詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

今井義行『ライト・ヴァース』

2006-08-19 10:48:29 | 詩集
 今井義行『ライト・ヴァース』(私家版)。

陶器のタンクがわれた
みずが階下に漏れてからっぽ
になり みずを拭く
みずは よろこばなかった

 「遠浅」の3連目である。「みずは よろこばなかった」で私は長い間考え込んでしまった。水へののめりこみ方、共感の仕方が生々しすぎる。
 今井は、タンクが割れてこぼれた水を、物理現象としてではなく、水の自殺と考えている。水にとって自殺とはどういうものだろうか。器からこぼれ形を失うことか。どこまでも下へ下へと流れてゆき、やがて地中に吸い込まれて消えていくことか。そのとき、「みずを拭く」という行為は水にとってはどういう意味合いを持つだろうか。水全体の一部が本来の場所から(死の場所から)引き剥がされるということを意味するだろう。
 同じ体の水から引き剥がされ、同時に、引き剥がした人間は引きはがしたということを意識しない。引き剥がされたことに対して水は抗議できない。抗議しても、引き剥がした人間に引き剥がしたという意識がないのだから、抗議は通じない。その悲しみを「よろこばなかった」と今井は書いている。
 これは非常に複雑な状況である。そこで動いている感情は非常に微妙である。矛盾していて、その矛盾をときほぐすと何もかもが消えてしまう。矛盾のなかでやっと持ちこたえている感情である。
 水を拭いているのは今井である。水は拭かれていることを「よろこばなかった」。自殺したかった水は、自殺できずに、殺されてしまったからである。そのことを水が抗議しているのだが、その抗議していることを理解しながら、今井にはその抗議が聞こえない。いや、聞こえるけれども、聞き入れることができないという意味で、聞かなかったと同じであり、水にとっては、抗議を受け入れられなかったのは、抗議の声が届かなかったのと同じである。……いや、声が届かなかったということと聞き入れられなかったということは別の問題である。声はたしかに届いているのだ。だからこそ「よろこばなかった」という共感も書かれている。
 そして、それは何か悲鳴のようにも聞こえる。悲鳴とさとられないように声を殺した悲鳴のように聞こえてしまう。「どうして自殺させてくれないのか?」「いっそう、殺してくれればいいのに」というよりも、「殺してくれ」という願いのようにも聞こえてしまう。
 こういう「願い」は抱え込むわけにはいかない。何かが間違っている。間違っているということはわかるが、その解決方法はない。
 だから今井は「よろこばなかった」と簡単なことばですべてを放り出す。放り出すしか持ちこたえることができないのである。放り出して、ながめること、それが感情を持ちこたえること、共感することと同じことになる一瞬。そういうものが、ここにはある。

 この詩の引用部分に先立つ2連。

二度とうまれてきたくはない
と 口を閉ざした
かいがら が ひとつ
ふってみると からんからん
卒業式のおとがした

此処は 遠浅の場所だから僅かしか死ねない
そういうことだろう?
かいがら

 「そういうことだろう?」と今井は念を押している。だれに? 貝殻に? それとも自分自身に? それはけっして区別がつかない。貝殻に念を押すことは自分自身に念を押すことであり、同時に自分の思いを貝殻に代弁させることである。そのとき貝殻は今井であり、今井は貝殻である。
 同じように、水を拭くとき、今井は水を拭きながら、同時に拭かれる水である。水と今井の肉体は一体になり、そのなかで感情を分かち合い、かろうじて感情を持ちこたえる。感情を分かち合うことで肉体の、いのちをつなぎとめる。

 人間と感情をわかちあえない苦しみがことばの底にたまっている作品群である。こんなことを書いていいのかどうか、私には、実はわからない。詩集をもらって1か月になる。長い間感想を書かなかった理由もそこにある。
 詩を書き続けることで、今井は今井のいのちをつないでいる。その切実さが痛々しい。読むと苦しくなる。
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