監督 トニー・ギルロイ 出演 ジュリア・ロバーツ、クライヴ・オーウェン、トム・ウィルキンソン、ポール・ジアマッティ
冒頭近くのシーンが非常におもしろい。空港に飛行機が2機。それぞれタラップ近くに集団。雨が降っている。そのときの画面の構図が完全にシンメトリー。飛行機には企業の名前が書いてあるのだが、その名前がなければ、どちらがどちらかわからない。そこからふたりの男が飛び出してくる。あとでわかることだが、それぞれの企業のCEOである。ふたりは、とりまきを振り切り、駆け出し、互いを罵り合う。それだけではおさまりがつかず、殴り合いになる。この間、せりふはもちろんない。せりふはないけれど、やっていることがすべてわかる。このさりふを省略したスピードと、画面の構図が、これからおきることはきっと鏡写しみたいなものであり、同時にことばはまったく不要のもの(せりふを聞いていると重要なことを見逃すよ)と語っていて、あ、いいなあ、と思ってしまう。
ところが。
それから先がまったくだめ。映画になっていない。
なんといっても、本編の最初のジュリア・ロバーツとクライヴ・オーウェンのやりとりが、見え透いてしまっている。ことばは不要--と書いたが、その不要のことばのトリックが、これは嘘ですよ、とあからさまにわかるのである。つまり、種明かしをしすぎている。伏線とはとてもいえない。
ジュリア・ロバーツは元CIAの女スパイ。クライヴ・オーウェンは元MI6男スパイ。いまは、それぞれCIAとMI6から首を切られている。ふたりは、昔のノウハウを活かして民間企業のスパイになる。それぞれライバル企業(化粧品会社)に入り、スパイとして活動する。といっても、ジュリア・ロバーツは他者から派遣された二重スパイなんだけれど……。そして、ふたりには、CIA、MI6時代に、ジュリア・ロバーツがクライヴ・オーウェンをだましたという過去がある。
そのふたりが、新しい仕事(企業のスパイ)の初仕事として、出会うシーン。そこでのやりとりが、最初のふたりの出会い、つまりローマでの初対面の時のやりとりそのままなのである。クライヴ・オーエン「会ったような気がするけれど」。ジュリア・ロバーツに「人違いでしょう」。それからつづくいわゆる口説きが、そっくりそのまま。これでは、このやりとりがふたりの「芝居」であることがわかりすぎる。(あとで、ごていねいに、実はあのシーンは伏線でしたという解説が入る。)こんな見え透いたシーンを、観客が何も考えずに見過ごすと脚本家は考えたのだろうか。あまりにも観客をばかにしていないか。監督も、俳優も、観客をばかにしている。
「スパイは、スパイに嘘をつく」というサブタイトルがついているが、スパイが嘘をつく前に、映画というのは「監督が、脚本が、俳優が、観客に嘘をつく」ということを許していることで成り立っている。だからこそ、見え透いた嘘はだめ。ほんとうに観客をだますつもりなら、もっと手の込んだ嘘にしないと、だまされた気がしない。
見え透いた嘘といううしろめたさ(?)があるせいか、あるいは、こんなことではだめだという半生(?)があるためか、わざとストーリーを複雑にするために、「時間」があちこち動き回る。前後する。場所もあっちへいったり、こっちへいったり。とても、とても、とても忙しい。
どんでん返しも、ぜんぜん、どんでん返しという気がしない。「それ見たことか」と逆に安心(?)してしまう。これではエンターテインメントではない。
ジュリア・ロバーツもクライヴ・オーウェンも精気がない。ふたりともダイエットで苦労したのか、肌に生き生きしたものがない。色気というものがあるとしたら、それはかろうじて散り際の花のくたびれた感じの色気である。セックスシーンも、相手の魅力に負けて、あるいは相手の魅力に打ち勝とうとしてハッスルするというより、なんだか、互いに相手を哀れんでいるような、魅力に欠けるやりとりである。最初の3分だけ見たら、あとは劇場を出るべき映画である。
冒頭近くのシーンが非常におもしろい。空港に飛行機が2機。それぞれタラップ近くに集団。雨が降っている。そのときの画面の構図が完全にシンメトリー。飛行機には企業の名前が書いてあるのだが、その名前がなければ、どちらがどちらかわからない。そこからふたりの男が飛び出してくる。あとでわかることだが、それぞれの企業のCEOである。ふたりは、とりまきを振り切り、駆け出し、互いを罵り合う。それだけではおさまりがつかず、殴り合いになる。この間、せりふはもちろんない。せりふはないけれど、やっていることがすべてわかる。このさりふを省略したスピードと、画面の構図が、これからおきることはきっと鏡写しみたいなものであり、同時にことばはまったく不要のもの(せりふを聞いていると重要なことを見逃すよ)と語っていて、あ、いいなあ、と思ってしまう。
ところが。
それから先がまったくだめ。映画になっていない。
なんといっても、本編の最初のジュリア・ロバーツとクライヴ・オーウェンのやりとりが、見え透いてしまっている。ことばは不要--と書いたが、その不要のことばのトリックが、これは嘘ですよ、とあからさまにわかるのである。つまり、種明かしをしすぎている。伏線とはとてもいえない。
ジュリア・ロバーツは元CIAの女スパイ。クライヴ・オーウェンは元MI6男スパイ。いまは、それぞれCIAとMI6から首を切られている。ふたりは、昔のノウハウを活かして民間企業のスパイになる。それぞれライバル企業(化粧品会社)に入り、スパイとして活動する。といっても、ジュリア・ロバーツは他者から派遣された二重スパイなんだけれど……。そして、ふたりには、CIA、MI6時代に、ジュリア・ロバーツがクライヴ・オーウェンをだましたという過去がある。
そのふたりが、新しい仕事(企業のスパイ)の初仕事として、出会うシーン。そこでのやりとりが、最初のふたりの出会い、つまりローマでの初対面の時のやりとりそのままなのである。クライヴ・オーエン「会ったような気がするけれど」。ジュリア・ロバーツに「人違いでしょう」。それからつづくいわゆる口説きが、そっくりそのまま。これでは、このやりとりがふたりの「芝居」であることがわかりすぎる。(あとで、ごていねいに、実はあのシーンは伏線でしたという解説が入る。)こんな見え透いたシーンを、観客が何も考えずに見過ごすと脚本家は考えたのだろうか。あまりにも観客をばかにしていないか。監督も、俳優も、観客をばかにしている。
「スパイは、スパイに嘘をつく」というサブタイトルがついているが、スパイが嘘をつく前に、映画というのは「監督が、脚本が、俳優が、観客に嘘をつく」ということを許していることで成り立っている。だからこそ、見え透いた嘘はだめ。ほんとうに観客をだますつもりなら、もっと手の込んだ嘘にしないと、だまされた気がしない。
見え透いた嘘といううしろめたさ(?)があるせいか、あるいは、こんなことではだめだという半生(?)があるためか、わざとストーリーを複雑にするために、「時間」があちこち動き回る。前後する。場所もあっちへいったり、こっちへいったり。とても、とても、とても忙しい。
どんでん返しも、ぜんぜん、どんでん返しという気がしない。「それ見たことか」と逆に安心(?)してしまう。これではエンターテインメントではない。
ジュリア・ロバーツもクライヴ・オーウェンも精気がない。ふたりともダイエットで苦労したのか、肌に生き生きしたものがない。色気というものがあるとしたら、それはかろうじて散り際の花のくたびれた感じの色気である。セックスシーンも、相手の魅力に負けて、あるいは相手の魅力に打ち勝とうとしてハッスルするというより、なんだか、互いに相手を哀れんでいるような、魅力に欠けるやりとりである。最初の3分だけ見たら、あとは劇場を出るべき映画である。
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