小松弘愛「りぐる」(「兆」131 )。
「りぐり」とは土佐方言。「年を入れる人」「吟味する人」。小松は「りぐり農園」で「アバシゴーヤ」を栽培しているという新聞記事を読む。「アバシ」は沖縄方言で「ハリセンボン」を指す。それも新聞記事に書いてあったのだろう。その記事を読んでの感想がつづく。これが非常におもしろい。(ネットなので系図表記がうまくいかず、申し訳ないが一部変形した形で紹介する。ぜひ、「兆」で全文を読み直していただきたい。)
系図(家系図)に私は笑ってしまった。なんて馬鹿なことを(いい意味で)考える人だろうと、笑いが止まらなかった。今までも小松の詩に感心してきたし、好きだったが、この部分でさらに好きになってしまった。
「馬鹿なこと」と私は書いたが、「馬鹿なこと」には、その人の人間性が一番よく出る。人によく見せようとする意識が一瞬消えるとき、それは「馬鹿なこと」になる。その人の生の肉体が出てくる。
系図は、小松がことばの背後に必ず人間の存在を思い浮かべていることを浮き彫りにする。ことばがあれば、必ずそこにはそのことばを使う人がいる。それはたとえば男と女である。ことばとことばが出会うということは、人と人が出会うことでもある。男と女が出会えば、そこから何かが生まれる。愛? そんな抽象的なものではない。こどもである。新しい人間である。その新しい人間に、男と女はかわいらしい名前をつける。愛があるとすれば、それはこどもに付けられた名前であり、成長するこどもの、成長そのものが愛だろう。
こうしたことを、あれこれ説明するとなんだかうるさくもなるし、道徳の授業(?)みたいでおもしろくもなんともないものになってしまうが、(私の説明では、小松の詩のおもしろさと、小松の人間性の温かさを殺してしまうが……)、そんな小うるさい説明をせず、系図にしてしまって、それでおしまい(説明できた)と思ってしまうところに、なんとも不思議な味がある。思わず「馬鹿あ」と叫んで、その「馬鹿あ」と叫んだ瞬間に消える距離感のようなものが、思わず接近してしまう感じ、抱き締めたくなるような温かいものが、抱き締めることによってしか味わえない温かさがここにある。
少し別な角度から、この詩の楽しさを、もういちど書いてみようか……。
もしこの詩を小松が朗読するとしたらどうなるだろう。「ここで 一つの系図を作らせてもらおう」のあと、どう読むのだろうか。
読めない。
系図の部分では、どうしたって黒板か何かをつかって「図」を描いて、図を描きながらしか説明できない。ここにはことばにならないものが含まれているのだ。ことばにならないものがここに含まれている。ことばにならないもの。ことばにならないけれど、肉体に深くしみついて、人の行動を規定するもの--それを私は「思想」と呼ぶが、この系図をつかってゴーヤ栽培を語る部分に、その説明の仕方にこそ、小松の「思想」がある。
ことばにならないもの--それを、たとえば私は、具体的な人間の存在、男と女の存在に対する想像力と呼ぶ。人間がそこにいる、と想像して系図を書く。その想像力が、小松の温かさである。常に人間の生活を思い浮かべ、そのなかでことばを動かす。それが小松の「思想」である。
普通、土佐の人間が沖縄のゴーヤを栽培するからといって、そこに沖縄の女性まで想像する必要はない。むしろ、そういうことは余分である。いつ水をやるか、肥料をやるか、いつもぎとるか。そんなことこそ、本当は考えなければならない。しかし、小松は、土佐の人間が沖縄のゴーヤを育てるということは、土佐の男と沖縄の女が出会ってこどもを産み、育てることと同じだと想像する。こどもを育てるということは、そして「りぐり」つづけることだと説明する。(ここでは引用しなかった作品の後半部分。)
こういうふうに、ことばにできないもの、体にしみついた「思想」をいったん書いてしまうと、ちょっと足もとをとられるというか、その後、どうやってことばをつないでいければいいのか、人はわからなくなる。
小松の作品も、その作品自体としていえば、後半部分は乱れる。ひたすら「りぐり」を繰り返すことに行をついやしてしまう。しかし、そこがまたかわいいというか、愛らしいというか、「ばかあ」といいたくなるような楽しさに満ちている。
最後の5行。
「系図」、男と女、こどもが登場するから言うのではないが、これはまるで結婚式のスピーチのようではないか。それも、せっかく用意してきた原稿を読み始めたのに、読んでいる途中でふと言いたいことを思いつき、その話を挿入してしまったために、どうしめくくっていいか、つじつまがあわなくなって、しどろもどろに終わるスピーチのようではないか。
系図を汗を拭き拭き、全身を動かして書いている小松の姿、そのあとしどろもどろになっている小松の姿が目の前に浮かんできてしまう。こんなふうに作者の肉体そのものまで想像させてくれる詩は、私は大好きだ。
「りぐり」とは土佐方言。「年を入れる人」「吟味する人」。小松は「りぐり農園」で「アバシゴーヤ」を栽培しているという新聞記事を読む。「アバシ」は沖縄方言で「ハリセンボン」を指す。それも新聞記事に書いてあったのだろう。その記事を読んでの感想がつづく。これが非常におもしろい。(ネットなので系図表記がうまくいかず、申し訳ないが一部変形した形で紹介する。ぜひ、「兆」で全文を読み直していただきたい。)
「りぐり」と「アバシ」
土佐方言と沖縄方言
ここで 一つ系図を作らせてもらおう
初男(夫 高知県)
|
|---アバシゴーヤ(イメージキャラクター「アバシ坊や」)
|
洋子(妻 沖縄県)
「アバシ坊や」を育てるには
農薬はいけない
センダンの木から抽出した
天然成分の防虫剤などを使っているという
系図(家系図)に私は笑ってしまった。なんて馬鹿なことを(いい意味で)考える人だろうと、笑いが止まらなかった。今までも小松の詩に感心してきたし、好きだったが、この部分でさらに好きになってしまった。
「馬鹿なこと」と私は書いたが、「馬鹿なこと」には、その人の人間性が一番よく出る。人によく見せようとする意識が一瞬消えるとき、それは「馬鹿なこと」になる。その人の生の肉体が出てくる。
系図は、小松がことばの背後に必ず人間の存在を思い浮かべていることを浮き彫りにする。ことばがあれば、必ずそこにはそのことばを使う人がいる。それはたとえば男と女である。ことばとことばが出会うということは、人と人が出会うことでもある。男と女が出会えば、そこから何かが生まれる。愛? そんな抽象的なものではない。こどもである。新しい人間である。その新しい人間に、男と女はかわいらしい名前をつける。愛があるとすれば、それはこどもに付けられた名前であり、成長するこどもの、成長そのものが愛だろう。
こうしたことを、あれこれ説明するとなんだかうるさくもなるし、道徳の授業(?)みたいでおもしろくもなんともないものになってしまうが、(私の説明では、小松の詩のおもしろさと、小松の人間性の温かさを殺してしまうが……)、そんな小うるさい説明をせず、系図にしてしまって、それでおしまい(説明できた)と思ってしまうところに、なんとも不思議な味がある。思わず「馬鹿あ」と叫んで、その「馬鹿あ」と叫んだ瞬間に消える距離感のようなものが、思わず接近してしまう感じ、抱き締めたくなるような温かいものが、抱き締めることによってしか味わえない温かさがここにある。
少し別な角度から、この詩の楽しさを、もういちど書いてみようか……。
もしこの詩を小松が朗読するとしたらどうなるだろう。「ここで 一つの系図を作らせてもらおう」のあと、どう読むのだろうか。
読めない。
系図の部分では、どうしたって黒板か何かをつかって「図」を描いて、図を描きながらしか説明できない。ここにはことばにならないものが含まれているのだ。ことばにならないものがここに含まれている。ことばにならないもの。ことばにならないけれど、肉体に深くしみついて、人の行動を規定するもの--それを私は「思想」と呼ぶが、この系図をつかってゴーヤ栽培を語る部分に、その説明の仕方にこそ、小松の「思想」がある。
ことばにならないもの--それを、たとえば私は、具体的な人間の存在、男と女の存在に対する想像力と呼ぶ。人間がそこにいる、と想像して系図を書く。その想像力が、小松の温かさである。常に人間の生活を思い浮かべ、そのなかでことばを動かす。それが小松の「思想」である。
普通、土佐の人間が沖縄のゴーヤを栽培するからといって、そこに沖縄の女性まで想像する必要はない。むしろ、そういうことは余分である。いつ水をやるか、肥料をやるか、いつもぎとるか。そんなことこそ、本当は考えなければならない。しかし、小松は、土佐の人間が沖縄のゴーヤを育てるということは、土佐の男と沖縄の女が出会ってこどもを産み、育てることと同じだと想像する。こどもを育てるということは、そして「りぐり」つづけることだと説明する。(ここでは引用しなかった作品の後半部分。)
こういうふうに、ことばにできないもの、体にしみついた「思想」をいったん書いてしまうと、ちょっと足もとをとられるというか、その後、どうやってことばをつないでいければいいのか、人はわからなくなる。
小松の作品も、その作品自体としていえば、後半部分は乱れる。ひたすら「りぐり」を繰り返すことに行をついやしてしまう。しかし、そこがまたかわいいというか、愛らしいというか、「ばかあ」といいたくなるような楽しさに満ちている。
最後の5行。
りぐり自然農園の
宣伝係のようになってきましたから
もう
終わりにしますが
タイトルは「りぐり」とさせていただきます。
「系図」、男と女、こどもが登場するから言うのではないが、これはまるで結婚式のスピーチのようではないか。それも、せっかく用意してきた原稿を読み始めたのに、読んでいる途中でふと言いたいことを思いつき、その話を挿入してしまったために、どうしめくくっていいか、つじつまがあわなくなって、しどろもどろに終わるスピーチのようではないか。
系図を汗を拭き拭き、全身を動かして書いている小松の姿、そのあとしどろもどろになっている小松の姿が目の前に浮かんできてしまう。こんなふうに作者の肉体そのものまで想像させてくれる詩は、私は大好きだ。