田中裕子が「クモ」の声で出演している。たいへんな熱演である。熱演であるが、私は非常に違和感を感じた。絵を超えて、そこに田中裕子の姿が見えるからである。これはアニメの声としては失敗ではないだろうか。
アニメにおいて声は付属品である。絵でわからないものを補足するだけのものにすぎない。映画は何よりも視覚の体験であり、その視覚体験を彩るものとして音楽がある。人間の声は不要である。絵と音楽に想像力を刺激するものがないときに声が必要になる。
アニメの声優に求められるものを田中裕子は勘違いしていると思う。誰が演じているという声そのものに個性があればいいのであって、そこでは演技はできるかぎり省略されなければならない。(菅原文太の声がよかった。)
弱音を多用して、観客の意識を声に集中させるような声の演技はアニメの演技としては失格である。舞台でやる演技をアニメでしてはいけない。
*
絵そのものにも私はかなり失望した。
宮崎吾郎は夕暮れの光りを描きたかったのだと思う。光りそのものを描きたかったのだと思う。弱まっていく光り、それを回復するための戦い。
だから夕暮れの光りをきちんと描くというのは、それはそれでわかるのだが、奇妙にしつこい。べたっとした感じが残る。
これは夕暮れの光りだけではなく、背景全体に感じる。背景が奇妙にリアルにべったりしていて、登場する人間が書き割りのなかで動いている感じがする。力点の置きかたが逆でなければならないと思う。3Dアニメのようにリアルな立体感のあるアニメを描けというのではない。(私は3Dアニメが嫌いだ。) 人物にふさわしい背景を描いてほしいと思う。
*
音楽、テルーの歌う二つの歌がよかった。主題歌は伴奏なしで、それが人間の声の不安定さを浮き彫りにする。この不安定さが人を引き込む。こういう歌声を選ぶ力があるなら、やはり田中裕子の田中裕子ショー的な声の演技は排除すべきだろう。べたべたの背景づくりはやめるべきだろう。
不満の残る映画だ。
アニメにおいて声は付属品である。絵でわからないものを補足するだけのものにすぎない。映画は何よりも視覚の体験であり、その視覚体験を彩るものとして音楽がある。人間の声は不要である。絵と音楽に想像力を刺激するものがないときに声が必要になる。
アニメの声優に求められるものを田中裕子は勘違いしていると思う。誰が演じているという声そのものに個性があればいいのであって、そこでは演技はできるかぎり省略されなければならない。(菅原文太の声がよかった。)
弱音を多用して、観客の意識を声に集中させるような声の演技はアニメの演技としては失格である。舞台でやる演技をアニメでしてはいけない。
*
絵そのものにも私はかなり失望した。
宮崎吾郎は夕暮れの光りを描きたかったのだと思う。光りそのものを描きたかったのだと思う。弱まっていく光り、それを回復するための戦い。
だから夕暮れの光りをきちんと描くというのは、それはそれでわかるのだが、奇妙にしつこい。べたっとした感じが残る。
これは夕暮れの光りだけではなく、背景全体に感じる。背景が奇妙にリアルにべったりしていて、登場する人間が書き割りのなかで動いている感じがする。力点の置きかたが逆でなければならないと思う。3Dアニメのようにリアルな立体感のあるアニメを描けというのではない。(私は3Dアニメが嫌いだ。) 人物にふさわしい背景を描いてほしいと思う。
*
音楽、テルーの歌う二つの歌がよかった。主題歌は伴奏なしで、それが人間の声の不安定さを浮き彫りにする。この不安定さが人を引き込む。こういう歌声を選ぶ力があるなら、やはり田中裕子の田中裕子ショー的な声の演技は排除すべきだろう。べたべたの背景づくりはやめるべきだろう。
不満の残る映画だ。