藤田晴央「公園の熊」、石原次郎「雨音」(「弘前詩塾」13、2009年05月15日発行)
藤田晴夫「公園の熊」は、かつて熊のいた公園で見かけた風景。熊がいなくなってから久しいのだが……。
高校生がキスをしているのを見た--という単純なことを書いているだけなのだが、熊から高校生へのことばの動きがとてもていねいである。熊と見えたものが高校生だったと気づく時の頭の中(こころのなか?)の反応は1秒もかからないくらいのことなのだが、藤田のことばのなかでは、それがゆっくりと動く。そのゆっくりさかげんが、とてもていねいである。
ことばというのは、どうしても加速する。その加速を、藤田は、しっかりと抑える。少しだけ意識を引き戻すということを心がけている。
たとえば「かつて熊の檻があったあたりに」。「かつて」という時間と「いま」を往復する。その「往復」のあいだに、ことばはゆっくり動く。あるいは「よく見ると/黒いものは/男子高校生の学生服であった」の「よく見ると」の「よく」。「よく」という「時間」のなかで踏みとどまる。
ほんの一瞬のことなのだが、そのほんの一瞬をていねいに描くことで藤田の世界への向き合いかたが決まる。何かをすぐには断定しない。この断定を「批判」と置き換えると藤田の思想がよくわかる。藤田は「いま」という時間にふみとどまり、踏みとどまることで「世界」を受け入れる。「世界」を「批判」する前に、その姿を受け入れる。
この落ち着いた呼応は、藤田が「世界」を受け入れる思想が、人に安心感をあたえるところから生まれる。この「受け入れ」があるからこそ、高校生が輝く。
「二つの体に分かれ/手をつないで」という呼吸。「分かれ」て、そのまま離れていくのではなく、その「いま」に踏みとどまり、「手をつないで」また世界を引き寄せる。まるで手をつなぐために「二つの体に分かれ」たのようだ。このゆっくりとした往復--それをしっかりとことばに定着させる落ち着きが美しい。
*
石原次郎「雨音」のことばもゆっくり動く。石原のことばは「現代詩」のことばからは少しはなれたところにあるかもしれないが、静かで気持ちがいい。
「樹液のように」という比喩が美しい。「あなた」は石原の内部に深く存在している。石原は、そんなふうにして「あなた」を辿りながら一本の木になって濡れる。そのとき聞こえる雨音は、「あなた」が濡れる雨音でもある。「樹液」が木の隅々にまでたどりつき、「樹液」が「雨音」を聞く時、その「雨音」のなかで、石原と「あなた」がしっかりと出会う。そんな出会いをするために「あなた」は去って行った、そんな出会いを確かめるために雨は降っている--そんなふうに思える。
藤田晴夫「公園の熊」は、かつて熊のいた公園で見かけた風景。熊がいなくなってから久しいのだが……。
ある朝
公園を散歩していたら
池ごしの
かつて熊の檻があったあたりに
黒いものの姿があった
熊が
立って背を見せているのであった
土手の斜面に向かって
何やらむさぼっているようであった
すると
黒いものの向こうから
紺色の制服の女生徒が顔を出した
よく見ると
黒いものは
男子高校生の学生服であった
女生徒は少し恥ずかしそうに笑った
僕も笑った
熊は二つの体に分かれ
手をつないで歩きだした
高校生がキスをしているのを見た--という単純なことを書いているだけなのだが、熊から高校生へのことばの動きがとてもていねいである。熊と見えたものが高校生だったと気づく時の頭の中(こころのなか?)の反応は1秒もかからないくらいのことなのだが、藤田のことばのなかでは、それがゆっくりと動く。そのゆっくりさかげんが、とてもていねいである。
ことばというのは、どうしても加速する。その加速を、藤田は、しっかりと抑える。少しだけ意識を引き戻すということを心がけている。
たとえば「かつて熊の檻があったあたりに」。「かつて」という時間と「いま」を往復する。その「往復」のあいだに、ことばはゆっくり動く。あるいは「よく見ると/黒いものは/男子高校生の学生服であった」の「よく見ると」の「よく」。「よく」という「時間」のなかで踏みとどまる。
ほんの一瞬のことなのだが、そのほんの一瞬をていねいに描くことで藤田の世界への向き合いかたが決まる。何かをすぐには断定しない。この断定を「批判」と置き換えると藤田の思想がよくわかる。藤田は「いま」という時間にふみとどまり、踏みとどまることで「世界」を受け入れる。「世界」を「批判」する前に、その姿を受け入れる。
女生徒は少し恥ずかしそうに笑った
僕も笑った
この落ち着いた呼応は、藤田が「世界」を受け入れる思想が、人に安心感をあたえるところから生まれる。この「受け入れ」があるからこそ、高校生が輝く。
熊は二つの体に分かれ
手をつないで歩きだした
「二つの体に分かれ/手をつないで」という呼吸。「分かれ」て、そのまま離れていくのではなく、その「いま」に踏みとどまり、「手をつないで」また世界を引き寄せる。まるで手をつなぐために「二つの体に分かれ」たのようだ。このゆっくりとした往復--それをしっかりとことばに定着させる落ち着きが美しい。
*
石原次郎「雨音」のことばもゆっくり動く。石原のことばは「現代詩」のことばからは少しはなれたところにあるかもしれないが、静かで気持ちがいい。
コーヒーカップには
まだ日の温もりが残っていた
あなたが席を去ってから
きょう初めての冷たい雨がきた
疲労のみえる午後の駅から
電車が静かにとおざかっていく
木の樹液のように
あなたの記憶を辿りはじめる
日暮れにはまだ間があるとして
ひとり身で
ますます烈しくなった雨音をきく
あなたの濡れた雨音をきく
「樹液のように」という比喩が美しい。「あなた」は石原の内部に深く存在している。石原は、そんなふうにして「あなた」を辿りながら一本の木になって濡れる。そのとき聞こえる雨音は、「あなた」が濡れる雨音でもある。「樹液」が木の隅々にまでたどりつき、「樹液」が「雨音」を聞く時、その「雨音」のなかで、石原と「あなた」がしっかりと出会う。そんな出会いをするために「あなた」は去って行った、そんな出会いを確かめるために雨は降っている--そんなふうに思える。
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