監督 テンギズ・アブラゼ 出演 アフタンディル・マハラゼ、ゼイナブ・ボツヴァゼ、ケテヴァン・アブラゼ
グルジアの映画は初めて見た。初めて見る監督の映画はいつもおもしろい。発想が新鮮なのだろう。個性的な発想が刺激的なのだ。
この映画は「市長」の死から始まる。市長は埋葬されるが、そのたびに掘り出される。市長によって粛清された父を持つ女性が掘り起こしていたのだ。彼女は、市長は死なない、市長がやった「事実」は決して歴史からは消えない(忘れない)と裁判で主張する。彼女のした行為は、市長の告発であり、自分は無罪だという。
ストーリーが寓意に満ちている。そしてその寓意を、「ことば」ではなく映像で見せる。最初の、「市長は死なない(死ねない)」も、ことばではなく、「死体」を掘り出しつづけるという行為で見せる。死体そのものを地下から掘り出して、見せる。そして、掘り出すのは、あくまで個人である。市長のしたことを明確に記憶している個人、被害者が、「過去」を掘り出すのである。掘り出すことで、「過去」を現代へと継承する。
裁判での、彼女の姿勢、服装がとてもいい。毅然として、晴れ舞台の女優のようである。彼女はたしかに演じているのだ。「告発者」を、そして演じることで、裁判の場そのものを「劇」にする。「劇」にして、傍聴者を「劇」のなかに引き込み、現在を活性化させる。
実際、市長の家族の「現在」が、あばかれる「過去」によって、徐々に変化していく。
裁判の被告の姿が「劇的」であるように、「過去」も「劇的」である。
墓を暴いた女性の父親に、市長が横恋慕する。その時はまだ市長ではなく警官(警察の幹部?)なのだが、着ているコートが白い羽(?)でおおわれ、肩がせり出している。一目で「特別な人」とわかる。劇的なシーンでは、朗々とオペラのように歌を歌ったりする。「日常ではない」ということがひどく強調される。
もちろん「日常」も出てくる。墓暴き女性の一家。彼女の子供時代。父は芸術家だが、まわりは「日常」である。服装も、彼女の一家は普通である。父はジャケットを着て、パンツをはいている。その「日常」があるだけに、市長(警察幹部)の、異様な感じが浮き彫りになる。
また、粛清時代の、胸に迫るリアルなエピソードもある。父は粛清でシベリア(?)へ追いやられた。そこから街へ木材が届く。列車が大量の木材を運んでくる。少女は母と一緒に、その木材を見にゆく。木材に切り口には「名前」を刻んだものがある。「生きている」と連絡するために、粛清られ、労働を強制されている人たちが、必死の思いで自分の名前を刻むのだ。その名前を少女と母は探すのである。
粛清時代の、ひとびとの「知恵」がそこにある。
そうしたリアルな現実が、他の幻想的に見える映像、寓意的に見える映像も、リアルなのだと告げる。あまりにもリアルすぎて、現実が現実に感じられない時があるが、その映像が寓意に見えるなら、それはたぶんそうした事情によるのだ。起きていることが強烈過ぎて、精神がそれを正確に受け入れられない。何かを欠いた状態、何かが強調された状態で、精神に刻印される。その刻印がそのまま映像として定着したために、幻想的な印象を生むのだ。
ある意味では、この映画で告発されていることは「事実」を超越しているかもしれない。いや、そうではなくて、ここに登場する映像は、その裏付けとなる「事実」が不足しているために、いびつに見えるのかもしれない。墓暴き女性の告発だけではなく、もっと多くの告発が重なれば、いびつにみえたものの細部が補強され、歴史が正確になる。――たぶん、いや、絶対にそうなのだ。
「市長(独裁者)は死んでいない」と女性がいうとき、それは、まだ死なせてはならないという意味でもある。「過去」は語らなければならない。「過去」を語ることだけが「未来」へと人を運ぶ。
堅苦しくならず、笑いと華麗な映像で、この映画は、そういう「哲学」を語っている。
グルジアの映画は初めて見た。初めて見る監督の映画はいつもおもしろい。発想が新鮮なのだろう。個性的な発想が刺激的なのだ。
この映画は「市長」の死から始まる。市長は埋葬されるが、そのたびに掘り出される。市長によって粛清された父を持つ女性が掘り起こしていたのだ。彼女は、市長は死なない、市長がやった「事実」は決して歴史からは消えない(忘れない)と裁判で主張する。彼女のした行為は、市長の告発であり、自分は無罪だという。
ストーリーが寓意に満ちている。そしてその寓意を、「ことば」ではなく映像で見せる。最初の、「市長は死なない(死ねない)」も、ことばではなく、「死体」を掘り出しつづけるという行為で見せる。死体そのものを地下から掘り出して、見せる。そして、掘り出すのは、あくまで個人である。市長のしたことを明確に記憶している個人、被害者が、「過去」を掘り出すのである。掘り出すことで、「過去」を現代へと継承する。
裁判での、彼女の姿勢、服装がとてもいい。毅然として、晴れ舞台の女優のようである。彼女はたしかに演じているのだ。「告発者」を、そして演じることで、裁判の場そのものを「劇」にする。「劇」にして、傍聴者を「劇」のなかに引き込み、現在を活性化させる。
実際、市長の家族の「現在」が、あばかれる「過去」によって、徐々に変化していく。
裁判の被告の姿が「劇的」であるように、「過去」も「劇的」である。
墓を暴いた女性の父親に、市長が横恋慕する。その時はまだ市長ではなく警官(警察の幹部?)なのだが、着ているコートが白い羽(?)でおおわれ、肩がせり出している。一目で「特別な人」とわかる。劇的なシーンでは、朗々とオペラのように歌を歌ったりする。「日常ではない」ということがひどく強調される。
もちろん「日常」も出てくる。墓暴き女性の一家。彼女の子供時代。父は芸術家だが、まわりは「日常」である。服装も、彼女の一家は普通である。父はジャケットを着て、パンツをはいている。その「日常」があるだけに、市長(警察幹部)の、異様な感じが浮き彫りになる。
また、粛清時代の、胸に迫るリアルなエピソードもある。父は粛清でシベリア(?)へ追いやられた。そこから街へ木材が届く。列車が大量の木材を運んでくる。少女は母と一緒に、その木材を見にゆく。木材に切り口には「名前」を刻んだものがある。「生きている」と連絡するために、粛清られ、労働を強制されている人たちが、必死の思いで自分の名前を刻むのだ。その名前を少女と母は探すのである。
粛清時代の、ひとびとの「知恵」がそこにある。
そうしたリアルな現実が、他の幻想的に見える映像、寓意的に見える映像も、リアルなのだと告げる。あまりにもリアルすぎて、現実が現実に感じられない時があるが、その映像が寓意に見えるなら、それはたぶんそうした事情によるのだ。起きていることが強烈過ぎて、精神がそれを正確に受け入れられない。何かを欠いた状態、何かが強調された状態で、精神に刻印される。その刻印がそのまま映像として定着したために、幻想的な印象を生むのだ。
ある意味では、この映画で告発されていることは「事実」を超越しているかもしれない。いや、そうではなくて、ここに登場する映像は、その裏付けとなる「事実」が不足しているために、いびつに見えるのかもしれない。墓暴き女性の告発だけではなく、もっと多くの告発が重なれば、いびつにみえたものの細部が補強され、歴史が正確になる。――たぶん、いや、絶対にそうなのだ。
「市長(独裁者)は死んでいない」と女性がいうとき、それは、まだ死なせてはならないという意味でもある。「過去」は語らなければならない。「過去」を語ることだけが「未来」へと人を運ぶ。
堅苦しくならず、笑いと華麗な映像で、この映画は、そういう「哲学」を語っている。