『我が友、泥ん人』(その2)
音楽と古典と……。小長谷の詩を読むと、肉体と脳がほぐれる。踊りだす。踊りだすといっても激しい踊りではない。何か足を踏み外した瞬間にはじまるような思いがけない踊りである。そして、そのとき感じるのは「今」という時間である。
古典なのに、今?
書きながら私は自問し、やっぱり今ということばしか思いつかない。そう思いながら詩集を読み返すと「昔むかし鈔」に出会う。その最終連。
「昔むかしあるところに/今があって」というのは奇妙な言い方だ。奇妙な言い方だけれど、そのとおりと思う。小長谷が省略した文(ことば)があり、その省略をことばにしないまま納得している私がいる。
「昔むかしあるところに/今があって」とは「古典のなかに現代に通じる問題がある」あるいは「温故知新」のことであろう。というよりも、どんなことがらであれ、私たちはそれを「今」の問題として受け止めてしまう。「今」という時間に、「今」の私に結びつけて見てしまう。「今」が存在しないところなどないのである。
あるいは「過去」が存在しない「今」というものもない。 時間は瞬時のうちに溶け合い、まざりあい、瞬間瞬間に別の顔を出す。
こうしたことを、小長谷は、概念的には語らない。むしろ、そういう語りを遠ざけて、ことばの音楽のなかに隠してしまう。昔と今という隔たった時間を、音のなかで溶け合わせてしまう。
この作品の1連目。
「……て」ということばの重なり、繰り返し。そのなにかしら、「おわり」(断定)をさけたような言い方が、日本語の昔からあることばの配慮を思わせる。日本人がつちかってきた人間づきあいの中の、自分で断定するのではなく相手に判断をまかせるような、ことばの動きがある。そんなところにも「古典」が顔をのぞかせている。そして、「大根」の「こん」から「根拠」の「こん」へのシンコペーションのような素早いリズムの転換。「根拠」の繰り返しによって、「大根」から離れてしまう不思議さ。「そこにあって」という中途半端(?)な行の放り出しの妙。
このとき、「そこにある」ものは何か。大根の葉っぱ? 私は「そこにある」という音、そういうふうに動いてしまう体の中のことばのリズムだけが、そこにあると感じてしまう。
あるいは肉体、と言えばいいのだろうか。
対象を見失い、それでもことばが動いた、リズムに乗って、ここまできてしまったという肉体の記憶がある。この肉体の記憶のために、ことばはさらに動いていく。ことばのなかで、対象も時間も存在の「根拠」をなくしてとけあってしまう。
そのとき、ことばを発する肉体だけが、ここにあることになる。それが「今」である。「……て」というようなことばを繰り返しつかってきた人間の「今」、そこからどんなふうにことばを動かして行けるかという「今」が浮かび上がる。
小長谷はその肉体については何も書いていないが、私という人間のなかでことばが動き、そのことばの動きによってある瞬間には「昔」が「今」と重なり、「大根」が大根以外のものとも重なり、融合する。肉体(人間)というのは、そういう融合を可能にしてしまう力を持っている。そして、その力の源が、ことば自体の音楽なのだと思う。ことばのリズムと音そのものの響き、肉体全体へ刺激を広げていく舌やのど、歯、口蓋、鼻腔の、意識できない運動なのだと思う。
ことばのなかで「意味」ではなく、音楽が動く、という印象がいつも小長谷の詩に感じる。
音楽と古典と……。小長谷の詩を読むと、肉体と脳がほぐれる。踊りだす。踊りだすといっても激しい踊りではない。何か足を踏み外した瞬間にはじまるような思いがけない踊りである。そして、そのとき感じるのは「今」という時間である。
古典なのに、今?
書きながら私は自問し、やっぱり今ということばしか思いつかない。そう思いながら詩集を読み返すと「昔むかし鈔」に出会う。その最終連。
昔むかしあるところに
今があって
それはなんだか
うっかり叫んでしまった
コトバみたいで
大根の葉っぱみたいで
いつもいつも
腐りかけていて
見境もなく
ずーっと
そこにあって
「昔むかしあるところに/今があって」というのは奇妙な言い方だ。奇妙な言い方だけれど、そのとおりと思う。小長谷が省略した文(ことば)があり、その省略をことばにしないまま納得している私がいる。
「昔むかしあるところに/今があって」とは「古典のなかに現代に通じる問題がある」あるいは「温故知新」のことであろう。というよりも、どんなことがらであれ、私たちはそれを「今」の問題として受け止めてしまう。「今」という時間に、「今」の私に結びつけて見てしまう。「今」が存在しないところなどないのである。
あるいは「過去」が存在しない「今」というものもない。 時間は瞬時のうちに溶け合い、まざりあい、瞬間瞬間に別の顔を出す。
こうしたことを、小長谷は、概念的には語らない。むしろ、そういう語りを遠ざけて、ことばの音楽のなかに隠してしまう。昔と今という隔たった時間を、音のなかで溶け合わせてしまう。
この作品の1連目。
昔むかしなるところに
大根の葉っぱがあって
捨てられていて
汚水でぬれていて
ほとんど腐りかけていて
それが大根の葉っぱであると
識別できる根拠もなくて
根拠がなくても
ただ、
そこにあって
「……て」ということばの重なり、繰り返し。そのなにかしら、「おわり」(断定)をさけたような言い方が、日本語の昔からあることばの配慮を思わせる。日本人がつちかってきた人間づきあいの中の、自分で断定するのではなく相手に判断をまかせるような、ことばの動きがある。そんなところにも「古典」が顔をのぞかせている。そして、「大根」の「こん」から「根拠」の「こん」へのシンコペーションのような素早いリズムの転換。「根拠」の繰り返しによって、「大根」から離れてしまう不思議さ。「そこにあって」という中途半端(?)な行の放り出しの妙。
このとき、「そこにある」ものは何か。大根の葉っぱ? 私は「そこにある」という音、そういうふうに動いてしまう体の中のことばのリズムだけが、そこにあると感じてしまう。
あるいは肉体、と言えばいいのだろうか。
対象を見失い、それでもことばが動いた、リズムに乗って、ここまできてしまったという肉体の記憶がある。この肉体の記憶のために、ことばはさらに動いていく。ことばのなかで、対象も時間も存在の「根拠」をなくしてとけあってしまう。
そのとき、ことばを発する肉体だけが、ここにあることになる。それが「今」である。「……て」というようなことばを繰り返しつかってきた人間の「今」、そこからどんなふうにことばを動かして行けるかという「今」が浮かび上がる。
小長谷はその肉体については何も書いていないが、私という人間のなかでことばが動き、そのことばの動きによってある瞬間には「昔」が「今」と重なり、「大根」が大根以外のものとも重なり、融合する。肉体(人間)というのは、そういう融合を可能にしてしまう力を持っている。そして、その力の源が、ことば自体の音楽なのだと思う。ことばのリズムと音そのものの響き、肉体全体へ刺激を広げていく舌やのど、歯、口蓋、鼻腔の、意識できない運動なのだと思う。
ことばのなかで「意味」ではなく、音楽が動く、という印象がいつも小長谷の詩に感じる。