詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩成達也「黄色い木」、上坂京子「椿の首が落ちていた」

2009-05-06 15:41:33 | 詩集
岩成達也「黄色い木」、上坂京子「椿の首が落ちていた」(「イリプスⅡnd」3、2009年04月20日発行)

 岩成達也「黄色い木」に、はっとするような美しい部分がある。

これらの木や枝は実体として あるいは空間(仮にそれがあればの話ですが)の襞/もりあがりとしてそこにあるのではない むしろ めれは「空間」の亀裂/裂開としてそこにあると・・・だから いま私が見ているこの<黄色い木>は木ではなく 向こうから押し開かれてくる何か 光の割れ/芽ではないかと・・・

 「光の割れ/芽」は「光の割れ目」と重なる。それはもちろん「空間の亀裂/裂開」を受けてのことばの動きなのだが、「割れ目」が「割れ/芽」ということばにかわる瞬間、生きている「いのち」がふいに、向こう側からやってくる/会いに来るという感じがする。いまはここにいない「あなた」が、向こう側から「私」に会いに来る--その印象がどきどきするくらいの印象で迫ってくる。だから……

だから いま私が見ているこの<黄色い木>は木ではなく 向こうから押し開かれてくる何か 光の割れ/芽ではないかと・・・「私はここにいます」そしてみどり あなたが 「光に吸い込まれる」前に このソファのここに座り 出窓の外の<黄色い木>を通してみたのも(光)/(無)と仮に呼ばれている何か その何かの涯(はて)ではなかったのかと思えるのです

 「私はここにいます」が痛烈に響く。切実に響く。温かく響く。悲しく響く。いとおしく響く。この響きと向き合うためには、「光/無」というようなことばが確かに「私」のなかで必要なことがわかる。必要だろうと、実感できる。



 上坂京子「椿の首が落ちていた」は、ことばの動きから中盤から後半にかけて変化する。

成り立ちの定まらぬ
固く細い首に添えられた手

ここに座れとしつらえられた
小さな机小さな椅子

あれは誰の采配だったのだろうか
窓の外のせせらぎは見えない世界への合図だった

夜毎固く青いつぼみを
締め上げに来る言語のコルセット

奇妙なイデアの樹液を吸い上げてふくらみ
紅色が氾濫できたのは それはそれで喝采

けれど せせらぎが大きなうねりとなる
冥の惑乱に 言語の湿度に

ぐっしょり濡れて乾かぬ椿の首
道徳や倫理が羽根つきしてる間に

成り立ちの定まらぬ首で絶望の甘い密
を花芯にたたえた半生は やがて

虚無への食欲に目覚め 肥満した椿の首
は朝もやの中 歓喜がめくれ上がるように

咲ききったかたちで
ポットリ落ちていた
 
 2行1連で完結していたことばの世界が「奇妙なイデアの樹液……」というあたりから、連と連の「間」を互いに支え合う。「言語の湿度に」「してる間に」「やがて」「めくれ上がるように」は、その連がその連だけで完結していないことを語っている。そして、その次の連にもたれるように動くことばが、どうしても、そこにことばにならない「間」があるということを浮かび上がらせる。「間」を浮かび上がらせたい、「間」のなかにあるものをこそ、描きたいという上坂の意思のようなものを感じさせる。
 終わりから3、2連めの「を」「は」という助詞が行頭にくることば運びは、「間」をなんとしても浮かび上がらせようとする意識のあらわれだろう。
 上坂は、落ち椿を描きたいのではなく、落ち椿を通して、上坂の感じている「間」を描きたいのだ。それは、岩成が「割れ/芽」という表現で書こうとした「/」に通じるものかもしれない。

 だから。
 「甘い密」は「甘い蜜」かとも思うが、この誤植(?)を私は積極的に受け入れたい気持ちになる。
 あらゆる存在は「密=秘密」をもっている。それは「間」のなかにある。「間」のなかに隠されている。それは「絶望」と「甘い」のように、一種の「矛盾」のなかで絡み合っている。上坂は、その矛盾に触れている--私は、そんなふうに、この詩を「誤読」したい。




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岩成 達也
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『田村隆一全詩集』を読む(76)

2009-05-06 01:37:09 | 田村隆一
 『狐の手袋』(1995年)には、田村が過去に書いたことばがいくつか出てくる。(これまでの詩集にも、同じことばが何度も登場する。)田村は何度も同じことを考える。それは、それだけその考えが田村にとって重要ということなのだと思う。
 私も田村にならって、同じことを何度も書こう。
 田村は「肉体」を、ふつうに分類されている機能にふりわけない。目なら見る、耳なら聞くという具合に分類しない。違う機能、感覚と結びつける。
 「手」の「月光」という小タイトルのついた作品。

詩人の手の指には耳がついていなければならない

 これは、手の指(ふつうは触覚を担うだろうか)と耳の融合である。

泉や微風を感受する耳 たぶん
小指についているはずだ

 この1字あきと「たぶん」は、田村が「手の指には耳がついていなければならない」と書いた時、まだ、指が5本ずつ、計10本あるということを意識していなかったことを意味すると思う。「手の指には耳がついていなければならない」と書いて、それから考えはじめている。つまり、ことばを動かしはじめている。
 「泉や微風を感受する耳」と書いて、そのあと、その感覚にふさわしい「指」を探している。答えがみつかるまでの「間」が1字あきであり、「たぶん」なのだ。それも「たぶん」は行のいちばん下にきている。「たぶん……はずだ」という文の構造が改行によって解体されている。「間」がそこに割って入って、きちんとした構造を破壊している。破壊された構造のなかに「小指」が割り込んだのである。
 こういうことばの動きを読むのが私は好きだ。自然に動くのではなく、無理やり動かす。無理やり動かすのだけれど、その無理やりの中には、おのずと田村自身の「自然」がはいってくる。つまり「無意識」が。「未分化」の意識が。

詩人の手の指には耳がついていなければならない
泉や微風を感受する耳 たぶん
小指についているはずだ
野の花 若木 老樹 シダ類の囁きや悲鳴をききとるのは
薬指(くすりゆび)の耳
中指は人間の暗部を探知する耳
親指の耳は丸く厚くなければならない
この指は知的判断をつかさどるからさ
人差し指は言葉という動く標的を狙うために
雑音に形態をあたえるための耳 さて
中指だが
その先端についている耳に
飛ぶ言葉
苦い言葉
軽い言葉
太陽を背にして垂直に襲いかかってくる
言葉をとらえられるか

 「小指」「薬指」は聞きとる対象が先に示され、そのあと「指」が特定されている。しかし、中指からあとは、指が先に掲示され、その聞きとる対象が特定される。この変化は、田村の意識が加速したことを意味するだろう。何を書くか決まっていなかったが、書きはじめたらことばが加速して、動きはじめたのだ。
 加速することばには、たぶん、ある特徴がある。ことばは加速すると、具体的ではなくなる。抽象的になる。「泉・微風」「野の花」「シダ類」という自然の具体物が、「囁き」「悲鳴」という「音」にかわり、「人間の暗部」というような抽象へ一気に飛躍する。その後、「知的判断」「言葉」が登場する。「指の耳」は具体物ではなく、抽象的なものを聞く「耳」なのである。
 このとき明らかになることは、人間の「肉耳」(ここでは「肉指」というべきなのか)は、具体物だけを見たり聞いたり触ったりするのではない。それはいったん「肉体」そのものになってしまえば、その「肉体」は「具体物」のなかに存在する「肉・物」というべき何かに触れる。そして、それは「具体」のなかにある「抽象」である。
 「肉体」は「抽象」に触れる。そこにあるものではなく、そこにあるものが隠しているものに触れるのが「肉体」である、と定義しなおした方がいいかもしれない。

 そこにあるもの。それは何かを隠している。その隠しているものを見るために、ことばは、その、そこにあるものを解体しなければならない。破壊しなければならない。その解体、破壊には「肉眼」「肉耳」「肉舌」「肉指」などが必要である。
 たぶん「肉指」というような奇妙なことばでしか言い表すことのできないもの(田村は、「肉指」とは直接言っていないけれど……)を書いたために、ことばの加速度は一気に高まってしまったのだと思う。
 こういう加速は、しかし、詩にとってはいいことではない。特にに「肉体」のことばを目指す詩にとっては、これは不都合ことになると思う。抽象が具象を追い越していくと、「肉体」という感じがしなくなるからだ。
 たぶん、田村はそういうことに気がつき、方向転換する。
 3連目で「指」→「言葉」というベクトルの向きを逆にする。

言葉は見るものではない
指の耳で聞くものだ
その音を彫刻家のように造形手
削るものは削り たとえ少女が鉛の腕だけになったとしても
はじめて人は
言葉が読めるようになるのではないか

 目や耳、舌、足を失っても「腕(手、指)」があれば、ことばは読める。このときの「読める」は、そして「聞きとることができる」、「聞く」である。
 感覚が(聴覚や触覚が)融合するように、認識する力もまた融合する。「聞く」ことは「読む」こと、「読む」ことは「聞くこと」になる。
 そんな変化があるからこそ、そのつぎに李白の詩がとつぜん引用されたりする。
 指は「耳」となって自然の音を聞く。その後、耳となって「言葉」を聞く。そして、その耳は、「言葉」を聞くのではなく、読むようになる。読むとは、つまり、声に出して「話す」ということでもある。そして、話すは「放す」でもある。
 指は何かをつかむときにつかう。その指が「耳」からはじまる変化の果てに、何かを「放す」。つかむとは放すためにする行為なのか。つかむから放すへと、その行為が逆転したとき(矛盾したものになったとき)、その矛盾という運動のなかに、詩があらわれる。
 指の、つかむという働きは、

酩酊した盛唐の詩人が湖上に写る月を抱かんとして
溺死したという歓喜の伝説

 という2行に象徴的に書かれている。そして、この2行は、次のように展開していく。

湖上に写る月を抱かんとする手が欲しい
汚れきった手だとしても

純白の手はいらない
それは人間の手ではない その手についている
耳は空耳ばかり

 「肉体」の反対のことばは「空」である。「肉耳」が聞きとるものは、何かが隠しているものであるのに対して、「空耳」が聞くのはそこには存在しないものである。




ぼくの中の都市 (1980年)
田村 隆一
出帆新社

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