岡本勝人「亡き父のための都市の詩学」(「ガニメデ」37)。
なつかしい詩を読むときのような、静かな気持ちになる。たとえば、冒頭の「都市が暮れ色に染まるとき」。
「日常からこぼれおちた」「顔の異なった」「宇宙の全体」。ある一瞬に宇宙の全体を見る。そういう視線がなつかしい。そういう視線がこころを静かにさせるのだろう。それだけなら、私は、たぶんこの詩の感想を書かない。
こころを静かにさせると私は書いたけれど、実は、この詩はどこか不気味である。特に2連目が不気味である。最後の3行は私にはどうしてもセザンヌの絵に見えてしまう。ところがこの詩には「セザンヌ」は登場しない。1連目にたくさんの人名や特定の場所が出てくるのに、「セザンヌ」の名前がない。
何よりも不気味なのは2連目の2行目と3行目のつながりぐあいである。2行目でいったん文脈は完結するのだろうか。そうであるなら、この作品は「暮れ色に染まる時間の宇宙全体をしめしていた」という行のあとにこそ「一行空き」が必要だろう。2連目の2行は1連目に結びついていた方がわかりやすいだろう。
「顔の異なった」は「宇宙」にかかることばなのに1行目と2行目には行のわたりがあり、別の世界を描いている「暮れ色に……」の行と「テーブルのうえの……」が「空き」もなくすぐ隣に結びつく。
この不安定な行の構成そのものに、岡本の「詩」はあるのかもしれない。存在と存在の境目が揺らぐ。揺さぶりをかけられて、そこからはみだしてしまう。はみだしたものが本来結びつくはずのものではないものと結びついてしまう。いや、岡本の詩の場合、結びつくというより、別の存在の隣に並列してしまうといえばいいだろうか。
異質なものが並列する。たとえば「電車の音」と「クラシック音楽」。そのとき、その並列によって何かが照らしだされ、そこから誘い出されるのか、押し出されるのかして、存在そのものからはみだしてしまう。「電車の音」は電車の音ではなくなり、クラシック音楽はクラシック音楽ではなくなる。つまり「日常からこぼれ落ちた顔」になってしまう。それは宇宙の全体をしめしている。
それは宇宙全体をしめしている……か、どうか。実は、そう読んでいいのかどうか、私にはわからない。「宇宙の全体をしめしていた」はもしかすると1行目、2行目の行のわたりのように3行目の「テーブル」に行わたりでかかることばかもしれない。
「宇宙の全体」に呼応することば「小宇宙」はセザンヌと思われる絵の構成、その部分について言われているからである。
ことばの「境目」がどこかあいまいなところがある。揺れるところがある。そこから何かが噴き出そうとしている。それが不気味である。同時に、何か緊張感を誘う。もしかすると、この緊張感こそが本当は静けさのもとかもしれない。
「境目」と私は書いた。実は、このことばは岡本の別作品のなかに存在することばである。「手帳のなかの記号は現在をしめす」。
「純粋時間」とは「日常からこぼれおちた」「顔のことなった」「暮れ色にそまる時間」の「宇宙の全体」のことになるだろう。
「境目」に似たことばは、たとえば「都市と海と砂漠の信号機を越えて」のなかの次の行にも見られる。
「死」とは「日常からこぼれおちた」生、逸脱した生であろう。だからこそ、そこに「詩」の本質がある。「都市と……」の最後の2行は美しい。
これは「日常からこぼれおち」「純粋時間」のなかへ出かけていこうという意思表明である。それが「亡き父」を追悼することである。つまり「亡き父」の生をたどることである。
「境目」、そして逸脱と、そこから始まる「並列」については、「現代のチンパンジー語をさがせ」のなかのことばが端的に語っている。
「非文脈的コミュニケーション」が「詩」なのである。
岡本の詩には、強い統一された意識がある。「日常からこぼれおちた」もの、「境目」を失ったもの同士が唐突にコミュニケーションをはじめる。そこから「詩」が立ち上がる。ちょっとエリオットに似ている。エリオットは今までそばになかったものを並列させることで「日常からこぼれおちた」「顔の異なった」「時間」を演出した。岡本は、演出ではなく、エリオットと逆の操作で、そこへ行ってみようとしているように思える。
なつかしい詩を読むときのような、静かな気持ちになる。たとえば、冒頭の「都市が暮れ色に染まるとき」。
架線を通過する電車の音を聞きながら
うす暗い喫茶店でクラシック音楽をあかず聴いた頃
クロード・モネ展にでかけては
ビッグ・ベンの淡青色の絵をじっと見つめた頃
ロンドン橋のうりにバスを止めて
幾羽もの鳩が時計台を横切るのをカメラに収めた頃
テートギャラリーにウィリアム・ブレイクを見に行く途中で
ウェストミンスター寺院の詩人たちの胸像に出会った頃
それはどれも日常からこぼれおちた顔の異なった
暮れ色に染まる時間の宇宙全体をしめしていた
テーブルの上の赤と青の林檎をながめている
林檎は生の断片だったが
はじめてのエスキース
球と円筒と円錐はそれぞれの小宇宙だった
「日常からこぼれおちた」「顔の異なった」「宇宙の全体」。ある一瞬に宇宙の全体を見る。そういう視線がなつかしい。そういう視線がこころを静かにさせるのだろう。それだけなら、私は、たぶんこの詩の感想を書かない。
こころを静かにさせると私は書いたけれど、実は、この詩はどこか不気味である。特に2連目が不気味である。最後の3行は私にはどうしてもセザンヌの絵に見えてしまう。ところがこの詩には「セザンヌ」は登場しない。1連目にたくさんの人名や特定の場所が出てくるのに、「セザンヌ」の名前がない。
何よりも不気味なのは2連目の2行目と3行目のつながりぐあいである。2行目でいったん文脈は完結するのだろうか。そうであるなら、この作品は「暮れ色に染まる時間の宇宙全体をしめしていた」という行のあとにこそ「一行空き」が必要だろう。2連目の2行は1連目に結びついていた方がわかりやすいだろう。
「顔の異なった」は「宇宙」にかかることばなのに1行目と2行目には行のわたりがあり、別の世界を描いている「暮れ色に……」の行と「テーブルのうえの……」が「空き」もなくすぐ隣に結びつく。
この不安定な行の構成そのものに、岡本の「詩」はあるのかもしれない。存在と存在の境目が揺らぐ。揺さぶりをかけられて、そこからはみだしてしまう。はみだしたものが本来結びつくはずのものではないものと結びついてしまう。いや、岡本の詩の場合、結びつくというより、別の存在の隣に並列してしまうといえばいいだろうか。
異質なものが並列する。たとえば「電車の音」と「クラシック音楽」。そのとき、その並列によって何かが照らしだされ、そこから誘い出されるのか、押し出されるのかして、存在そのものからはみだしてしまう。「電車の音」は電車の音ではなくなり、クラシック音楽はクラシック音楽ではなくなる。つまり「日常からこぼれ落ちた顔」になってしまう。それは宇宙の全体をしめしている。
それは宇宙全体をしめしている……か、どうか。実は、そう読んでいいのかどうか、私にはわからない。「宇宙の全体をしめしていた」はもしかすると1行目、2行目の行のわたりのように3行目の「テーブル」に行わたりでかかることばかもしれない。
「宇宙の全体」に呼応することば「小宇宙」はセザンヌと思われる絵の構成、その部分について言われているからである。
ことばの「境目」がどこかあいまいなところがある。揺れるところがある。そこから何かが噴き出そうとしている。それが不気味である。同時に、何か緊張感を誘う。もしかすると、この緊張感こそが本当は静けさのもとかもしれない。
「境目」と私は書いた。実は、このことばは岡本の別作品のなかに存在することばである。「手帳のなかの記号は現在をしめす」。
整序から遠く離れてゆがんだカオスのままの自筆の文字群
日々の境目をなにげなく通過してきたが
人知れぬ急速と効率のよい仕事のためにも
都会の小さな現在は手帳のなかにあった
純粋時間をひたすら歩んでいた
「純粋時間」とは「日常からこぼれおちた」「顔のことなった」「暮れ色にそまる時間」の「宇宙の全体」のことになるだろう。
「境目」に似たことばは、たとえば「都市と海と砂漠の信号機を越えて」のなかの次の行にも見られる。
「生」と「死」の境界には道路標識が立っている
「死」とは「日常からこぼれおちた」生、逸脱した生であろう。だからこそ、そこに「詩」の本質がある。「都市と……」の最後の2行は美しい。
思い出はいつ死んでしまうかわからないから
いけるところまでいってみよう
これは「日常からこぼれおち」「純粋時間」のなかへ出かけていこうという意思表明である。それが「亡き父」を追悼することである。つまり「亡き父」の生をたどることである。
「境目」、そして逸脱と、そこから始まる「並列」については、「現代のチンパンジー語をさがせ」のなかのことばが端的に語っている。
電車のなかで首をかしげると
背後から突然の非文脈的コミュニケーション
「非文脈的コミュニケーション」が「詩」なのである。
岡本の詩には、強い統一された意識がある。「日常からこぼれおちた」もの、「境目」を失ったもの同士が唐突にコミュニケーションをはじめる。そこから「詩」が立ち上がる。ちょっとエリオットに似ている。エリオットは今までそばになかったものを並列させることで「日常からこぼれおちた」「顔の異なった」「時間」を演出した。岡本は、演出ではなく、エリオットと逆の操作で、そこへ行ってみようとしているように思える。