倉橋健一『化身』(思潮社)。
寓意がある。多くの詩が、ほとんど「私」を中心にして、私が体験したこと、私の感想を書いているのに対して、この詩集には私がほとんど登場しない。ただし、どんなものにも例外はある。「テロの実行者(テロリスト)にいたる六つの断章」。その第1連。
「もしもわたしが」の1行には「なる」が省略されている。(2連目の書き出しは「もしもわたしが身代わりになるとしたら水」)もっとことばを補えば、1行目は「もしもわたしが生まれ変わり何かになるとしたら色」という文になる。「何かになる」ということばが省略されているのだ。
この詩集には、そして、「もしもわたしが何かになるとしたら」が随所に省略されている。「もしも何かになるとしたら」を省略して書かれたのがこの詩集であるとさえ言える。そう考えると、この詩集には「わたし」が省略されているどころか、「わたし」しか描かれていないとさえ言える。
詩の中で倉橋は何かになり、何かになってことばを、つまりこころを、精神と感性を動かす。どんなふうに倉橋の精神、感性、ことばが動けるかを確かめている。それは「わたし」そのものである。
冒頭の「草原にて」は「もしもわたしが何かになるとしたら」を補って読むと、倉橋が描こうとしたものが少しわかりやすくなる。
は、「もしもわたしが何かになるとしたら、若者」。その若者は小さな群のなかから、ひとり立ちあがると、別れの日はやってきた、ということになる。そして、別れの日はやってきたのではなく、実は、若者が立ちあがることによって作り出されたのだということもわかる。
そこからはじまるのが現実であるとしたら、それは「わたし」によって作り出された現実である。倉橋の「わたし」が作り出した現実である。倉橋の「わたし」によって作り出されたものであるからこそ、それは私たちが日常的に接する世界とは異質なものを持っている。
こんなかっこよさは現実にはありえない。現実はこんなふうにかっこよく人間が動くことを許してくれないだろう。倉橋は、倉橋の作り出したことばの世界で人間が(もしわたしがなるとしたらなるであろう人間が)、どんなに自由に動けるかを書きたかったのだろう。
実際の現実では、こういうことはありえない。だからこそ、「若者」は消えていく。
「見えざる人」。それは倉橋の「理想」なのかもしれない。何者かになる、たとえば若者になる。そして、さっと動いて、次の瞬間には「見えざる人」になる。私たちに残されるのは何か。「若者」が動いた、その軌跡だけである。そして、その軌跡とは、人間の可能性なのである。
寓話、寓意のなかにあるのは人間の可能性である。倉橋の書きたいことを、そのように定義しなおすこともできると思う。
寓意、寓話のなかにある人間の可能性--それは、次のように言いなおすこともできるかもしれない。私たちは倉橋の描いた軌跡をとおして、私たち自身も何者かになれる、ということを思い描けるのだ。そういう想像力を刺激するために、倉橋は詩を書いている。
「見えざる人」というのは透明人間のことではない。見たこともない世界へ行ってしまったから、見えないだけである。見たことのない世界で、今まで見たこともない何者かにもういちど変化してしまった(なってしまった)(化身してしまった)から、私たちはそれを見えないと感じているだけなのだ。それはちょうど、倉橋が「もしもわたしが何かになるとしたら、若者」ということばを省略して、突然「若者」として登場してきたために、私たちに倉橋が見えなかったのと同じである。倉橋は「若者」に「化身」してしまっていた。だから、見えなかった。
倉橋は私たちに、私たちも「化身」しうるということを教えているのである。
「わたし」「若者」「彼」「草食有蹄獣」という変化の連続、化身の連続--そこに人間の可能性がある。それは「もしもわたしが何かになるとしたら」という仮定からはじまっている。そのことを忘れないようにしたい。
(この項、つづく)
寓意がある。多くの詩が、ほとんど「私」を中心にして、私が体験したこと、私の感想を書いているのに対して、この詩集には私がほとんど登場しない。ただし、どんなものにも例外はある。「テロの実行者(テロリスト)にいたる六つの断章」。その第1連。
もしもわたしが生まれ変わるとしたら色
なかでもあかね色 あかね色というより雲灼く熱
でなければ焔の極小単位
寒冷前線に身を置いて
けんめいに吃水線を上下しつつ
わたしを織って絨毯になり灼爛する
「もしもわたしが」の1行には「なる」が省略されている。(2連目の書き出しは「もしもわたしが身代わりになるとしたら水」)もっとことばを補えば、1行目は「もしもわたしが生まれ変わり何かになるとしたら色」という文になる。「何かになる」ということばが省略されているのだ。
この詩集には、そして、「もしもわたしが何かになるとしたら」が随所に省略されている。「もしも何かになるとしたら」を省略して書かれたのがこの詩集であるとさえ言える。そう考えると、この詩集には「わたし」が省略されているどころか、「わたし」しか描かれていないとさえ言える。
詩の中で倉橋は何かになり、何かになってことばを、つまりこころを、精神と感性を動かす。どんなふうに倉橋の精神、感性、ことばが動けるかを確かめている。それは「わたし」そのものである。
冒頭の「草原にて」は「もしもわたしが何かになるとしたら」を補って読むと、倉橋が描こうとしたものが少しわかりやすくなる。
小さな群のなかから
ひとりの若者が立ちあがると
とうとう別れの日はやってきた
は、「もしもわたしが何かになるとしたら、若者」。その若者は小さな群のなかから、ひとり立ちあがると、別れの日はやってきた、ということになる。そして、別れの日はやってきたのではなく、実は、若者が立ちあがることによって作り出されたのだということもわかる。
そこからはじまるのが現実であるとしたら、それは「わたし」によって作り出された現実である。倉橋の「わたし」が作り出した現実である。倉橋の「わたし」によって作り出されたものであるからこそ、それは私たちが日常的に接する世界とは異質なものを持っている。
トウモロコシとでんぷん性球根と硬バナナしか口にしたことがないというのに
若者はすらりと鮮(あざ)やぐ黒い肌を持っている
さようなら
振りむかなかった
おそらくは感傷とたくみに吊り合った傲慢が
振りむくことを
断念させたのだ
こんなかっこよさは現実にはありえない。現実はこんなふうにかっこよく人間が動くことを許してくれないだろう。倉橋は、倉橋の作り出したことばの世界で人間が(もしわたしがなるとしたらなるであろう人間が)、どんなに自由に動けるかを書きたかったのだろう。
実際の現実では、こういうことはありえない。だからこそ、「若者」は消えていく。
あるいは
一刻も早く
地平線を越えて
見えざる人になってしまいたかったのかも
「見えざる人」。それは倉橋の「理想」なのかもしれない。何者かになる、たとえば若者になる。そして、さっと動いて、次の瞬間には「見えざる人」になる。私たちに残されるのは何か。「若者」が動いた、その軌跡だけである。そして、その軌跡とは、人間の可能性なのである。
寓話、寓意のなかにあるのは人間の可能性である。倉橋の書きたいことを、そのように定義しなおすこともできると思う。
寓意、寓話のなかにある人間の可能性--それは、次のように言いなおすこともできるかもしれない。私たちは倉橋の描いた軌跡をとおして、私たち自身も何者かになれる、ということを思い描けるのだ。そういう想像力を刺激するために、倉橋は詩を書いている。
「見えざる人」というのは透明人間のことではない。見たこともない世界へ行ってしまったから、見えないだけである。見たことのない世界で、今まで見たこともない何者かにもういちど変化してしまった(なってしまった)(化身してしまった)から、私たちはそれを見えないと感じているだけなのだ。それはちょうど、倉橋が「もしもわたしが何かになるとしたら、若者」ということばを省略して、突然「若者」として登場してきたために、私たちに倉橋が見えなかったのと同じである。倉橋は「若者」に「化身」してしまっていた。だから、見えなかった。
倉橋は私たちに、私たちも「化身」しうるということを教えているのである。
こんなふうに
ひとりの若者は遠ざかり
みたこともないかなたとこちらがわとのあいだには
触れ合うことのできない境界線(ボーダーライン)ができあがった
境界線のむこうがわで彼がどのような存在になっていったか
村長(むらおさ)は神託をえて
食べられながらも生き続けられる通力者になったといい
聞いたみんなは
濃い茂みを背景に
長いツノ、たくましい首で群の先頭に立つ
一頭のセーブル(黒羚羊)を夢想した
鋼鉄のバネに秘めた筋肉質の肉食獣にも雄叫(おたけ)びをあげて立ちむかう
敏捷果敢な一頭の草食有蹄獣を
来る日も来る日も
思い続けたのだった
「わたし」「若者」「彼」「草食有蹄獣」という変化の連続、化身の連続--そこに人間の可能性がある。それは「もしもわたしが何かになるとしたら」という仮定からはじまっている。そのことを忘れないようにしたい。
(この項、つづく)