伊藤悠子「貝殻の丘」、辻内京子「目盛」ほか(「ふらんす堂通信」120 、2009年04月25日発行)
伊藤悠子「貝殻の丘」のことばの魅力は具象が抽象を誘い込むところにある。描写は具体的である。そして、その具体的な描写が、何かしら、精神に作用してくる。意識を動かす。具体的な描写をするとき、目だけではなく、精神が動いているという実感がある。
「貝殻の丘」の1連目。
貝塚の近くの展示室で縄文人の人骨を見た。そのときのことを書いているのだが、「厚い地層」と「ガラス一枚」の対比がさまざまなことを考えさせてくれる。「ガラス一枚」がなければ、きっと「厚い地層」というものは出てこなかっただろう。「ガラス一枚」によって、誘い出された「厚い地層」が、ここにある。
そして、その「ガラス一枚」が、その透明であるものが、実は透明ではなく、現実では「厚い地層」であることもあるのだ。
人の顔。それは、地層に被われているわけではない。人と向き合うとき、その表情を隠すものはない。縄文人が厚い地層のなかに隠れているのとは事情が違う。そのまま「透明な」(ガラスよりも透明な)空気が「私」と「相手」を隔てているだけである。
相手の表情が見える。そして表情を見る、ということは、相手の「こころ」を見るということでもある。
けれど、その表情から読みとったもの--それはほんとうに「こころ」だったのか。
「透明な地層」というものがある。心理の地層というものがある。その地層は「堆積した貝殻を含む厚い地層」のように、手で取り除くことはできない。手では触れない地層である。手で触れないから「透明な地層」としか呼べないのである。
それが「ガラス一枚」の力で、あたかも手で触れる地層のように、具体的に、意識に迫ってくる。
*
辻内京子は『蝶生』で第32回俳句協会新人賞受賞者。「目盛」というタイトルで10句発表している。そのなかから、3句。
対象をぎゅうっとしぼりこんで、しぼりこんだ瞬間にぱっと解放する。そのとき、感覚が新しく生まれ変わる。そういう新鮮さがいい。
特に、「米櫃」の句がいい。
「水仙や」「すれ違ふ」の句は、古今集、新古今集に通じる繊細な感覚、一種技巧的な感覚だが、「米櫃」は生活に密着している。
映画「泥の河」(宮本輝原作)に、少女が米櫃に手を突っ込んで、「おこめって、あったくかていいなあ」というせりふがある。貧しい少女が、こめびつのこめ、その存在に、いのちをささえる温みを感じるシーンである。そのときの「あたたかい」ということばに通じる「あたたかし」。
同じ新人賞受賞者の日原伝。(伝は正確には正字体)
「石段」の句、黒、白、赤という色の対比が美しい。椿にはもちろん白い椿ものあるのだろうけれど、目に浮かぶのは赤。そういう色を洗い出す感じがいい。
もうひとり、同じ賞の横井遥。
「石切り」。冬の冷たい空気の透明さ、はりつめた感じのなかでは、石さえも「いのち」の匂いを放つ。「冴返る」。「耳二つ」の「二つ」がとても生々しい。
伊藤悠子「貝殻の丘」のことばの魅力は具象が抽象を誘い込むところにある。描写は具体的である。そして、その具体的な描写が、何かしら、精神に作用してくる。意識を動かす。具体的な描写をするとき、目だけではなく、精神が動いているという実感がある。
「貝殻の丘」の1連目。
堆積した貝殻を含む厚い地層は
透明なガラス一枚に取って代わられ
縄文の人骨が横たわっている
大きな人だ
欠けたところの少ない顎骨が笑っている
かつて人の表情に見たことがある
酷薄と見たものが放心であり
あるいは困惑であったのかもしれない
ただの
貝塚の近くの展示室で縄文人の人骨を見た。そのときのことを書いているのだが、「厚い地層」と「ガラス一枚」の対比がさまざまなことを考えさせてくれる。「ガラス一枚」がなければ、きっと「厚い地層」というものは出てこなかっただろう。「ガラス一枚」によって、誘い出された「厚い地層」が、ここにある。
そして、その「ガラス一枚」が、その透明であるものが、実は透明ではなく、現実では「厚い地層」であることもあるのだ。
人の顔。それは、地層に被われているわけではない。人と向き合うとき、その表情を隠すものはない。縄文人が厚い地層のなかに隠れているのとは事情が違う。そのまま「透明な」(ガラスよりも透明な)空気が「私」と「相手」を隔てているだけである。
相手の表情が見える。そして表情を見る、ということは、相手の「こころ」を見るということでもある。
けれど、その表情から読みとったもの--それはほんとうに「こころ」だったのか。
かつて人の表情に見たことがある
酷薄と見たものが放心であり
あるいは困惑であったのかもしれない
「透明な地層」というものがある。心理の地層というものがある。その地層は「堆積した貝殻を含む厚い地層」のように、手で取り除くことはできない。手では触れない地層である。手で触れないから「透明な地層」としか呼べないのである。
それが「ガラス一枚」の力で、あたかも手で触れる地層のように、具体的に、意識に迫ってくる。
*
辻内京子は『蝶生』で第32回俳句協会新人賞受賞者。「目盛」というタイトルで10句発表している。そのなかから、3句。
水仙や物言ふ前の眼美し
すれ違ふ人に墨の香ゆふざくら
米櫃の目盛単純あたたかし
対象をぎゅうっとしぼりこんで、しぼりこんだ瞬間にぱっと解放する。そのとき、感覚が新しく生まれ変わる。そういう新鮮さがいい。
特に、「米櫃」の句がいい。
「水仙や」「すれ違ふ」の句は、古今集、新古今集に通じる繊細な感覚、一種技巧的な感覚だが、「米櫃」は生活に密着している。
映画「泥の河」(宮本輝原作)に、少女が米櫃に手を突っ込んで、「おこめって、あったくかていいなあ」というせりふがある。貧しい少女が、こめびつのこめ、その存在に、いのちをささえる温みを感じるシーンである。そのときの「あたたかい」ということばに通じる「あたたかし」。
同じ新人賞受賞者の日原伝。(伝は正確には正字体)
石段に蔭と日向と落椿
汁椀に小蟹吐きたる浅蜊かな
「石段」の句、黒、白、赤という色の対比が美しい。椿にはもちろん白い椿ものあるのだろうけれど、目に浮かぶのは赤。そういう色を洗い出す感じがいい。
もうひとり、同じ賞の横井遥。
まつすぐにまつすぐに葦枯るるなり
石切りの石の匂へる寒の入
冴返る猪皮の耳二つ
「石切り」。冬の冷たい空気の透明さ、はりつめた感じのなかでは、石さえも「いのち」の匂いを放つ。「冴返る」。「耳二つ」の「二つ」がとても生々しい。
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