詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

映画「ゲド戦記」

2006-08-30 13:24:32 | 詩集
 田中裕子が「クモ」の声で出演している。たいへんな熱演である。熱演であるが、私は非常に違和感を感じた。絵を超えて、そこに田中裕子の姿が見えるからである。これはアニメの声としては失敗ではないだろうか。
 アニメにおいて声は付属品である。絵でわからないものを補足するだけのものにすぎない。映画は何よりも視覚の体験であり、その視覚体験を彩るものとして音楽がある。人間の声は不要である。絵と音楽に想像力を刺激するものがないときに声が必要になる。
 アニメの声優に求められるものを田中裕子は勘違いしていると思う。誰が演じているという声そのものに個性があればいいのであって、そこでは演技はできるかぎり省略されなければならない。(菅原文太の声がよかった。)
 弱音を多用して、観客の意識を声に集中させるような声の演技はアニメの演技としては失格である。舞台でやる演技をアニメでしてはいけない。

 絵そのものにも私はかなり失望した。
 宮崎吾郎は夕暮れの光りを描きたかったのだと思う。光りそのものを描きたかったのだと思う。弱まっていく光り、それを回復するための戦い。
 だから夕暮れの光りをきちんと描くというのは、それはそれでわかるのだが、奇妙にしつこい。べたっとした感じが残る。
 これは夕暮れの光りだけではなく、背景全体に感じる。背景が奇妙にリアルにべったりしていて、登場する人間が書き割りのなかで動いている感じがする。力点の置きかたが逆でなければならないと思う。3Dアニメのようにリアルな立体感のあるアニメを描けというのではない。(私は3Dアニメが嫌いだ。) 人物にふさわしい背景を描いてほしいと思う。

 音楽、テルーの歌う二つの歌がよかった。主題歌は伴奏なしで、それが人間の声の不安定さを浮き彫りにする。この不安定さが人を引き込む。こういう歌声を選ぶ力があるなら、やはり田中裕子の田中裕子ショー的な声の演技は排除すべきだろう。べたべたの背景づくりはやめるべきだろう。
 不満の残る映画だ。
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高橋睦郎「犬いわく」

2006-08-30 13:00:55 | 詩集
 高橋睦郎「犬いわく」(「現代詩手帖」9月号)。
 どこで読んだのか忘れてしまったが、北川透が、谷川俊太郎、高橋睦郎、荒川洋治の3人はどんな種類の詩でも書けるというふうなことを書いていた。そのひとり、高橋が犬の視線で人間をみつめた詩。これが妙に寂しい気持ちを呼び覚ます。
 その最終連。

歴史とは何だろうか
ぼくが彼に出会って以来の時間?
ぼくらの出会いは 三万年前
あるいは それ以上ともいう
彼の歴史は ぼくとの歴史ではない
彼は 歴史を自分で満たしたがる
自分で完結させる時間のさびしさ
自分でいっぱいの空間のむなしさ
ぼくは彼の癒されることのない孤独を
熱い舌で舐めつづけるほかない

 「N・T」の「ぼく、イヌなんです」ということばが詩の最初に掲げられている。そのことばを信じれば、「ぼく」とは「N・T」、「彼」とは高橋のこと、あるいは「N・T」の知り合いの誰か、ということになるだろうか。
 「N・T」から見れば、「彼」は時間を自分で完結させている、空間を自分でいっぱいにしている。いわば「自立」していて誰にも頼っていない。それはしかし「N・T」から見れば「孤独」に感じられる。
 これはもちろん「N・T」が語ったことばではない。高橋が「N・T」が思っているだろうと想像して描いたことばである。したがって、それは本当は高橋自身のことばである。「N・T」が「イヌ」であるという視点を借りて、高橋は、自分自身を、そのことばのなかに隠して、隠しながら、みせる。(少し、粕谷栄市の「うどん屋を夢見る男」と「夢見られたうどん屋の男」の関係に似ている。似ているとは書いてはみたが、本当はまったく違う。)
 そんなふうに高橋は間接的に「自画像」を描いてみせる。自分で完結させた時間、自分でいっぱいの空間を生きている男。それは本当は孤独である、と。そして「熱い舌で舐め」られることを待っている、と。
 それに気がついてほしいと願っている。
 寂しさは、その願いというよりも、「イヌ」に託して自画像を描いてしまうことの寂しさである。

 それに先立つ連。

彼はぼくを繋いだ鎖を手に
朝夕 散歩するのを好む
沖から白い波の寄せてくる砂浜や
小鳥の冗舌な歌の塊となる木の蔭
あいつをつれた彼女が現われて
ぼくを連れた彼の挨拶を受ける
ぼくらが鼻で嗅ぎあっているあいだ
彼らは言葉でさぐりあっている
わからなさから 愛が立ち上がり
愛から 生命が産み落とされたりする

 「言葉でさぐりあ」うのではなく、「ぼくら」のように直接「鼻で嗅ぎあ」えばいいのだ。本当は、それが自然なのだ。鼻で嗅ぎあい、何かわからないまま、愛が立ち上がり、命が産み落とされる……というより、もし愛というものがあるとしたら、鼻で嗅ぎあい、交尾し、命を産み落として、そのとき愛が愛になるのだろう。命を産み落とすよろこび、新しい命を見るよろこび、それをもたらしてくれたものが愛だったと気がつくのだろう。
 そうであるなら、最終連は、また違ったふうに読むことができるだろう。
 「彼」の「孤独」を癒そうとして熱い舌で舐めつづけるイヌ。その存在が、彼が時間を自分で完結させている、自分で空間をいっぱいにしているという状態、つまり、孤独を産み落としているのだ。イヌによって、彼を舐めつづけるイヌによって、高橋は孤独を孤独と気がついたのだ。
 こんなふうに書けば、まるで、イヌも高橋自身になってしまう。イヌが批判(?)していたことばを借りれば、「彼」は「存在」を自分でいっぱいにしてしまう。
 
 本当はそうなのかもしれない。高橋は時間を自分で完結させる。空間を自分でいっぱいにする。あらゆる存在に自己を投影し、自己として描いてしまう。あらゆる詩を自在に書いてしまえるということはそういうことかもしれない。

 そして、そこにこそ本当の寂しさがあるのかもしれない。人間がことばになってしまうという寂しさ。この寂しさを癒せるのは、イヌの舌だろうか。どうも違うように感じる。この寂しさを癒せるのは新しいことばである。誰も書かなかったことばである。寂しさを感じながら、なお、新しいことばを求めずにはいられない高橋の「自画像」がひっそりと隠されているのを感じた。
 その新しいことばはどこにあるのか。たぶん、イヌの舌、「彼」を癒そうとして舐めつづけるイヌの舌の熱さのなかにある。熱いと感じる「彼」の触覚にある。その、まだことばにならないものを探している静かな静かな「自画像」としても、この詩は読むことができるだろうと思う。



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