詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トニー・ギルロイ監督「デュプリシティ~スパイは、スパイに嘘をつく~」(★)

2009-05-07 01:03:31 | 映画
監督 トニー・ギルロイ 出演 ジュリア・ロバーツ、クライヴ・オーウェン、トム・ウィルキンソン、ポール・ジアマッティ

 冒頭近くのシーンが非常におもしろい。空港に飛行機が2機。それぞれタラップ近くに集団。雨が降っている。そのときの画面の構図が完全にシンメトリー。飛行機には企業の名前が書いてあるのだが、その名前がなければ、どちらがどちらかわからない。そこからふたりの男が飛び出してくる。あとでわかることだが、それぞれの企業のCEOである。ふたりは、とりまきを振り切り、駆け出し、互いを罵り合う。それだけではおさまりがつかず、殴り合いになる。この間、せりふはもちろんない。せりふはないけれど、やっていることがすべてわかる。このさりふを省略したスピードと、画面の構図が、これからおきることはきっと鏡写しみたいなものであり、同時にことばはまったく不要のもの(せりふを聞いていると重要なことを見逃すよ)と語っていて、あ、いいなあ、と思ってしまう。
 ところが。
 それから先がまったくだめ。映画になっていない。
 なんといっても、本編の最初のジュリア・ロバーツとクライヴ・オーウェンのやりとりが、見え透いてしまっている。ことばは不要--と書いたが、その不要のことばのトリックが、これは嘘ですよ、とあからさまにわかるのである。つまり、種明かしをしすぎている。伏線とはとてもいえない。

 ジュリア・ロバーツは元CIAの女スパイ。クライヴ・オーウェンは元MI6男スパイ。いまは、それぞれCIAとMI6から首を切られている。ふたりは、昔のノウハウを活かして民間企業のスパイになる。それぞれライバル企業(化粧品会社)に入り、スパイとして活動する。といっても、ジュリア・ロバーツは他者から派遣された二重スパイなんだけれど……。そして、ふたりには、CIA、MI6時代に、ジュリア・ロバーツがクライヴ・オーウェンをだましたという過去がある。
 そのふたりが、新しい仕事(企業のスパイ)の初仕事として、出会うシーン。そこでのやりとりが、最初のふたりの出会い、つまりローマでの初対面の時のやりとりそのままなのである。クライヴ・オーエン「会ったような気がするけれど」。ジュリア・ロバーツに「人違いでしょう」。それからつづくいわゆる口説きが、そっくりそのまま。これでは、このやりとりがふたりの「芝居」であることがわかりすぎる。(あとで、ごていねいに、実はあのシーンは伏線でしたという解説が入る。)こんな見え透いたシーンを、観客が何も考えずに見過ごすと脚本家は考えたのだろうか。あまりにも観客をばかにしていないか。監督も、俳優も、観客をばかにしている。
 「スパイは、スパイに嘘をつく」というサブタイトルがついているが、スパイが嘘をつく前に、映画というのは「監督が、脚本が、俳優が、観客に嘘をつく」ということを許していることで成り立っている。だからこそ、見え透いた嘘はだめ。ほんとうに観客をだますつもりなら、もっと手の込んだ嘘にしないと、だまされた気がしない。
 見え透いた嘘といううしろめたさ(?)があるせいか、あるいは、こんなことではだめだという半生(?)があるためか、わざとストーリーを複雑にするために、「時間」があちこち動き回る。前後する。場所もあっちへいったり、こっちへいったり。とても、とても、とても忙しい。
 どんでん返しも、ぜんぜん、どんでん返しという気がしない。「それ見たことか」と逆に安心(?)してしまう。これではエンターテインメントではない。
 ジュリア・ロバーツもクライヴ・オーウェンも精気がない。ふたりともダイエットで苦労したのか、肌に生き生きしたものがない。色気というものがあるとしたら、それはかろうじて散り際の花のくたびれた感じの色気である。セックスシーンも、相手の魅力に負けて、あるいは相手の魅力に打ち勝とうとしてハッスルするというより、なんだか、互いに相手を哀れんでいるような、魅力に欠けるやりとりである。最初の3分だけ見たら、あとは劇場を出るべき映画である。

 


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『田村隆一全詩集』を読む(77)

2009-05-07 00:00:25 | 田村隆一
 「肉体」を肉体の部位に割り振られた機能から解放する。機能(感覚)を特定の部位に割り当てない。特定の割り当てをする「概念」を破壊する。そして、機能を融合させる。肉体の部位ではなく、「いのち」そのものから、感覚を再生成する--そういう詩を田村は繰り返し書いている。『狐の手袋』の「肉体」をタイトルに掲げた作品は、そのテーマがいかに田村に重要であったかを教えてくれる。重要なテーマであったからこそ、田村は繰り返し繰り返し書いているのだ。
 そして、この「肉体」の再生成に「時」(時間)が深くかかわってくるのも、これまで見てきた通りである。
 たとえば「眼」。

ぼくはシカゴ美術館のたった一枚のゴッホの部屋で三〇分釘づけになった
ぼくの眼が肉眼に造形されて行く過程が
ぼくの眼がぼくの眼に告知してくれる「時」の力
その力で
眼は肉眼になるのだ さ
その眼で
自分の顔から人の顔 二枚舌 三枚舌の色別をしてみようではないか

 ゴッホに出会う。ゴッホという絶対的「他人」がかかえこんでいる「時間」。その「時間」に触れることで、田村のなかの、既成の「時間」が破壊されていく。そして、見えなかったものが見えはじめる。それを田村は「眼が肉眼に造成されて行く」と書いている。そして、それには「時」を造成することと同じである。「時間」をつくることと同じである。
 「時間」は自然に過ぎ去っていくものではない。「時間」はやはり「肉眼」と同じように造成するもの、つくりだして行くものなのだ。
 「肉眼」で見るとは、新しく造成した「時間」で世界を見つめなおすことである。

その眼で
自分の顔から人の顔 二枚舌 三枚舌の色別をしてみようではないか

 とは、新しい「時間」で自分を、そして「人」をみつめてみようという呼びかけである。そこに「舌」が出てくるのは、「肉眼」「時間」が見るべきものには「ことば」も含まれていることを意味するだろう。「もの」だけではなく、「ことば」を「肉眼」で見る。どんなうふうに見えるか。「ことば」を「肉・時間」(と仮に書いて置こう)で見る。どんなふうに見えるか。
 この「肉・時間」を田村は、別のことばで書き換えている。(「肉・時間」と呼んだのは私だから、田村が「書き換えている」という表現はおかしいが……。)

視力はいらない
ゆっくりと鈍行列車からおりればいい

自画像が美術学校の卒業制作だが
その制作が完成するのには五〇年はかかるだろう

その時こそ「心眼」が誕生するのさ

 「肉・時間」でみたものは、「心眼」で見たものに一致する。「二枚舌」「三枚舌」に隠されているものを見抜く力「心眼」--それは「肉眼」とともにある「時間」の視力が見抜くものと一致するのだ。

 「鼻」というタイトルでくくられた作品の中に、「ぼくの聖灰水曜日」という作品がある。バンパイアと聖少女の「性的な旅」に触れた詩である。

殺戮 悪徳 罪 暴力 不死 闇の力を賛美しつづけ
滅びのない絶望 愛と栄光の抹殺をたからかに歌いながら
この華麗な陰画の世界の環は
永遠にむかってダイナミックに完結して行く

「永遠」にむかって完結する
この逆説は
ぼくにとっては美しすぎる だが
この不可能な完結によってサンフランシスコの冬の一夜から
ぼくは一挙に解放される

 「肉・時間」「心眼」は、あらゆる「時間」を「永遠にむかって完結する」形で描き出す。完結しないから永遠なのに、「肉・時間」「心眼」のなかでは、一瞬だが、完結する。その逆説。
 --逆説は、田村にとっては「矛盾」と同じものだ。
 逆説のなかで、「正説」が破壊される。叩き壊される。否定される。そして、その破壊の運動のなかで、生成がはじまる。それは破壊という方向と重なる生成である。
 私は何度か、破壊の果てに、そこから新しく生成がはじまると書いたが、それは正確ではない。破壊の方向、解体の方向へ生成するのだ。運動のベクトルそのものが生成なのだ。何かが誕生するのではなく、運動が誕生であり、生成なのだ。
 田村のことばの延長線から、何か「もの」(概念)が新しく誕生するのではなく、何も誕生しない。ただ、破壊があるだけ、破壊の運動があるだけ--ということが誕生であり、生成なのだ。そこあるのはエネルギーだけなのである。
 何の「枠」ももたないエネルギーそのもの。それが「解放」のすべてである。

 「時の娘」には、このことが次の4行で書かれている。

真理は「時」の娘 なぜ
息子を産んでくれないのか
「時」という母胎は息子を拒む 男の子だったら
反真理にむかって疾走するにきまっているからさ

 「反真理」。ことは「逆説」と同じこと。その「疾走」のなかげこそ、すべては「解放」される。田村がことばでつかみ取ろうとしているのは、その「解放」、その「自由」である。




ぼくの中の都市 (1980年)
田村 隆一
出帆新社

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