詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トーマス・ベズーチャ監督「幸せのポートレート」

2006-08-17 23:27:19 | 映画
監督 トーマス・ベズーチャ 出演 ダイアン・キートン、クレア・デインズ

 「努力しないこと」(自然体でいること)をモットーにしている一家。そこへ「頑張り屋」の女性が長男の婚約者としてやってくる。そして繰り広げられるどたばた。というような設定のなかで、ダイアン・キートンがすばらしい。
 長男役のダーモット・マロニーに対して恋人のサラ・ジェシカ・パーカーはおまえにふさわしくない、と言う。そのあと「失敗したとき、そばにいてやることができない」とも。ダイアン・キートンは癌が再発し、あと1年も生きられない。そのことを知っていて、息子に対して、そう告げる。そのときの顔がいい。「いつでも、いくつになっても、おまえのことを心配だ」というのではない。「いつでも、いくつになっても、おまえのことを心配していたい」という、一種の母親の欲望(母親の生きる希望)のようなものが、とても自然に浮き上がってくる。その感じがいい。
 ダイアン・キートンの演技の質そのものがだいたい「受け」の演技だが、この映画ではそれがとても自然に生かされている。ダイアン・キートンは家族全員に対して「いつでも、いくつになっても、おまえ(たち)のことを心配していたい」と願っている。それは裏を返せば、「どうか本当の自分自身をみつけて、それを大事にして欲しい」という願いでもある。本当の自分の欲望に従って生きるなら、どんなことも失敗ではない。自分の欲望にしたがわず、何か無理をして(つまり努力して)、つまずくことが失敗である。しかし、それも自分自身へたどりつくための道なのだから、それはそれでいい。そのとき、いつでも、いくつになっても「頼ってほしい」と願っている。頼られる母でいたいと願っている。それが、もうできなくなるんだよ、と訴えかける。
 こんなことはもちろん映画のなかでセリフで言うわけではない。言うわけではないが、それが伝わってくる。だから、すばらしい演技だと思う。私の思ったことはもちろん見当違いかもしれない。しかし、それが見当違いであっても、そういうことを想像させてくれる演技、そういう思いを引き出してくれる演技が私は好きだ。
 途中から登場するクレア・デインズもいいなあ。目が魅力的だ。そして肌がきれいだ。なんといえばいいのだろうか。肌というのは人を人の形にとどめておく「壁」みたいなものだが、クレア・デインズの肌には「壁」がない。透明ななので、そのままこころに触れることができるような感じがする。無防備な感じがする。そして目は、矛盾するようだが、とてもしっかりしている。主張がある。無防備な肌に主張する目。その対比が美しい。引き込まれていく。


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大谷良太『うっとうしかった』

2006-08-17 14:59:50 | 詩集
 大谷良太『うっとうしかった』(五月出版企画)。
 表題作がおもしろい。

きれいな骨だった
と彼女は手紙で言った
炉から出てきたとき
きても輝いていたの
生前のあの人と
まるで違って、ね
たくさん雨が降った
それでなくても
うっとうしかった
ときどき引き出しを開けては
筆跡を読み返した
何度も泣いたし
夜中に叫んで目覚めたりもした
あの人の思い出がまだ
整理できていないの、ぷつんて
切れたままなのよ
ベランダに鳩が
巣を作り
ひなを育てた
室外機の上で
クルックルッと首を回し
何かを問うようだった
きれいだった
あの人の骨、壺の中へ
あの人のすべての壺の中へ、それから
私は静かにふたをするの、
回線をつなぐから
待ってて。

 「うっとうしかった」の主語があいまいである。「彼女」が手紙のなかでそう書いているのか。それとも大谷が「彼女」の手紙を読んでそう感じているのか。どちらともとれる。 その直前の「たくさん雨が降った」も「彼女」の手紙に書いてあるのか、それとも手紙を読んでいるときの大谷の「場」の状況なのかわからない。どちらともとれる。
 「ときどき引き出しを開けては/筆跡を読み返した」のは大谷だろうと思う。「遺骨」を読み返すとは言わないだろうから。
 では、次の「何度も泣いたし」はだれのことだろうか。「……し」ということばでつながっているから、次の「夜中に叫んで目覚めたりもした」人と同一人物だろうが、これもあいまいである。「彼女」と思われるが、大谷であってもかまわない。
 「ベランダに鳩が」からつづく描写も、手紙のなかに書かれていることばか、大谷が見つめる風景なのかわからない。どちらであってもかまわない。
 この「主語」をあいまいにし、状況を交錯させ、感情を交差させる書き方が、とてもおもしろい。「彼女」と大谷は、どこかでこころが重なっているのである。ふれあっているのだろう。「うっとうしい」とは、そういうこころの重なり具合であり、触れ合い具合であろう。
 だからこそ、大谷は「ときどき引き出しを開けては/筆跡を読み返」すのである。
 それはそのまま「彼女」に触れることではなく、同時に「彼女」の「あの人」に触れることでもある。大谷は今、「彼女」の手紙をとおしてしか「あの人」に触れ得ない。「あの人」と重なり合い、触れ合うには「彼女」をとおしてしかできない。
 その悲しさ、切なさが、「かのじょ」と大谷の区切りをあいまいにする。そこに「詩」がある。
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