私(永島)との連続性である。同じ肉体を持った人間として、じかにつながっているという意識があるから、そこに「読点」が入り込まない。この「つながり」(連続性)が、永島のことばにうねりをもたらす。「ひとみさん」の肉体と永島の肉体はもちろん別々の存在である。どんなに触れ合っても、ひとつにはつながらない。かならず切断している。その切断しているものを、ことばによって、一種の強引さでつないでいくとき、そこには「うねり」が生じる。「うねり」とは存在の変形である。「ひとみさん」とひとつづきになるとき、永島はそれまでの永島と同一人物ではありえない。何らかの変化(変形)が永島の側に生じている。自分の形を変えて、それでもなおかつ「ひとみさん」につながろうとする。「ひとみさん」に自分の肉体の持っているものを伝えようとする。そこに「うねり」が生まれてくる。
ことばがうねるということは、単に精神がうねるということではない。肉体そのものがうねるということである。自己の肉体をうねらせてでも、つまり自己が変形するという犠牲をはらってでも伝えたいことがある。それこそ、愛というものであろう。「ひとみさん」への愛が「ひとみさんこらえるとゆうことは」から始まることばをうねらせるのである。そのうねりの起点というか、出発点が「ゆうこと」に含まれる肉体である。このとき、うねる肉体、うねりそのものが「思想」になる。うねることば、そのリズム、それこそが永島の「思想」である。単純な直線ではなく、うねり、たわみ、それでも動いていくもの、ことばでは明確に言えないもの、ことばで言おうとしてこぼれてしまうもの、そのこぼれたものをなお拾い上げながら突き進むことばの運動、そのなかにこそ「思想」がある。
ひとみさんこらえるとゆうことは
おれたちが暗喩の世界だけでしか
なにもすることができないこととはなおとおく
あなたがちいさなあなたたちのために出掛けてゆくことが
どんなにすばらしくにがい体刑であるか
どんなにくるしみなながら光りのなかでよみがえることか
おれたちはそれをたしかなものにしながら
おれたちはそれを反復させて生きているのだ
「うねり」は反復に通じる。直線的に進むのではなく、進みながら後退し、その後退した場所から再び先に進んだ方向へ進む。その反復運動はけっして同じものではない。常に前に進んだときの何かを肉体が覚えており、それより先に進むために何かをすべきだと肉体にささやきかけるからである。反復するとき、よりより反復のために肉体は「うねり」(ゆがみ)を抱え込む。そのくりかえしのなかで、「うねり」のなかの何かがよりたしかなものになる。「どんなにすばらしくにがい体刑であるか」という行のなかの「体刑」その「体」こそ、私が肉体とこれまで書いてきたものだ。
肉体で知ったこと、肉体がたくわえつづける「知恵」(知識ではない)こそが「思想」というものだろう。「知恵」は「知識」ではないから、ことばでは説明できないものを持っている。頭ではなく、肉体の全体をつかって吸収しなければならないもの、あいまいで、不透明なものを持っている。あいまいで、不透明で、その上をたどろうとすれば、うねりながらでなくては進めないような、何か、「分厚い」内部を抱えたものである。
そうした「知恵」としての「思想」は永島だけが持っているのではない。永島が持っているなら、永島が向き合っている世界も同じように「知恵」としての「思想」、内部の分厚い闇のようなものを持っている。「みえない自らの敵について」は、そうしたことを描いている。
まっくら闇の海のなかを
なにもしらずに知らされず
あえぎあえぎ あるいてゆくと
だれかが 待っているのだどこかに
どこにいるのだ その得たいのしれないやつ
なおも おくへおくへと掻きわけてゆくのだが
いっこうに そいつは現われようとはしない
はるか灯台の あざやかな光りが
一瞬 ひとつの暗示をあたえようとするが
だれも そいつを信じているわけではなく
まっくら闇の海のうねりは
音 ひとつないしずけさをたもちながら
なにか ものすごく巨きなやつが
なまぐさい いやな匂いを放ちながら
腰をひねらせて 横柄にねころがっているのだ
この「みえないもの」をたとえば「ふるさと」と呼べば、永島がこの詩集で書いている「ふるさと」がわかりやすくなるかもしれない。「ふるさと」とは永島にとって郷愁の場ではない。室生犀星が書いているような「ふるさと」とは違って、遠くにあって思うものではない。永島が今生きていて、実際に、そこに肉体を持ったひとびとが、それぞれの肉体のなかに、単独で、同時に共同でつくりあげてきた「知恵」を抱え込んでいる世界である。不透明で分厚い内部を抱え込んで、自在にうねる肉体が集まっている世界である。
その「知恵」のなかには「ことばにならない/ひとのくらしが うきあがっては沈む」(「門のそとで木や花が死んでゆく唄」)のである。「すきまのない ひとのくらし」(「幻影のそとでよみがえる囚人」)が「ふるさと」なのである。
私が今引用した2篇の詩のタイトルは「そと」ということばを含んでいるが、「ふるさと」は永島の外にありながら、同時に永島と連続している。
「外」と書かずに「そと」とひらがなで書いているのは、それが「外」と普通私たちが呼ぶものとは違っていることを伝えたいためだろう。何が違っているかと言えば、普通「外」というとき内と外を区切る「境界線」のようなものが想定されるが、永島の「そと」にはその境界線がない。つまり、いつでも永島と連続している。肉体によって。人間が肉体を持った存在であるということによって。
「ことば」は肉体とは違って自在である。本来は肉体に不可能な動き、運動が可能である。しかし永島はことばをつねに肉体のなかで動かす。動かそうとする。肉体のなかで動いてこそ、つまり肉体と一体であってこそ「知恵」(思想)となるからである。だが、この運動は非常に困難をともなう。ことばは「はるか灯台の あざやかな光りが/一瞬 ひとつの暗示をあたえようとする」ものだからである。ことばが肉体ではたどりつけない何かを暗示し、それに向けて肉体を動かせと暗示する。しかし、簡単に肉体は動かないし、そうした動きを阻もうとする「ふるさと」としての肉体もあるからだ。そして、永島は、そうした「ふるさと」の肉体を否定せず、いのちとして受け入れるからである。正確に向き合い、「ふるさと」といっしょに動いていこうとするからである。
うねりと同時に、そこには不思議にあたたかい粘着力がある。それがことばをつややかにする。