高貝弘也『縁の実の歌』(思潮社)。
高貝の詩には「個人」という「底」がない。「枠」がない。それが高貝の個性になっている。たとえば「縁の実の歌」。
この作品には「主語」がない。「縁」に立って高貝が風景を眺めていると仮定してみても、すぐにつまずいてしまう。「泣いている」のはだれ? あるいは何? 「標的」というがいったい何の「標的」? 何も明確なものは書かれていない。さらに「泣いている」ものが「耳鳴り」となれば、実際にそこに存在するのは幻であり、幻であると告げることで、ひっそりと隠された「主語」の肉体を浮かび上がらせる。
「主語」がない、ととりあえず書き始めたが、実は、主語は「ない」のではなく省略されている。それが「耳鳴り」まで読んではじめてわかるようになっている。「主語」は省略され、省略されることで隠されている。
「主語」は高貝である--とは、しかし、私は思わない。高貝という人間のなかに蓄積された「日本語」、その「伝統」が主語である、と私は思う。
日本語は昔から「主語」を省略して書いてきた。話されてきた。「私」ということばだけでなく、「あなた」も、さらには第三者さえも省略され、述語によって主語を照らしだすという文体が継承され続けてきた。高貝は、この述語によって主語を照らしだすという方法をかたくなに継承している。述語による主語の照らしだし、逆照射のようなことが可能なのは、述語の肉体(運動)が読者(日本人)によって継承されているからである。無意識のうちに私たちは述語(動詞)によって主語が何であるか判断するという精神の運動を引き継いでいるからである。それは「頭」ではなく、肉体で反応してしまうような何かである。腹が痛いと体を丸めている人間を見れば、それが自分の肉体ではないのに腹が痛いと納得してしまう肉体のありようのようなものが、ことばのなかにも存在する。高貝はそうした「肉体」、日本語の「肉体」を引き継ぎながら、ことばを動かす。
「耳鳴り」はまったく個人的なものである。「耳鳴り」を体験している人間以外に「耳鳴り」は聞こえない。「耳鳴り」におそわれたとき、肉体は孤立している。不安のなかに宙吊りにされている。そうしたありようを、高貝は最初の行で書き出している。
「縁」がまず不安定である。そのことばが「寄る辺ない」ということばを引き寄せる。高貝が引き寄せるのではなく、「縁」をどんなときにつかってきたか、という日本語の伝統の意識が、つまり日本語の肉体が引き寄せるのである。
「縁」であって「淵」ではない。そのことも、日本語の肉体に作用する。不安定を引き寄せるが、それは恐怖や絶望ではない。何か、そうした絶対的なものではなく、あいまいさが許されるものを引き寄せる。だからこそ2行目に「柔らかい」ということばが選ばれる。
「標的」(しるし)とは何だろうか。「澪標」ということばが「標的」の「標」から誘い出される。「縁」が水を誘うからだろう。あるいは「泣いている」のさんずいが「水」を誘い出し、それが逆照射の形で「澪標」を呼ぶのだろうか。前のことばが後のことばを誘い出すだけではなく、述語が主語を浮かび上がらせるのに似て、後のことばが前のことばを照らしながら、そこに全体の「風景」というよりも「空気」を浮かび上がらせる。
高貝の詩は、ことばが交錯しながら「空気」そのものを描き出す。この「空気」とはもちろん日本語の肉体の空気であって、実際の風景としての空気ではない。実際の「縁」に立って眺めた風景を装いながら、実際に描かれているのは日本語の風景である。高貝が引き継いでいる日本語の「空気」である。
このことは先に引用した3行につづく後半を読むと明らかになる。
ここには実在のものは何一つ書かれていない。「川」や「海」でさえ、書き出しの「縁」をかたどっている川や海ではない。「耳鳴り」が誘い出す「こだま」「かぜ」「山」から呼び出された「川」「海」である。そしてそれらは「回る」「巡る」という動詞と一体になり「ゆきかえる」。そこに書かれていない「輪廻」も含まれるだろう。「嘆きと安らぎ」「悲しみと和らぎ」それは一見矛盾することばではなるけれど、矛盾するからこそめぐりめぐって、ここではなく、どこかで一体になることも私たちは知っている。そうした一種のこんとんとした日本語の歴史、日本語の伝統のなかから、ことばが、高貝によって誘い出されてくる。高貝はことばを誘い出す肉体として生きている。ことばの肉体が、日本語の肉体が、高貝の肉体でもあるのだ。
高貝の詩には「個人」という「底」がない。「枠」がない。それが高貝の個性になっている。たとえば「縁の実の歌」。
縁の 寄る辺(べ)なさよ
柔らかい標的(しるし)で 泣いている
あの もろい耳鳴りを---
この作品には「主語」がない。「縁」に立って高貝が風景を眺めていると仮定してみても、すぐにつまずいてしまう。「泣いている」のはだれ? あるいは何? 「標的」というがいったい何の「標的」? 何も明確なものは書かれていない。さらに「泣いている」ものが「耳鳴り」となれば、実際にそこに存在するのは幻であり、幻であると告げることで、ひっそりと隠された「主語」の肉体を浮かび上がらせる。
「主語」がない、ととりあえず書き始めたが、実は、主語は「ない」のではなく省略されている。それが「耳鳴り」まで読んではじめてわかるようになっている。「主語」は省略され、省略されることで隠されている。
「主語」は高貝である--とは、しかし、私は思わない。高貝という人間のなかに蓄積された「日本語」、その「伝統」が主語である、と私は思う。
日本語は昔から「主語」を省略して書いてきた。話されてきた。「私」ということばだけでなく、「あなた」も、さらには第三者さえも省略され、述語によって主語を照らしだすという文体が継承され続けてきた。高貝は、この述語によって主語を照らしだすという方法をかたくなに継承している。述語による主語の照らしだし、逆照射のようなことが可能なのは、述語の肉体(運動)が読者(日本人)によって継承されているからである。無意識のうちに私たちは述語(動詞)によって主語が何であるか判断するという精神の運動を引き継いでいるからである。それは「頭」ではなく、肉体で反応してしまうような何かである。腹が痛いと体を丸めている人間を見れば、それが自分の肉体ではないのに腹が痛いと納得してしまう肉体のありようのようなものが、ことばのなかにも存在する。高貝はそうした「肉体」、日本語の「肉体」を引き継ぎながら、ことばを動かす。
「耳鳴り」はまったく個人的なものである。「耳鳴り」を体験している人間以外に「耳鳴り」は聞こえない。「耳鳴り」におそわれたとき、肉体は孤立している。不安のなかに宙吊りにされている。そうしたありようを、高貝は最初の行で書き出している。
縁の 寄る辺なさよ
「縁」がまず不安定である。そのことばが「寄る辺ない」ということばを引き寄せる。高貝が引き寄せるのではなく、「縁」をどんなときにつかってきたか、という日本語の伝統の意識が、つまり日本語の肉体が引き寄せるのである。
「縁」であって「淵」ではない。そのことも、日本語の肉体に作用する。不安定を引き寄せるが、それは恐怖や絶望ではない。何か、そうした絶対的なものではなく、あいまいさが許されるものを引き寄せる。だからこそ2行目に「柔らかい」ということばが選ばれる。
「標的」(しるし)とは何だろうか。「澪標」ということばが「標的」の「標」から誘い出される。「縁」が水を誘うからだろう。あるいは「泣いている」のさんずいが「水」を誘い出し、それが逆照射の形で「澪標」を呼ぶのだろうか。前のことばが後のことばを誘い出すだけではなく、述語が主語を浮かび上がらせるのに似て、後のことばが前のことばを照らしながら、そこに全体の「風景」というよりも「空気」を浮かび上がらせる。
高貝の詩は、ことばが交錯しながら「空気」そのものを描き出す。この「空気」とはもちろん日本語の肉体の空気であって、実際の風景としての空気ではない。実際の「縁」に立って眺めた風景を装いながら、実際に描かれているのは日本語の風景である。高貝が引き継いでいる日本語の「空気」である。
このことは先に引用した3行につづく後半を読むと明らかになる。
回れ こだま
回れ こだま
風切って 山越えて
はねかえり 巡れ
川下り 海渡り
ゆきかえり 巡れ
嘆きは
安らぎのために
悲しみは
和らぎのために
ここには実在のものは何一つ書かれていない。「川」や「海」でさえ、書き出しの「縁」をかたどっている川や海ではない。「耳鳴り」が誘い出す「こだま」「かぜ」「山」から呼び出された「川」「海」である。そしてそれらは「回る」「巡る」という動詞と一体になり「ゆきかえる」。そこに書かれていない「輪廻」も含まれるだろう。「嘆きと安らぎ」「悲しみと和らぎ」それは一見矛盾することばではなるけれど、矛盾するからこそめぐりめぐって、ここではなく、どこかで一体になることも私たちは知っている。そうした一種のこんとんとした日本語の歴史、日本語の伝統のなかから、ことばが、高貝によって誘い出されてくる。高貝はことばを誘い出す肉体として生きている。ことばの肉体が、日本語の肉体が、高貝の肉体でもあるのだ。