詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永島卓『永島卓詩集』(その3

2006-08-22 23:11:24 | 詩集
 『暴徒甘受』(1970年)。

おれの狂っているものの声を
おれが狂わなければ生きてゆくことができない
                   (「暴徒甘受 二」)

 この2行が好きでたまらない。ここには複数の「おれ」がいる。そしてその複数をそのまま複数として存在させようとする意志がある。「おれ」という人間はひとりであるはずだ。あるいは「おれ」の肉体は一個であるはずだ、と言えばいいだろうか。肉体としては一個だが、その肉体のなかには「一個」ではおさまりきれない思いがたぎっている。
 複数であるということは、常にそのひとつひとつが矛盾する可能性を持っている。複数が協力することもあるだろうが、互いに相手を否定することもあるだろう。そうした関係のなかで、どうしても狂うしかないものがあり、その狂うものもいのちである以上、複数の「おれ」のうちのだれかが狂わなければ、狂った声を発した「おれ」は生きてはいけない。狂った声を発した「おれ」にできるのは狂った声を発することだけだ。その声をだれかが実践し、狂わなければ、狂った声を発した「おれ」は声として存在するだけである。声も肉体であるが、肉体は声だけではない。手があり、足がある。手や足はひとを殴ったりけったりするためのものでもある。

おれは妻の健康な赤い頬を打ち
おれは三人の青い子供を土にたたきのめし
おれの狂っているものの声を
おれが狂わなければ生きてゆくことができない

 「おれ」は複数である。妻を殴る「おれ」、子供をたたきのめす「おれ」はけっして同一人物ではない。狂った声を発する「おれ」と、その声のために狂う「おれ」がそれぞれ独立しているように、妻を殴る「おれ」、子供をたたきのめす「おれ」は、それぞれ別個の存在であり、同時に、互いに依存している。(この詩は、行の冒頭がすべて「おれ」で始まっているが、その「おれ」はそれぞれが別個であり、同時に、互いに依存しているという意味でひとつでもある。)
 これらの行に先立つ部分に次のことばがある。

おれがなぐる意味と
おれがなぐりかえされることの行為は
おれの声のなかで複合し

 「複合」が『暴徒甘受』の、そして永島卓のキイワードである。あらゆる瞬間の「おれ」が複合して「おれ」の肉体を形作る。「おれ」という肉体のなかには複数の「おれ」がいて、それはそれぞれ独立していながら、互いに依存し、からみあい、融合する。「複合」する。

 人間が「複合」した「おれ」でできているということは、そうした人間、複合した「おれ」が集まる「場」としての「ふるさと」は、さらにさまざまなものが複合していることになる。そこでは何もかもが何かに吸収され、同時に何かによって叩き出される。そこでは受け入れられるものと拒絶されるものが同時に存在する。簡単にいえば、矛盾したいのちがいつも存在し、その瞬間瞬間で違った姿をあらわしてみせる。
 そうした世界と向き合うために、永島は「暴徒」という呼称を「甘受」する。しかし、その「甘受」は単に甘んじて受け入れるという受動的なものではないだろう。むしろ、受け入れるふり、他人に嫌われるふりをしながら、嫌われていることを利用して積極的に「暴徒」になりつづける。より狂暴な「暴徒」になっていく。「暴徒」になって「ふるさと」という「場」を攪乱する。攪乱して、そこに、今まで見えなかった何かを引き出そうとする。
 「暴徒」とは永島が「反碧南」というときの「反」と同じ意味である。「反」は一個ではない。複数である。さまざまな「反」がありうる。それと同じように「暴徒」の「おれ」もひとつの形ではない。複数の「おれ」、複数の「暴徒」のありようがある。(これは詩集のなかで詩が展開されていくにしたがって明らかになる。妻を殴り、子を殴るだけの「暴徒」ではないことがわかる。)
 もちろん「暴徒」であることを引き受けることは、同時に「暴徒」を否定しようとするものの存在をも認めることでもある。「暴徒」は殴るから「暴徒」なのではない。「暴徒」は「暴徒」を否定する存在によって殴られもするから「暴徒」なのである。殴られながら「暴徒」は他者のなかに「殴る」こと、暴力の意味を、観念ではなく、肉体として覚醒させる。「暴徒甘受」は「暴徒」という呼称を受け入れるだけではなく、他者が「暴徒」となって「おれ」に殴り掛かってくることをも「甘受」するという複合的な意味がある。

おれは妻の健康な赤い頬を打ち
おれは三人の青い子供を土にたたきのめし
おれの狂っているものの声を
おれが狂わなければ生きてゆくことができない
おれがいま此処に起っている実在は
おれが無視する唄々のひびくなかで
おれにまつわる過去が垂れる血を浴び
おれは抜けだしてゆく未来の行為に腐り
おれは濁河でらぐ在地で
おれはなぐりつづけ
おれはなぐりかえされつづけ

 「つづけ」「なぐされつづけ」の「つづけ」もまた永島のキイワードである。「つづく」は持続であり、同時に連続でもある。持続のなかにも連続のなかにも「つづく」は存在し、その「つづく」全体が「肉体」であり「ふるさと」である。
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