詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤悠子「貝殻の丘」、辻内京子「目盛」ほか

2009-05-03 15:01:05 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤悠子「貝殻の丘」、辻内京子「目盛」ほか(「ふらんす堂通信」120 、2009年04月25日発行)

 伊藤悠子「貝殻の丘」のことばの魅力は具象が抽象を誘い込むところにある。描写は具体的である。そして、その具体的な描写が、何かしら、精神に作用してくる。意識を動かす。具体的な描写をするとき、目だけではなく、精神が動いているという実感がある。
 「貝殻の丘」の1連目。

堆積した貝殻を含む厚い地層は
透明なガラス一枚に取って代わられ
縄文の人骨が横たわっている
大きな人だ
欠けたところの少ない顎骨が笑っている
かつて人の表情に見たことがある
酷薄と見たものが放心であり
あるいは困惑であったのかもしれない
ただの

 貝塚の近くの展示室で縄文人の人骨を見た。そのときのことを書いているのだが、「厚い地層」と「ガラス一枚」の対比がさまざまなことを考えさせてくれる。「ガラス一枚」がなければ、きっと「厚い地層」というものは出てこなかっただろう。「ガラス一枚」によって、誘い出された「厚い地層」が、ここにある。
 そして、その「ガラス一枚」が、その透明であるものが、実は透明ではなく、現実では「厚い地層」であることもあるのだ。
 人の顔。それは、地層に被われているわけではない。人と向き合うとき、その表情を隠すものはない。縄文人が厚い地層のなかに隠れているのとは事情が違う。そのまま「透明な」(ガラスよりも透明な)空気が「私」と「相手」を隔てているだけである。
 相手の表情が見える。そして表情を見る、ということは、相手の「こころ」を見るということでもある。
 けれど、その表情から読みとったもの--それはほんとうに「こころ」だったのか。

かつて人の表情に見たことがある
酷薄と見たものが放心であり
あるいは困惑であったのかもしれない

 「透明な地層」というものがある。心理の地層というものがある。その地層は「堆積した貝殻を含む厚い地層」のように、手で取り除くことはできない。手では触れない地層である。手で触れないから「透明な地層」としか呼べないのである。
 それが「ガラス一枚」の力で、あたかも手で触れる地層のように、具体的に、意識に迫ってくる。



 辻内京子は『蝶生』で第32回俳句協会新人賞受賞者。「目盛」というタイトルで10句発表している。そのなかから、3句。

水仙や物言ふ前の眼美し
すれ違ふ人に墨の香ゆふざくら
米櫃の目盛単純あたたかし

 対象をぎゅうっとしぼりこんで、しぼりこんだ瞬間にぱっと解放する。そのとき、感覚が新しく生まれ変わる。そういう新鮮さがいい。
 特に、「米櫃」の句がいい。
 「水仙や」「すれ違ふ」の句は、古今集、新古今集に通じる繊細な感覚、一種技巧的な感覚だが、「米櫃」は生活に密着している。
 映画「泥の河」(宮本輝原作)に、少女が米櫃に手を突っ込んで、「おこめって、あったくかていいなあ」というせりふがある。貧しい少女が、こめびつのこめ、その存在に、いのちをささえる温みを感じるシーンである。そのときの「あたたかい」ということばに通じる「あたたかし」。

 同じ新人賞受賞者の日原伝。(伝は正確には正字体)

石段に蔭と日向と落椿
汁椀に小蟹吐きたる浅蜊かな

 「石段」の句、黒、白、赤という色の対比が美しい。椿にはもちろん白い椿ものあるのだろうけれど、目に浮かぶのは赤。そういう色を洗い出す感じがいい。

 もうひとり、同じ賞の横井遥。

まつすぐにまつすぐに葦枯るるなり
石切りの石の匂へる寒の入
冴返る猪皮の耳二つ

 「石切り」。冬の冷たい空気の透明さ、はりつめた感じのなかでは、石さえも「いのち」の匂いを放つ。「冴返る」。「耳二つ」の「二つ」がとても生々しい。



詩集 道を小道を
伊藤 悠子
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句集 蝶生る
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『田村隆一全詩集』を読む(73)

2009-05-03 00:42:30 | 田村隆一
 『灰色のノート』(1993年)。巻頭は「一千一秒の孤独」。このタイトルはなんとなく、谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」を連想させる。また、田村の『四千の日と夜』をも連想させる。『灰色のノート』自体、田村の青春の愛読書を連想させる。
 この「一千一秒の孤独」では、田村は「時間」と向き合っている。

死者には「時間」 足音もなく
過ぎて行く「時間」がない それで
死者はいつまでたっても若い
鳶色の古いアルバムのなかで 一瞬
凍結した微笑

 ここには「時間」の不思議さのひとつが語られている。「時間」は誰にでも共有のものではない。「時間」は生きているものだけに属する。「時間」はある意味では、「想像力」なのである。「いま」と「いま」ではない「時」を関連づけて考える時、はじめて浮かび上がってくる「生存の形式」が「時間」である。死者には「いま」という「時」がない。「いま」は「生存形式」とはなりえないから、そこから「時間」は生まれない。したがって「時間」が過ぎてゆくということもない。
 「いま」を生きている田村は、「過去」の自分の「いま」を比較して、年をとったと感じる。けれど「死者」は「いま」をもたず「過去」の状態のままなので、年をとっていく田村に比較すると「若い」。かつて老人であった「死者」も田村が年をとってみれば「若く」見えてくるし、若くして死んだ「死者」はもちろん「若い」ままである。
 そうしたことは、誰もが経験することがらかもしれない。そういう意味では、特にかわったことが書かれているわけではない。けれど、私には、この1連目が、いつもひっかかる。気にかかる。
 1行目の「足音もなく」ということばのせいだ。
 「足音もなく」は、行をこえて(行をわたって)2行目の「過ぎて行く」を修飾する。「足音もなく過ぎて行く時間」ということば自体は慣用句である。「時間」に「足」などないから「足音」ももちろんない。ごくふつうの言い方である。
 けれど「足音もなく/過ぎて行く」と、そこに「わたり」、一種の「間」がはいると、「足音もなく」だけが奇妙になまなましく浮かび上がる。田村が「足音」を「肉体」で感じている、という印象が生まれてくる。「肉体」のどこかで、「時間」の「足音」を感じている--その感じを、これは「常識」とは違うという判断の「間」をへて、「足音もなく」へ引き返してくる感じがある。
 「死者」には「時間」がない、のではなく「足音を立てて」過ぎていく時間がないのだ。「足音もなく」と書いているけれど、書きたいのは「足音を立てて過ぎて行く時間」なのだ。
 田村は、繰り返しになるが、「足音を立てて過ぎていく時間」を感じている。
 「足音を立てて過ぎて行く」と感じているのに、「足音もなく」と書くのは矛盾だが、その矛盾こそが、詩の核心である。矛盾しているからこそ、つぎのことばに直接つながらず、行を変えて、「間」をおいて、連結する。「間」は「時間」の「間」がそうであるように、想像力によってはじめて姿をあらわす不可思議なものなのである。

 こういう「間」があるからこそ、詩のことばは「論理」ではなく、見えない何かを追うようにして飛躍する。
 1連目から、2連目へ飛躍する。
 「死者の時間」から、「ぼく」の「生きている時間」へと飛躍する。

ぼくの頭上を「時間」が飛び去って行く
だから ぼくは生きているのだ
一千秒まではまたたくうちに
「時」の堆積だけがぼくの背中にのしかかってくる
ぼくは超音ジェット戦闘機のパイロット
垂直軸で旋回するから
敵の運動のリズムにあわせればいい
敵は「無機物」だ 動く「有機物」 走る「物」
ぼくはフォックス・ハンティングを愉しむイギリス人
ぼくは万里の長城の痩せおとろえた人足
ぼくは北米西海岸の私立探偵 「動く標的」にたえず撃鉄を引きつづけて

 2連目は「引きつづけて」という中途半端な形で中断するのだが、この連には、1連目以上に矛盾した行がある。ことばがある。

敵は「無機物」だ 動く「有機物」 走る「物」

 敵は「無機物」であり、「有機物」だというのであれば、これは完全な矛盾だ。「無機物」でありながら、「有機物」であることは不可能だ。
 何が起きているのか。
 ここでは、行のわたり、あるいは連と連の切断とは逆のことが起きているのではないのか。
 つまり、

敵は「無機物」だ 動く「有機物」 走る「物」

 という1行は、ほんとうは

敵は「無機物」だ

動く「有機物」 走る「物」

 と、分かれるべきものではないのか。「1字あき」ではなく、連がかわる、あるいは、少なくとも行がかわるべきものなのではないのか。
 言い換えると、この1行では「主語」が変わってはいないだろうか。
 敵はというときの敵は「時間」を指すだろう。それに対して動く「有機物」、走る「もの」とは「ぼく」ではないのか。「人間」、生きている「ぼく」ではないのか。
 「時間」は、「無機物」だ。一方、人間は、動く「有機物」であり、走る「もの」だ。 
 「主語」がかわったのに、それを明記せず1行の中に、それが書かれてしまっているのは、このときの思考が、田村のなかでは「間」をおかずに動き回ったということだろう。思考が加速度をまして、「間」を消してしまっているのだ。
 その後の「ぼくは」ではじまる4行がそのことを雄弁に語っている。「比喩」が「比喩」を呼び、どんどんことばが加速する。「頭」で考えているのではなく、「肉体」がその加速度に酔って、ブレーキが利かなくなってどこまでもどこまでも進んでいく。

 何を書いてたのだろう。
 ふっと、われにかえって、最初に書こうとしたことを思い出す。
 時間と死者、時間と生きているぼく。そして、そのときの肉体の感覚、時間に「足音」を聞いてしまう感覚--矛盾した感覚。
 何を信じるべきか。
 2連目と3連目のあいだに、巨大な「間」をおいて、詩はつづいていく。

質は問わない
量だけがぼくの世界観だ
目に見えるものしか信じない
一千秒は

ぼくには長すぎる時間
日清戦争では若い兵士と安酒を汲みかわした
日露戦争ではロシア美人と恋愛ごっこをした
太平洋戦争では廃墟になった東京で
裸のプレイボーイになった

五千年が一千秒のなかにおさまってしまって
なんだか味気ない

ウイスキーでも飲もうか
あとの一秒が
五千年よりもながい一秒がドアを
ノックするまで
 
 3連目の、突然の「世界観」の表明。
 そして、3連目と4連目の、連の断絶を超えたことばのつながり。「一千秒は//ぼくには長すぎる時間」。2連目の、「敵は「無機物」だ 動く「有機物」だ 走る「もの」」という1行とは逆のことがここでは起きている。意味的に連続すべきことばが「間」をおいてつながっている。
 「間」が伸び縮みしている。

 そして、この「間の伸び縮み」こそ、時間の姿なのだ。時間は、時計ではけっして「伸び縮み」しない。60秒は1分、1001秒は16分強。それがゆるがないのが「物理」の世界である。
 けれど人間にとっては、人間の意識にとっては、つまりことばにとってはという意味になるが、1秒の長さはきまってはいない。自在に伸び縮みする。1秒のあいだに、人間は、イギリス人なって狐狩りをしていたかと思うと古代へもどってエジプトでピラミッドのために石を運ぶ人間になっていもいる。5000年の歴史、その「間」を1秒で往復できる。してしまう。
 だが、そんなふうに時間を駆け回ってしまうと、「足音」を聞くことは不可能である。そんなに早く走る足はおもしろくない。そんな「空想ごっこ」は、たぶん、人間のすることではない。
 「時間の足音」が聞こえる生きかた、ことばの動かしかたをしないと駄目なのだ。

目に見えるものしか信じない

 この1行は、田村の「肉眼」宣言である。「肉眼」が目に見えるものしか信じないなら、「肉耳」は耳に聞こえるものしか信じないだろう。「時間の足音」。「肉耳」はそれを聞く。聞いている。聞こえないとしたら、聞かなければならない。
 1000秒の次の1秒--その瞬間、「肉耳」は「時間の足音」を聞くかもしれない。聞くことができるかもしれない。それを信じて「孤独」を生きる。--それは、「時間の足音」を「肉耳」で共有してくれる人がいないという絶望--孤独の表明かもしれない。

 矛盾のなかで言おうとしている何か、ことばが、この詩では、つまりすぎている。凝縮しすぎている。
 そして、行分け(改行)や連の構成の瞬間、詩人のなかで「時間」がどんなふうに動いているか、目を凝らしてみつめなければならないものが、この詩には凝縮している。
 詩人は、たぶん、無意識に改行する。連の構成を変える。それが無意識であるということは、そのときの意識が「肉体」そのものであり、「頭」で説明する必要のないもの、つまり完全な「思想」になっているということでもあると思う。
 ひとは、詩人にかぎらず、自分にとって明確な「思想」(肉体となった思想)を説明する必要を感じない。だから、そういうものは省略する。そのため、その省略によって、何か「矛盾」のようなものが出てくる。「頭」では理解できないものが。
 「頭」のことばには「矛盾」であっても、「肉体」のことばにとっては「矛盾」ではない--そういうことが、存在する。

腐敗性物質―田村隆一自撰詩集 (1971年) (立風選書)
田村 隆一
立風書房

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