詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

海埜今日子「せきゆすい」ほか

2006-08-06 22:11:09 | 詩集
 海埜今日子「せきゆすい」(「すぴんくす」1)。

いつからか流木が棲みついていた、骨だったかもしれない、ごつごつした、それはことばだったかもしれない、かたい生がたゆたい、耳もとにつめたいひびきで、しろい話をよぎらせてくるのだった。

 海埜にとって、詩とは何よりことばである。ことばさえあれば詩がはじまるのである。「せきゆすい」の冒頭は、そう語っている。
 流木→骨→ごつごつしたということばの流れは、「ごつごつしたことば」(この表現は詩にはないが)にたどりつくと、もう流木はどうでもよくなっている。「ことば」はことばのあとを追いかけてあつまりはじめ「話」にかわる。「話」はやがて「物語」へと変化する。
 増殖することば、ことばが増殖していくことが「詩」なのだろう。

よどみ、すくいあげた気持ちをまさぐっている、石油をこぼした水は、違和をごつごいあたえながら、虹の膜を、たとえばあざやか野原を、けっして川なんかはない、ひしゃげた空き地をつたえてくるのだった。

 増殖することばは何よりも「気持ち」を中心に動く。「気持ち」がまず先にあって、それにあわせて、ことばによって存在を作り出す。「流木」はますます遠くなる。「川」となくなり、「空き地」を呼び寄せる。そしてそこには、ことばのように、ただひたすら増殖する植物、雑草がある。

根っこによりそう、摘んでいる、ハルジオン、ハキダメグサ、捨て去った液体のきゃしゃな音、それはだれのさいはてだったのだろう、くるしい関係をそそぎ、七色を拒否としてちらし、脈にどくどくとした思い、その分、ますますみがかれた木肌なのでたどれなくなる、最後に肯定の泡をぷつぷつとうかべ、なにかがおぼれ、語ることを後もどりして。

 だが、ときどきは「流木」も思い出して、「後もどり」をする。
 これが少し(実は、かなり)残念である。「後もどり」などせずに、そのまま一気に増殖する雑草になり、河原を越え、高速道路を越え、街を越えて行けばどんなにおもしろいだろうと思った。
 増殖することばが「詩」なのであれば、どんな足かせも拒否して、ただことばを増殖させなければ楽しくはならないだろうと思う。「ことばだったかもしれない」ではなく、「ことばだったにちがいない」というところまで、ことばを動かして行ってほしいと思った。
 「後もどり」しないことばこそ、「詩」なのではないか、と思う。



 佐伯多美子「睡眠の軌跡」(「すぴんくす」1)は、最初から「物語」の枠のなかでことばを動かす。ことばがいつのまにかどこか、今、ここではないところへ動いて行くのではなく、今発したことばではとらえられない何かをとらえるために、物語の中心へ中心へと動いて行く。そこに「永遠」がある、と信じている。
 実際に「永遠」を佐伯は描いている。その部分はなかなかおもしろい。「永遠」などという普遍的な概念が詩のテーマになるのは現代では難しいことだと思うが、佐伯は、それを個人的な物語という形で凝縮する。物語のなかで、ある特定の「時間」が凝縮し、その凝縮の果てに爆発して輝く。いわば物語のビックバンの瞬間。それが美しい。
 物語の凝縮と、佐伯自身のことばの凝縮が重なるようにして起きて、爆発も同時に起きる。ことばが突然、自由になる。
 物語という枠が最初からあるだけに、佐伯のことばは後戻りしない。


コメント
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