谷川俊太郎「詩人の墓」(「現代詩手帖」9月号)。
たいへん不思議な物語詩である。すべてのひとを魅了する詩を書き続ける詩人がいる。あるいはことばがすべて詩になってしまう男がいる。彼がひとりの娘と出会い、結婚する。いっしょにいるのに、娘はなぜか悲しくなる。
詩ではないことばを求める--その行為さえも谷川のことばにかかると「詩」になってしまう。この作品のなかで一番「詩」としてリアリティーがあるのが、この部分である。なんという矛盾だろう。「何か言って詩じゃないことを/なんでもいいから私に言って! 」という行を何度も何度も繰り返して読んだ。
ここには詩ではない詩を書きたいという欲望がひそんでいる。詩ではないことばだけがほんとうは詩になるのではないか、という大きな問題が提起されている。その提起にはまったく同感である。あらゆる詩は、詩ではないことばを取り込むことによって、詩を大きくしている。そういう意味では、これはけっして新しい問題の提起ではない。古い古い問題の提起を、谷川が谷川流のことばで繰り返しているのだと言える。
それなのに、何度も何度も繰り返し読んでしまう。あるいは、それだからこそと言ってしまった方がいいのだろうか、何度も何度も繰り返し読みながら、こんなふうに簡単に詩にしてしまっていいのだろうか、と思う。
この詩のなかにも書かれていることだが、谷川の詩を読むと、ときどきこんなに簡単に詩になってしまっていいのだろうか、と思うことばに出会うことがある。
そう思いながらも、なぜだろうか。この詩に私は魅了されてしまう。最近読んだ谷川の詩のなかではもっともおもしろいものだと感じている。
この作品を読み返したとき、次の連につまずいた。読みとばしていたことに気がついた。
連全体というよりも、「男はいつもひとりで詩を書いた」の1行に私は驚いてしまった。友達のいない詩人がいても不思議ではない。詩を書いていないと退屈だという詩人がいても不思議ではない。だが「いつもひとりで詩を書いた」とわざわざ言う詩人がいるだろうか。普通詩人はひとりで詩を書く。共同で書くようなことがあるかもしれないが、そういうことは稀であり、特別なことがらである。ごく普通のこと、あたりまえのことをとても重要なことであるかのように谷川は書いている。
谷川にとって、これは、ほんとうに重要なこと、書かずにはいられないことなのではないだろうか。もしかすると、この詩は「男はいつもひとりで詩を書いた」という行を書くために存在しているのではないだろうか、と思った。
「男はいつもひとりで詩を書いた」--そのとき、(その男が谷川と仮定して)そのことばは谷川にとって詩なのだろうか。詩ではないのではないのか。谷川にとって詩とは、そのことばが自分から離れ、誰かの手に届いたときに完成するのではないか。もちろん、詩とは(あるいは芸術とは、すべて)、作者の手から離れ、鑑賞者に受け入れられたときにその「芸術」が完成する。これは当然のことであるが、谷川は特にそういうことを精神の深いところで感じているのではないだろうか。谷川の詩に強引な印象がないのは、誰かに届いてほしい、受け止めてほしいという願いがあるからではないか。誰かに届いてほしい、誰かのなかで「詩」になってほしいという願いがことばをしずかにととのえているのではないか。そこに、なんといえばいいのだろう、静かな悲しみのようなものがある。透明な悲しみのようなものがある。
そして、誰かに届いてほしいという願いがあるからこそ、谷川はどんな注文にも詩を書くのだろう。どんなスタイルの詩も書くのだろう。
とても切実な「自画像」がここに書かれている。透明な自画像がここに書かれている。
この作品には注釈がついている。「太田大八さんの絵で、今秋絵本として集英社から刊行予定」。この注釈を読むと、谷川の願いはいっそう鮮明になる。絵本の絵と出会い、谷川のことばはその瞬間、「現代詩手帖」(あるいは初出詩誌「風」)に書かれたものとは違ったものになる。出会いのなかで変化する。それがどのような形であれ、谷川はそういう変化が好きなのだと思う。自分のことばが誰かのなかで変わっていく、そのこと自体に「詩」を感じているのだと思う。
この詩のなかに出てくる娘。その娘といっしょに暮らすのも、娘のなかで谷川のことばが変わっていく、思いもかけなかった姿として受け止められていく、そのことが好きだからいっしょに暮らすのだろう。(暮らしたのだろう。)
詩はいつでもひとりで書くものである。しかし、詩は、いつでも他人のなかで変化してつくものである。その変化のなかでこそ、谷川は谷川になる。詩を書いているときはひとりの「男」でしかない。ところが詩を書いてしまい、それが他人に届くとき、それが好意的な受け入れであれ、批判的な拒絶であれ、そうした動きがあるとき、谷川は、その動きのなかで谷川自身になる。
谷川にはそうしたものが見えるのだろう。まだ誰も見ていない谷川が、つまり谷川だけが感じる谷川というものがいつも見えるのだろう。あるいは、そういう透明な谷川の変化を見るために、谷川は「絵本」というような共同作業に積極的にかかわるのだろう。あるいは、歌のために詩を提供するのだろう。
この詩はちょっと悲しげなことばでおわる。詩人は死ぬ。そして、
墓にことばが刻まれていないのは、その墓のそばに娘が立っているからである。娘がそのとき墓に刻まれたことばなのである。娘のなかで生きていることば、谷川と出会うことで娘のなかで生まれたことば、まだことばとして書かれていないことば、それこそが実は谷川自身なのだということだ。
谷川は、そういうことを静かに夢見ているのだと思う。谷川の書いたことばは印刷物のなかに残る。しかしそれよりも、ことばにならず、ただ誰かの肉体のなかにひっそりと、ただひっそりとたたずんでいる、肉体そのものとしてたたずんでいることばこそがほんとうの谷川の「詩」だと夢見ているのだと思う。
たいへん不思議な物語詩である。すべてのひとを魅了する詩を書き続ける詩人がいる。あるいはことばがすべて詩になってしまう男がいる。彼がひとりの娘と出会い、結婚する。いっしょにいるのに、娘はなぜか悲しくなる。
ある夕暮れ娘はわけもなく悲しくなって
男にすがっておんおん泣いた
その場で男は涙をたたえる詩を書いた
娘はそれを破り捨てた
男は悲しそうな顔をした
その顔を見ていっそう烈しく泣きながら娘は叫んだ
「何か言って詩じゃないことを
なんでもいいから私に言って! 」
詩ではないことばを求める--その行為さえも谷川のことばにかかると「詩」になってしまう。この作品のなかで一番「詩」としてリアリティーがあるのが、この部分である。なんという矛盾だろう。「何か言って詩じゃないことを/なんでもいいから私に言って! 」という行を何度も何度も繰り返して読んだ。
ここには詩ではない詩を書きたいという欲望がひそんでいる。詩ではないことばだけがほんとうは詩になるのではないか、という大きな問題が提起されている。その提起にはまったく同感である。あらゆる詩は、詩ではないことばを取り込むことによって、詩を大きくしている。そういう意味では、これはけっして新しい問題の提起ではない。古い古い問題の提起を、谷川が谷川流のことばで繰り返しているのだと言える。
それなのに、何度も何度も繰り返し読んでしまう。あるいは、それだからこそと言ってしまった方がいいのだろうか、何度も何度も繰り返し読みながら、こんなふうに簡単に詩にしてしまっていいのだろうか、と思う。
この詩のなかにも書かれていることだが、谷川の詩を読むと、ときどきこんなに簡単に詩になってしまっていいのだろうか、と思うことばに出会うことがある。
そう思いながらも、なぜだろうか。この詩に私は魅了されてしまう。最近読んだ谷川の詩のなかではもっともおもしろいものだと感じている。
この作品を読み返したとき、次の連につまずいた。読みとばしていたことに気がついた。
男はいつもひとりで詩を書いた
友達はいなかった
詩を書いていないとき
男はとても退屈そうだった
連全体というよりも、「男はいつもひとりで詩を書いた」の1行に私は驚いてしまった。友達のいない詩人がいても不思議ではない。詩を書いていないと退屈だという詩人がいても不思議ではない。だが「いつもひとりで詩を書いた」とわざわざ言う詩人がいるだろうか。普通詩人はひとりで詩を書く。共同で書くようなことがあるかもしれないが、そういうことは稀であり、特別なことがらである。ごく普通のこと、あたりまえのことをとても重要なことであるかのように谷川は書いている。
谷川にとって、これは、ほんとうに重要なこと、書かずにはいられないことなのではないだろうか。もしかすると、この詩は「男はいつもひとりで詩を書いた」という行を書くために存在しているのではないだろうか、と思った。
「男はいつもひとりで詩を書いた」--そのとき、(その男が谷川と仮定して)そのことばは谷川にとって詩なのだろうか。詩ではないのではないのか。谷川にとって詩とは、そのことばが自分から離れ、誰かの手に届いたときに完成するのではないか。もちろん、詩とは(あるいは芸術とは、すべて)、作者の手から離れ、鑑賞者に受け入れられたときにその「芸術」が完成する。これは当然のことであるが、谷川は特にそういうことを精神の深いところで感じているのではないだろうか。谷川の詩に強引な印象がないのは、誰かに届いてほしい、受け止めてほしいという願いがあるからではないか。誰かに届いてほしい、誰かのなかで「詩」になってほしいという願いがことばをしずかにととのえているのではないか。そこに、なんといえばいいのだろう、静かな悲しみのようなものがある。透明な悲しみのようなものがある。
そして、誰かに届いてほしいという願いがあるからこそ、谷川はどんな注文にも詩を書くのだろう。どんなスタイルの詩も書くのだろう。
とても切実な「自画像」がここに書かれている。透明な自画像がここに書かれている。
この作品には注釈がついている。「太田大八さんの絵で、今秋絵本として集英社から刊行予定」。この注釈を読むと、谷川の願いはいっそう鮮明になる。絵本の絵と出会い、谷川のことばはその瞬間、「現代詩手帖」(あるいは初出詩誌「風」)に書かれたものとは違ったものになる。出会いのなかで変化する。それがどのような形であれ、谷川はそういう変化が好きなのだと思う。自分のことばが誰かのなかで変わっていく、そのこと自体に「詩」を感じているのだと思う。
この詩のなかに出てくる娘。その娘といっしょに暮らすのも、娘のなかで谷川のことばが変わっていく、思いもかけなかった姿として受け止められていく、そのことが好きだからいっしょに暮らすのだろう。(暮らしたのだろう。)
詩はいつでもひとりで書くものである。しかし、詩は、いつでも他人のなかで変化してつくものである。その変化のなかでこそ、谷川は谷川になる。詩を書いているときはひとりの「男」でしかない。ところが詩を書いてしまい、それが他人に届くとき、それが好意的な受け入れであれ、批判的な拒絶であれ、そうした動きがあるとき、谷川は、その動きのなかで谷川自身になる。
谷川にはそうしたものが見えるのだろう。まだ誰も見ていない谷川が、つまり谷川だけが感じる谷川というものがいつも見えるのだろう。あるいは、そういう透明な谷川の変化を見るために、谷川は「絵本」というような共同作業に積極的にかかわるのだろう。あるいは、歌のために詩を提供するのだろう。
この詩はちょっと悲しげなことばでおわる。詩人は死ぬ。そして、
その墓のかたわらに
気がつくとひとりぼっちで娘は立っていた
昔ながらの青空がひろがっていた
墓には言葉はなにひとつ刻まれていなかった
墓にことばが刻まれていないのは、その墓のそばに娘が立っているからである。娘がそのとき墓に刻まれたことばなのである。娘のなかで生きていることば、谷川と出会うことで娘のなかで生まれたことば、まだことばとして書かれていないことば、それこそが実は谷川自身なのだということだ。
谷川は、そういうことを静かに夢見ているのだと思う。谷川の書いたことばは印刷物のなかに残る。しかしそれよりも、ことばにならず、ただ誰かの肉体のなかにひっそりと、ただひっそりとたたずんでいる、肉体そのものとしてたたずんでいることばこそがほんとうの谷川の「詩」だと夢見ているのだと思う。