詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『童子』(思潮社)

2006-08-10 11:52:14 | 詩集
 池井の詩は「まつり」である。現実のなかにまぎれこんできた「異界」である。「おまつり」という作品は、その「異界」につてい、次のように書いている。

こどものころのおまつりは
ときのながれがたえたよう
いつもとちがういつかへと
あけはなたれてゆくような

 時間の停止、そして「いつか」という時間を超えた場所への開放感。これは多くの人が体験する感覚だろう。いつもと違う何かに想像力が刺激される。開放される。祭りの日は何を想像してもいいのだ。いつもと違う露店の駄菓子のにおい、あまい誘惑、冒険心をくすぐる吹き矢や鉄砲。それが池井のまつりだが、そうしたもの以外に、たとえば「見せ物小屋」にひそむ恐怖、空中ブランコの恐怖と大胆さ、猛獣つかいの臭い息。そんなもののなかに、小さなこころのなかに隠していた想像力を解放する。そして、今でも、ここでもない世界へゆく……。
 しかし、池井は、そうしたことだけを感じているのではない。もっと違うものを感じている。詩はつづく。

つよくにぎったははのてが
ははのてよりもやさしくて
にぎりかえしたちいさなて
わたしのてではないようで
つなぎあうてのぬくもりの
そのなつかしさうれしさに
いつまでもうつむいていて
いつまでもまた
めをとじていて

 想像力(空想力)を池井は共有するのではない。自分の生活とは違った「異界」の夢(猛獣つかいや空中ブランコ乗りのこころ)を共有するのではない。そうした「頭」のなかの夢を共有するのではない。

つなぎあうてのぬくもりの

 「異界」へこころがひらかれてゆくとき、それはひとりの歩みではない。そばに誰かがいる。それはたとえば母だが、その母と手をつないでいる。手をつなぎあっている。そのことこそが池井にとって「異界」そのものなのだ。
 
つよくにぎったははのてが
ははのてよりもやさしくて
にぎりかえしたちいさなて
わたしのてではないようで

 母の手なのに母の手ではないような感じ、自分の手なのに自分の手ではないような感じ。たしかなことは「つなぎあうてのぬくもり」だけである。だれかと手をつなぎあっている。そのだれかが「母」ではないのは、「母」の向こう側に「母の母」「母の母の母」もいるからだろう。そして自分の手の向こう側には「私の息子」「私の息子の息子」がいるからだろう。
 想像力ではなく、肉体でつなぎあうもの。血でつなぎあうもの。そのつながりが、池井のいのちそのものを開放する。いのちといのちが、見えない手でつながりあうのが、池井にとっての「まつり」なのである。

こどものころのおまつりは
みるものきくものめずらしく
いつものまちもひとたちも
いつもとちがうかおをして
うらみちぬけてゆくおみや
そのうらみちのいしがきの
こけのにおいもめずらしく
ハッカパイプやしょうがあめ
やまとつまれたさとうきび
いろとりどりのふきやなど

 書き出しのこの世界は、池井が中学生の頃から書いていた世界そのままであるが、そうした、なにか古くさい「もの」の世界から、池井は「いのち」のつながりの世界へと詩を展開してきた。「もの」の裏側にはものをつくる人たちがいる。ものに触れながら、しらずしらずに人に触れ、そのつながりに洗われ、清められながら、母は母でありながら母ではなく、息子は息子でありながら息子ではない、そこにあるのは「つながり」という連続性、自分をどこまでもどこまでも遠くへ連れて行ってくれるいのちのつながりであるということを知り、安心して、放心するという世界にたどりついた。

 池井はいつでも放心する。無防備になる。そういう形で、いのちそのものとつながる。


童子

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