詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹『童子』(その2)

2006-08-11 12:21:48 | 詩集
池井昌樹『童子』その2

 「弓」という冒頭の作品は「ちちとははからぼくはうまれた」で始まる。池井の、いのちのつながり意識を端的にあらわした作品である。

あいしてくれたものたちを
無残に食いちらかしてきた
ぼくを食いちらかしてくれ
それが供養というものだ

 「むすこ」への呼びかけである。「供養」。美しいことばだと思う。こうしたことばが自然に出てくるところが最近の池井の詩の特徴だ。普通なら、この「供養」についての思いを深めていくのだろうが、池井のことばは少し違った方向へ動いていく。そこに池井の本質がある。

けれどもそんなことよりも
ひかりながれる矢のような
いのちはどこからきたんだろう
ちちははよりももっとまえから
むすこらよりももっとまえから
むすこらよりももっとさきへと
るいるいたる死をつらぬいてゆく
その矢はだれがつがえたのか
よる眼をとじてかんがえる
こんなまっくらやみのなか
ぼくをゆめみるものがある
あとかたもなくなったあと らんらんと
ゆめみつづけるものがある

 「ぼくをゆめみるもの」。それをたとえば宗教家は「神」というかもしれない。しかし、池井は神とは言わないだろう。神と言うにしても、それは人を導き、守る神とは違う感じがする。

あとかたもなくなったあと らんらんと
ゆめみつづけるものがある

 「あとかたもなくなったあと」とは「ぼく」が完全に消滅したあとという意味だろう。神は「ぼく」が完全に消滅したあと存在するのか。存在しないだろう。あくまで神は人間と向き合って存在するものである。池井は、ここでは宗教的な意味での神を超える存在を思い描いている。
 その存在は「らんらん」と夢見続ける。何の夢か。いのちがつながっていく夢であるか。すこし違う。
 その存在が見る夢は、目を見開いて見る夢である。池井は夜「眼をとじて考えている」その存在は、目を見開き、「らんらんと」輝かせて、池井を見つめている。池井を「ゆめ」として見ている。池井というより、池井によってつながっていくものを見ている。
 それは人間のいのちというより、「詩」のいのちである。

 先に書いたことと少し矛盾した形になるが、「詩」とは、たとえば「供養」ということばを、今、ここによみがえらせる池井のことばの動きそのものである。「供養」ということばは美しいし、それ自体も「詩」なのだが、それよりも、「供養」を呼び出すことばの動きそのものが「詩」である。
 あるいは、こんなふうに言うこともできるかもしれない。
 「眼をとじてかんがえる」とき、その考えのなかに立ち現れてくる存在、池井をゆめみる存在、それをことばにしたとき、池井はその存在そのものになる。そうして、現実の池井を一個の肉体をもった人間ではあるけれど、人間のからだからはみだしてゆく何者かになり、ことばのなかで深く交わる。
 そして「詩」そのものになる。



 「だれもしらない」はとても不思議な作品である。朝、木のあいだを行き来する鳥を見ている。そんな自画像を描いている。その末尾。

なもないとりと
なもないひとと
だれもしらない
ひともとの樹と

 「なもないひと」とは池井自身である。「なもないとり」はそこで見かけた鳥である。そして一本の樹。それを「なもない」ではなく「だれもしらない」と修飾するのはなぜなのだろうか。また、「だれもしらない」は一本の樹だけを指しているのだろうか。
 私には違ったふうに思える。
 池井が鳥を見つめていること。そのことも「だれもしらない」。鳥がいることも「だれもしらない」。樹があることも「だれもしらない」。「だれもしらないけれど」鳥は生きている、樹はそこに存在し、池井がその前に立っている。「だれもしらない」けれど、世界は存在し、いのちがつながっている。鳥とも樹ともいのちはつながっている。そして「だれもしらない」ことの、知らないことの対象は、そのいのちがつながっているということなのだ。
 「だれもしらない」こと、いのちがつながっていることを池井は実感している。そしてただ放心している。池井のいのちを、鳥に、樹にかえし、一体となる。

 池井は、たとえば朝、会社へ急ぐ人、その社会と乖離する。そのかわりに、「だれもしらない」鳥や樹と人間(池井)とのいのちのつながりを実感し、そのつながりのなかで池井自身を開放する。
 その開放を、「だれもしらない」。
 私たちは、その「だれもしらない」ことを、池井のことばをとおして味わう。
 それが「詩」だ。



コメント
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