池井昌樹『童子』(その4)
池井の詩には、いつも「今」というものがない。ただ「永遠」だけがある。永遠の直中で放心している池井がいるだけである。「永遠」はさまざまなことばで表現されている。「ならわし」では次の2行。
「こことはちがうどこか」が「永遠」なのではない。「はれわたってゆくような」という「透明感」、距離のなさが「永遠」なのである。
池井はつねにいのちのつながりを描いているが、そのつながり、たとえば父母-私-息子(過去-現在-未来)には、いわば時間の隔たり(距離)がある。その距離がある状態では「永遠」とはいえない。距離が消えるときが「永遠」なのである。距離が消えるというのは時間の区別がなくなることである。今が過去であり、過去が今であり、また未来でもあるという時間の融合した状態が「永遠」である。
この作品では、「永遠」をまた違った形でも表現している。
「つた」「くも」「かすみ」と変化していくもの。つながっていくもの。その変化は「つた」と「くも」、「くも」と「かすみ」を隔てるものがなくなっていくことだ。区別が消滅し、距離がゼロになる。そこにも「永遠」がある。
そうした風景の、あるいは風景をつくる存在の、距離感の消滅とは別に、もうひとつの距離感の消滅がある。それがこの詩の一番おもしろいところだ。
池井は遠い窓のなかに口をすすぐ人を見ていた。それがいつのまにか風景をぼんやりと眺める池井にかわってしまい、その瞬間、池井はだれかに見られている。だれかを見つめていた池井がだれかに見られている。池井は口をすすぐ人との距離感をなくし、一体になって、今はだれかに見られている。そこに「永遠」がある。
池井を見つめる「だれか」。その存在は、池井と、池井が見つめていた口をすすぐ人とを融合させる力を秘めている。そういう力の前で、池井は放心しているのである。それは池井を見つめる「だれか」こそが「永遠」である、ということだ。
こうした文章を書くと、その「だれか」を「神」と呼ぶ人がいるかもしれないが、けっしてそうではない。そうした超人的な存在を池井は想定していない。考えていない。これはたとえば「りんさんの月」を読むとよくわかる。石垣りんを追悼する詩である。このすばらしい作品(池井の作品のなかでもっともすばらしい作品だと私は確信する)は、ぜひ多くの人に直接読んでもらいたいので、ほんとうに一部だけを引用する。私の考えも、少しだけにとどめる。
「こころゆくまで」は池井の放心につながる状態である。そうあることが「神」ではなく「にんげん」であると池井は書く。「だれか」とは「こころゆくまで/にんげん」である存在のことである。それは、たぶん世界のどんなところにも生きている。自分を大切にして、同時に出会った人を大切にして生きている。そういう相互のありようが「にんげん」ということだ。
池井は、この詩のなかで「それでよい」と言っている。先輩詩人に対して「それでよい」とは傲慢な言い方だろうか。そうではない。「そうなりたい」では、池井の思いはつたわらない。「それでよい」は、「そうなりたい」よりもっともっと強い肯定である。こういうことはできる限り強く力を込めて言わなければならないものなのだ。全肯定なのである。
あるいは、こういえばもっと池井の思いに近くなるだろうか。
「こころゆくまで/にんげん」であるということは「詩人」であるということだ。一瞬一瞬を「永遠」に変えて生きていく存在。すべてを融合し、すべてを融合ゆえに個別に輝かせ、その存在すべてがつながっているということをたしかなことばで、たしかな態度で表現する存在。あるいは、それが到達した世界、つまり「詩」というものが世界にある。「それでよい」と池井は言いたいのだ。
池井の詩には、いつも「今」というものがない。ただ「永遠」だけがある。永遠の直中で放心している池井がいるだけである。「永遠」はさまざまなことばで表現されている。「ならわし」では次の2行。
こことはちがうどこかへ
はれわたってでもゆくような
「こことはちがうどこか」が「永遠」なのではない。「はれわたってゆくような」という「透明感」、距離のなさが「永遠」なのである。
池井はつねにいのちのつながりを描いているが、そのつながり、たとえば父母-私-息子(過去-現在-未来)には、いわば時間の隔たり(距離)がある。その距離がある状態では「永遠」とはいえない。距離が消えるときが「永遠」なのである。距離が消えるというのは時間の区別がなくなることである。今が過去であり、過去が今であり、また未来でもあるという時間の融合した状態が「永遠」である。
この作品では、「永遠」をまた違った形でも表現している。
あんなにとおいまどのなか
まだくちすすぐあのひとの
どこかみおぼえあるかおは
あれはだれだったのかなあ
ぼくにみられているともしらず
あんなところでかおをふき
いまはみえなくなったひと
まどにはつたがおいしげり
それがいつしかくもになり
かすみになってきえるのを
ひとりぼんやりみています
だれにみられているともしらず
「つた」「くも」「かすみ」と変化していくもの。つながっていくもの。その変化は「つた」と「くも」、「くも」と「かすみ」を隔てるものがなくなっていくことだ。区別が消滅し、距離がゼロになる。そこにも「永遠」がある。
そうした風景の、あるいは風景をつくる存在の、距離感の消滅とは別に、もうひとつの距離感の消滅がある。それがこの詩の一番おもしろいところだ。
池井は遠い窓のなかに口をすすぐ人を見ていた。それがいつのまにか風景をぼんやりと眺める池井にかわってしまい、その瞬間、池井はだれかに見られている。だれかを見つめていた池井がだれかに見られている。池井は口をすすぐ人との距離感をなくし、一体になって、今はだれかに見られている。そこに「永遠」がある。
池井を見つめる「だれか」。その存在は、池井と、池井が見つめていた口をすすぐ人とを融合させる力を秘めている。そういう力の前で、池井は放心しているのである。それは池井を見つめる「だれか」こそが「永遠」である、ということだ。
こうした文章を書くと、その「だれか」を「神」と呼ぶ人がいるかもしれないが、けっしてそうではない。そうした超人的な存在を池井は想定していない。考えていない。これはたとえば「りんさんの月」を読むとよくわかる。石垣りんを追悼する詩である。このすばらしい作品(池井の作品のなかでもっともすばらしい作品だと私は確信する)は、ぜひ多くの人に直接読んでもらいたいので、ほんとうに一部だけを引用する。私の考えも、少しだけにとどめる。
こころゆくまで
にんげんだった
石垣りん
それでよい。
「こころゆくまで」は池井の放心につながる状態である。そうあることが「神」ではなく「にんげん」であると池井は書く。「だれか」とは「こころゆくまで/にんげん」である存在のことである。それは、たぶん世界のどんなところにも生きている。自分を大切にして、同時に出会った人を大切にして生きている。そういう相互のありようが「にんげん」ということだ。
池井は、この詩のなかで「それでよい」と言っている。先輩詩人に対して「それでよい」とは傲慢な言い方だろうか。そうではない。「そうなりたい」では、池井の思いはつたわらない。「それでよい」は、「そうなりたい」よりもっともっと強い肯定である。こういうことはできる限り強く力を込めて言わなければならないものなのだ。全肯定なのである。
あるいは、こういえばもっと池井の思いに近くなるだろうか。
「こころゆくまで/にんげん」であるということは「詩人」であるということだ。一瞬一瞬を「永遠」に変えて生きていく存在。すべてを融合し、すべてを融合ゆえに個別に輝かせ、その存在すべてがつながっているということをたしかなことばで、たしかな態度で表現する存在。あるいは、それが到達した世界、つまり「詩」というものが世界にある。「それでよい」と池井は言いたいのだ。