岩成達也「黄色い木」、上坂京子「椿の首が落ちていた」(「イリプスⅡnd」3、2009年04月20日発行)
岩成達也「黄色い木」に、はっとするような美しい部分がある。
「光の割れ/芽」は「光の割れ目」と重なる。それはもちろん「空間の亀裂/裂開」を受けてのことばの動きなのだが、「割れ目」が「割れ/芽」ということばにかわる瞬間、生きている「いのち」がふいに、向こう側からやってくる/会いに来るという感じがする。いまはここにいない「あなた」が、向こう側から「私」に会いに来る--その印象がどきどきするくらいの印象で迫ってくる。だから……
「私はここにいます」が痛烈に響く。切実に響く。温かく響く。悲しく響く。いとおしく響く。この響きと向き合うためには、「光/無」というようなことばが確かに「私」のなかで必要なことがわかる。必要だろうと、実感できる。
*
上坂京子「椿の首が落ちていた」は、ことばの動きから中盤から後半にかけて変化する。
2行1連で完結していたことばの世界が「奇妙なイデアの樹液……」というあたりから、連と連の「間」を互いに支え合う。「言語の湿度に」「してる間に」「やがて」「めくれ上がるように」は、その連がその連だけで完結していないことを語っている。そして、その次の連にもたれるように動くことばが、どうしても、そこにことばにならない「間」があるということを浮かび上がらせる。「間」を浮かび上がらせたい、「間」のなかにあるものをこそ、描きたいという上坂の意思のようなものを感じさせる。
終わりから3、2連めの「を」「は」という助詞が行頭にくることば運びは、「間」をなんとしても浮かび上がらせようとする意識のあらわれだろう。
上坂は、落ち椿を描きたいのではなく、落ち椿を通して、上坂の感じている「間」を描きたいのだ。それは、岩成が「割れ/芽」という表現で書こうとした「/」に通じるものかもしれない。
だから。
「甘い密」は「甘い蜜」かとも思うが、この誤植(?)を私は積極的に受け入れたい気持ちになる。
あらゆる存在は「密=秘密」をもっている。それは「間」のなかにある。「間」のなかに隠されている。それは「絶望」と「甘い」のように、一種の「矛盾」のなかで絡み合っている。上坂は、その矛盾に触れている--私は、そんなふうに、この詩を「誤読」したい。
岩成達也「黄色い木」に、はっとするような美しい部分がある。
これらの木や枝は実体として あるいは空間(仮にそれがあればの話ですが)の襞/もりあがりとしてそこにあるのではない むしろ めれは「空間」の亀裂/裂開としてそこにあると・・・だから いま私が見ているこの<黄色い木>は木ではなく 向こうから押し開かれてくる何か 光の割れ/芽ではないかと・・・
「光の割れ/芽」は「光の割れ目」と重なる。それはもちろん「空間の亀裂/裂開」を受けてのことばの動きなのだが、「割れ目」が「割れ/芽」ということばにかわる瞬間、生きている「いのち」がふいに、向こう側からやってくる/会いに来るという感じがする。いまはここにいない「あなた」が、向こう側から「私」に会いに来る--その印象がどきどきするくらいの印象で迫ってくる。だから……
だから いま私が見ているこの<黄色い木>は木ではなく 向こうから押し開かれてくる何か 光の割れ/芽ではないかと・・・「私はここにいます」そしてみどり あなたが 「光に吸い込まれる」前に このソファのここに座り 出窓の外の<黄色い木>を通してみたのも(光)/(無)と仮に呼ばれている何か その何かの涯(はて)ではなかったのかと思えるのです
「私はここにいます」が痛烈に響く。切実に響く。温かく響く。悲しく響く。いとおしく響く。この響きと向き合うためには、「光/無」というようなことばが確かに「私」のなかで必要なことがわかる。必要だろうと、実感できる。
*
上坂京子「椿の首が落ちていた」は、ことばの動きから中盤から後半にかけて変化する。
成り立ちの定まらぬ
固く細い首に添えられた手
ここに座れとしつらえられた
小さな机小さな椅子
あれは誰の采配だったのだろうか
窓の外のせせらぎは見えない世界への合図だった
夜毎固く青いつぼみを
締め上げに来る言語のコルセット
奇妙なイデアの樹液を吸い上げてふくらみ
紅色が氾濫できたのは それはそれで喝采
けれど せせらぎが大きなうねりとなる
冥の惑乱に 言語の湿度に
ぐっしょり濡れて乾かぬ椿の首
道徳や倫理が羽根つきしてる間に
成り立ちの定まらぬ首で絶望の甘い密
を花芯にたたえた半生は やがて
虚無への食欲に目覚め 肥満した椿の首
は朝もやの中 歓喜がめくれ上がるように
咲ききったかたちで
ポットリ落ちていた
2行1連で完結していたことばの世界が「奇妙なイデアの樹液……」というあたりから、連と連の「間」を互いに支え合う。「言語の湿度に」「してる間に」「やがて」「めくれ上がるように」は、その連がその連だけで完結していないことを語っている。そして、その次の連にもたれるように動くことばが、どうしても、そこにことばにならない「間」があるということを浮かび上がらせる。「間」を浮かび上がらせたい、「間」のなかにあるものをこそ、描きたいという上坂の意思のようなものを感じさせる。
終わりから3、2連めの「を」「は」という助詞が行頭にくることば運びは、「間」をなんとしても浮かび上がらせようとする意識のあらわれだろう。
上坂は、落ち椿を描きたいのではなく、落ち椿を通して、上坂の感じている「間」を描きたいのだ。それは、岩成が「割れ/芽」という表現で書こうとした「/」に通じるものかもしれない。
だから。
「甘い密」は「甘い蜜」かとも思うが、この誤植(?)を私は積極的に受け入れたい気持ちになる。
あらゆる存在は「密=秘密」をもっている。それは「間」のなかにある。「間」のなかに隠されている。それは「絶望」と「甘い」のように、一種の「矛盾」のなかで絡み合っている。上坂は、その矛盾に触れている--私は、そんなふうに、この詩を「誤読」したい。
岩成達也詩集 (現代詩文庫 第 1期58)岩成 達也思潮社このアイテムの詳細を見る |