くらもちさぶろう「ポックリ さま」ほか(「ガニメデ」37)。
城戸朱理の詩を読んだあとにくらもちの作品を読むと、その肉体感覚がと
てもリアルである。「ポックリ さま」。
くらもちの肉体はいつでも彼が触っている存在に触れ、それをものの「肉
体」と感じている。肉体の不思議さは、それが自分のものでもないのに、そ
の肉体の感じがわかることだ。だれかが腹を抱えてうずくまっている。そう
すると私たちはそれが私たちの肉体でもないのに「腹が痛いのだ」とわか
る。それと同じように、くらもちはミカン箱のクギで打ちつけた板、畑のな
かの杭の内部で起きていることを自分の肉体のように感じている。こうした
ことが起きるのは、くらもちが常にミカン箱や畑のなかの杭に肉体で接して
いるからだ。手で触れ、その感触を自分の肉体のなかに取り込んでいるから
だ。もの(存在)の声を肉体で伝えるには、常にものに触れることが必要
だ。「見る」だけではわからない。ものと「距離」をおくのではなく、もの
との「距離」をゼロにする。それが「触る」ということである。
「触る」こと、触ってわかる何かについて、「クギ を うっちゃ いけ
ねえ」に魅力的な行がある。生きている木にクギを打ってはいけないという
詩だ。
「触る」(この詩では「なでる」だが)とは、他者の温かさを知ること
だ。温かさとは生きている証のことだ。
同じ「ガニメデ」に発表されている「ブヨ」は、くらもちが木に触りなが
ら木の気持ちを自分の肉体にしているのと同じように、ブヨに対しても、そ
れを自分の肉体にしていることがわかる。刺されると痛いブヨに対してさえ
も、くらもちはこころを開いている。生きているものはみんなこころを持っ
ている。喜びも悲しみもしている。そうしたことを、自分の肉体を傷つける
ブヨに対してさえも、肉体として感じ取っている。
最終連が美しいが、特に最後の4行は信じられないくらいに美しい。この
4行のために「ガニメデ」の全ページが存在すると言ってもいいくらいだ。
城戸朱理の詩を読んだあとにくらもちの作品を読むと、その肉体感覚がと
てもリアルである。「ポックリ さま」。
あし が よ
ミカン ばこ の いた を
さびた クギ で くっつけた みてえで
ガタガタ する ん だよ
うばぐるま に つかまらねえ と あるけねえ
(略)
ポックリ さま に て を あわせて
ポックリ しに てえ
はたけ の まんなか で
つんのめって
ねもと が くさって たおれる くい みてえに
こえ もたてねえ で
くらもちの肉体はいつでも彼が触っている存在に触れ、それをものの「肉
体」と感じている。肉体の不思議さは、それが自分のものでもないのに、そ
の肉体の感じがわかることだ。だれかが腹を抱えてうずくまっている。そう
すると私たちはそれが私たちの肉体でもないのに「腹が痛いのだ」とわか
る。それと同じように、くらもちはミカン箱のクギで打ちつけた板、畑のな
かの杭の内部で起きていることを自分の肉体のように感じている。こうした
ことが起きるのは、くらもちが常にミカン箱や畑のなかの杭に肉体で接して
いるからだ。手で触れ、その感触を自分の肉体のなかに取り込んでいるから
だ。もの(存在)の声を肉体で伝えるには、常にものに触れることが必要
だ。「見る」だけではわからない。ものと「距離」をおくのではなく、もの
との「距離」をゼロにする。それが「触る」ということである。
「触る」こと、触ってわかる何かについて、「クギ を うっちゃ いけ
ねえ」に魅力的な行がある。生きている木にクギを打ってはいけないという
詩だ。
なでて あげな
ふゆ の あさ でも
あったかい ぞ
しんだ ニンゲン の て みてえじゃ ぬえ
「触る」(この詩では「なでる」だが)とは、他者の温かさを知ること
だ。温かさとは生きている証のことだ。
同じ「ガニメデ」に発表されている「ブヨ」は、くらもちが木に触りなが
ら木の気持ちを自分の肉体にしているのと同じように、ブヨに対しても、そ
れを自分の肉体にしていることがわかる。刺されると痛いブヨに対してさえ
も、くらもちはこころを開いている。生きているものはみんなこころを持っ
ている。喜びも悲しみもしている。そうしたことを、自分の肉体を傷つける
ブヨに対してさえも、肉体として感じ取っている。
最終連が美しいが、特に最後の4行は信じられないくらいに美しい。この
4行のために「ガニメデ」の全ページが存在すると言ってもいいくらいだ。
あせ の におい を かぎつけて
よろごんで いる のか
すすりなき の ような
おと を たてて いる