詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

監督・脚本 テンギズ・アブラゼ「懺悔」(★★★★★)

2009-05-19 18:49:32 | 映画
監督 テンギズ・アブラゼ 出演 アフタンディル・マハラゼ、ゼイナブ・ボツヴァゼ、ケテヴァン・アブラゼ

 グルジアの映画は初めて見た。初めて見る監督の映画はいつもおもしろい。発想が新鮮なのだろう。個性的な発想が刺激的なのだ。
 この映画は「市長」の死から始まる。市長は埋葬されるが、そのたびに掘り出される。市長によって粛清された父を持つ女性が掘り起こしていたのだ。彼女は、市長は死なない、市長がやった「事実」は決して歴史からは消えない(忘れない)と裁判で主張する。彼女のした行為は、市長の告発であり、自分は無罪だという。
 ストーリーが寓意に満ちている。そしてその寓意を、「ことば」ではなく映像で見せる。最初の、「市長は死なない(死ねない)」も、ことばではなく、「死体」を掘り出しつづけるという行為で見せる。死体そのものを地下から掘り出して、見せる。そして、掘り出すのは、あくまで個人である。市長のしたことを明確に記憶している個人、被害者が、「過去」を掘り出すのである。掘り出すことで、「過去」を現代へと継承する。
 裁判での、彼女の姿勢、服装がとてもいい。毅然として、晴れ舞台の女優のようである。彼女はたしかに演じているのだ。「告発者」を、そして演じることで、裁判の場そのものを「劇」にする。「劇」にして、傍聴者を「劇」のなかに引き込み、現在を活性化させる。
実際、市長の家族の「現在」が、あばかれる「過去」によって、徐々に変化していく。

 裁判の被告の姿が「劇的」であるように、「過去」も「劇的」である。
 墓を暴いた女性の父親に、市長が横恋慕する。その時はまだ市長ではなく警官(警察の幹部?)なのだが、着ているコートが白い羽(?)でおおわれ、肩がせり出している。一目で「特別な人」とわかる。劇的なシーンでは、朗々とオペラのように歌を歌ったりする。「日常ではない」ということがひどく強調される。
 もちろん「日常」も出てくる。墓暴き女性の一家。彼女の子供時代。父は芸術家だが、まわりは「日常」である。服装も、彼女の一家は普通である。父はジャケットを着て、パンツをはいている。その「日常」があるだけに、市長(警察幹部)の、異様な感じが浮き彫りになる。
 また、粛清時代の、胸に迫るリアルなエピソードもある。父は粛清でシベリア(?)へ追いやられた。そこから街へ木材が届く。列車が大量の木材を運んでくる。少女は母と一緒に、その木材を見にゆく。木材に切り口には「名前」を刻んだものがある。「生きている」と連絡するために、粛清られ、労働を強制されている人たちが、必死の思いで自分の名前を刻むのだ。その名前を少女と母は探すのである。
 粛清時代の、ひとびとの「知恵」がそこにある。
そうしたリアルな現実が、他の幻想的に見える映像、寓意的に見える映像も、リアルなのだと告げる。あまりにもリアルすぎて、現実が現実に感じられない時があるが、その映像が寓意に見えるなら、それはたぶんそうした事情によるのだ。起きていることが強烈過ぎて、精神がそれを正確に受け入れられない。何かを欠いた状態、何かが強調された状態で、精神に刻印される。その刻印がそのまま映像として定着したために、幻想的な印象を生むのだ。

 ある意味では、この映画で告発されていることは「事実」を超越しているかもしれない。いや、そうではなくて、ここに登場する映像は、その裏付けとなる「事実」が不足しているために、いびつに見えるのかもしれない。墓暴き女性の告発だけではなく、もっと多くの告発が重なれば、いびつにみえたものの細部が補強され、歴史が正確になる。――たぶん、いや、絶対にそうなのだ。
 「市長(独裁者)は死んでいない」と女性がいうとき、それは、まだ死なせてはならないという意味でもある。「過去」は語らなければならない。「過去」を語ることだけが「未来」へと人を運ぶ。
 堅苦しくならず、笑いと華麗な映像で、この映画は、そういう「哲学」を語っている。



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全美恵「デオドラント効果」

2009-05-19 07:33:59 | 詩(雑誌・同人誌)
全美恵「デオドラント効果」(「さよん・Ⅲ」2009年05月10日発行)

 全美恵「デオドラント効果」には「鼻」ということばがたくさんでてくる。

鼻を明かしてやる
鼻高々なやつらだから
鼻で笑ってたこと わすれない
鼻にかけるところ だいきらい
考えただけでも 鼻息が荒くなってしまう

 「決まり文句」をならべ、それをならべているうちに「物語」ができてくる。その「物語」がときどき「決まり文句」から逸脱する。そのとき「意識」ではなく「肉体」がことばにまじってくる。それがおもしろい。

鼻汁(はな)たれ小僧たれてない時は 鼻水が乾いて その
そのハナクソをほじくってたの
まるくまるくおおきく丸めて
遠くに飛ばす競争してた・・・
私に当てるレンシュー?
ちがう・・・まさか

 このあと作品は「奴らのボスは団子っ鼻」という具合にまた「決まり文句」にもどるのだが、逸脱と「決まり文句」が並列にあるから、この詩は愉しい。
 「鼻につく」から「臭う」へと進んで、さらに、

目を閉じれば、見えなかったものが
いっぺんに見えてくるらしいわ
目を開けていると判らない
そんなものが
鼻先から入ってくるって
鼻ですべてを把握できるって
確かにそういっていたもの

 ふいに、ことばが「哲学」に触れてしまう。この瞬間がいい。「鼻」。匂いを嗅ぐとは、「空気」を「肉体」の内部に取り入れること。「肉体」の内部で、あらゆる「情報」は、あらゆる「感覚器官」によって教諭され、ひとつの感覚ではとらえきれなかったものがみえてくる。
 それは「真実」がわかるということ。「見える」ということ。
 でも、見えすぎてしまったら、どうする?

鼻に障害がある私には
鼻の利かないものには判らない
だから、見えるもの聞こえるものしか信じない
いままでも、これからも、ずっと
臭うものにはふたをして
鼻をつまんで生きていくわ

 全は笑い飛ばしてしまう。鼻が利かないはずなのに「鼻をつまんで生きていくわ」という決まり文句で逆襲する(矛盾を前面に押し出す)ブラックユーモア。
 「肉体」をもっている人間の健全さに満ちている。
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『田村隆一全詩集』を読む(89)

2009-05-19 01:18:46 | 田村隆一
 『帰ってきた旅人』(1998年)の「帰ってきた旅人」とはもちろん西脇順三郎のことである。 「哀」という作品に、田村と西脇の出会いが書かれている。

ぼくは十七歳の四月 早稲田の古本屋で
不思議な詩集を見つけて
東京の田舎 大塚から疾走しつづけた
ワインレッドの菊型の詩集をめくっていると
ほんとに手まで赤く染まってきて
小千谷の偉大な詩人 J・N
言葉の輪のある世界に僕は閉じこめられてしまって
古代ギリシャの「灰色の菫」という酒場もおぼえたし
イタリアの白い波頭に裸足のぼくは古代的歓喜をあじわって
だしぬけに中世英語から第一次大戦後の
近代的憂鬱に入る

 西脇のことばに触れる。そのとき、田村は西脇に触れているのか、それとも他の何かに触れているのか。

古代ギリシャの「灰色の菫」という酒場もおぼえたし

 この1行は、その疑問に何も答えてくれない。答えるのではなく、疑問を、さらにかきまぜる。「灰色の菫」。それは酒場であると同時に、ほんとうの菫である。菫が灰色というのは、ほんとうか。そんな菫があるのか。わからないけれど、いや、わからないから、それが本物に見える。ほんものの菫ではなく、ほんものの「ことば」に。
 田村がおぼえたもの--それは「ことば」なのだ。「ことば」が、そこにあるということなのだ。「ことば」があるとき、その向こう側にあるのは何だろうか。現実だろうか。意識だろうか。人間だろうか。時間だろうか。場所だろうか。すべてがある。そして、そのすべては一瞬のうちに、ことばを通って現実になる。感覚を、意識を刺戟するものになる。古代ギリシャも「灰色の菫」も酒場も、第一次大戦も、近代的憂鬱も、同じように存在する。そこには時間、空間、そして物質そのものの差異さえない。すべてが「等価」になる。すべてを「等価」にする--それがことばだ。ほんもののことばだ。

ぼくは五十歳 偉大なるJ・Nは八十歳
ハムレットの「旅人帰らず」という台詞がお気に召したらしく
J・Nはピクニックに出かけてしまったが
「じゃ現代はいったいなんなのです?」
おお ポポイ
哀ですよ
人は言葉から産れたのだから
J・Nは言葉のなかにいつのまにか帰っているのだ

 「言葉から産れ」「言葉のなかに」「帰っている」。この運動。運動がつくりだす「間」のなかに、東洋も西洋も、あらゆる時代が平等に存在する。等価に存在する。その「等価」を「等価」のまま輝かせるのが、詩、なのである。
 「等価」のなかで、ことばはの祝祭がはじまるのだ。

四千年まえの 二千年まえの 百年まえの
言葉という母胎に帰ってくる旅人たち
<四月は残酷そのものさ>
いつのまにか猟犬が鼻をつけ
まるでT・Sエリオットのような声で
ここ掘れワンワン
ここ掘れワンワン
吠えつづけている

 四千年前も、二百年前も、エリオットも花咲爺も同じ。それが、詩。いいかえれば、そういうものすべてを「等価」にしてしまうことばのエネルギー自体が詩なのだ。そこにあるのは秩序ではなく、秩序を破壊し、秩序からの解放なのだ。祝祭なのだ。
 ことば、ことば、ことば。
 ことばの、

ここ掘れワンワン
ここ掘れワンワン

 それがどこか。「ここ」と信じて掘りつづけるとき、詩が誕生する。




詩と批評E (1978年)
田村 隆一
思潮社

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