詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池上彰「新聞ななめ読み」

2009-05-25 17:56:43 | その他(音楽、小説etc)
池上彰「新聞ななめ読み」(「朝日新聞」2009年05月21日夕刊)

 小沢辞任会見の様子を分析している。読売新聞、朝日新聞の「小沢番記者」が小沢に遠慮して、小沢の責任を追及していないと指摘したあと、

日本テレビのキャスターは、こう質問しました。
 「ここから先にさらに進んで離党、あるいは議員辞職ということも選択肢として考えられるのかどうかお聞かせください」
 これには小沢代表がこう聞き返します。「あなたどこだっけ、会社?」
 小沢番ではない人が真正面から質問してきたことに小沢氏が腹を立てている様子がわかります。

 こういう文章が私は大好きだ。「小沢氏が腹を立てている様子がわかります。」ことばの背後には感情がある。その感情は見逃されることがある。また感情に気づいても気づかないふりをすることもある。人の感情だから取り違えることもある。小沢がほんとうに「腹を立てている」かどうかの証明は難しい。けれど、池上は「腹を立てている」と言い切る。そこに私は「ことばの力」を感じる。言ってしまえば(書いてしまえば)、ことばはことばであることを超越して「事実」になる。そしてそれは、実は、書いた人が何を事実に「したいか」とも言い換えることができる。池上は、小沢が質問に腹を立てる人間に「したい」のである。そういう「欲望」が前面に出てくる文章が私は大好きだ。

 詩とは関係ないことかもしれない。

 でも、関係があるかもしれない。少なくとも、私は、ことばに「欲望」を読む。ことばから「欲望」を読む。詩人は何を「欲望」しているのか、そう思って詩を読むと、きっと詩人が身近になる。


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坂多瑩子「傘」、中井ひさ子「ある日」

2009-05-25 09:29:04 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「傘」、中井ひさ子「ある日」(「ぶらんこのり」17、2009年06月11日発行)

 坂多瑩子「傘」は記憶がじわりと「肉体」浸透してきて、「肉体」そのものになってしまう不思議な感じがある。

木立のはずれに草地がある
傘がほしてある
夕方おばあさんは傘を閉じにやっくる
ていねいに閉じて
おばあさんが
行ってしまうとあたりは暗くなる 暗くなると
まわりの木の枝がのびてくる
本の挿絵でみた
黒い森 そっくりに
黒い森の絵の下には
やがてなにもみえなくなると書いてある
空気は熱く よどんでいる
あたまがくらくらする

 傘が干してある草地そのものが実際のものか記憶かわからないけれど、その光景のなかに「本の挿絵」という記憶がまぎれこんでくる。そして、その記憶が「世界」を動かしていく。

やがてなにもみえなくなると書いてある

 ほんとうになにも見えなくなるのが先なのか、それともそう書いてあるのを思い出したので世界がそんなふうにかわるのかわからなくなる。「あたまがくらくらする」。
 この動きが自然で説得力があるのは、それに先立つ、

行ってしまうとあたりは暗くなる 暗くなると

 この行の呼吸のためである。ここから、ほんとうは変化がはじまっている。
 「行ってしまうとあたりは暗くなる」のあと、改行されて「暗くなると」だと、「やがてなにもみえなくなると書いてある」が嘘っぽくなる。対象との距離が整然としすぎて、嘘っぽくなる。また、「おばあさんが行ってしまうとあたりは暗くなる」ではないことも重要だ。「行ってしまうとあたりは暗くなる 暗くなると」という行は、「主語」をもたない。「主語」がないから、「暗くなる」のあとすぐに「暗くなると」と「ずれ」ていくことができる。
 「暗くなると/まわりの木の枝がのびてくる」ということは現実にはありえないけれど、その前のことばの呼吸が「主語」をふっとばすことで、「頭」の判断を拒絶し、かわりに記憶を呼び込む。「記憶」を「主語」にしてしまう。
 「主語」を欠いたまま、「記憶」が「頭」を強引にひきずりまわすのである。「頭」は「頭」であることができず、「肉体」になってしまう。「肉体」に頼ってしまう。そして、ますますおもしろくなる。
 何が見えて、何が見えないのか、わからなくなる。
 なにも見えないはずなのに、たとえば「やがてなにもみえなくなると書いてある」という「こと」が見える。「もの」ではなく「こと」が見えるようになる。
 「こと」を見ているのは「頭」ではないし、「肉体」でもない。「肉体」になってしまった「頭」が、なんと名付けていいかわからない「目」で見ている。
 この「目」はとてもおもしろい「目」である。

傘を閉じていたおばあさんの顔は
おかあさんによく似ていた
いもうとの傘 あたしの傘 あたしの傘
ていねいに閉じていた
黒い森はあたしのへやに
はいってくる
あたしは眠る
傘がとおくに見える
黄色いひなげしの花の傘
夜なので
色がみえない

 何が見えた? 「色がみえない」という「こと」が見えたのだ。
 「黄色」は「肉体」のなかにあって、そこから「肉体」の外へ出ていこうとしている。夜のなかへ出て行こうとしている。「目」はそれを追いかけている。「肉体」から出て行く「色」を。そういう「こと」が、「肉体」のなかで起きている。

 詩とは、「もの」ではなく「こと」なのだ。



 中井ひさ子「ある日」にも「こと」が出てくる。

真昼に笛の音が
風にのって訪ねてくると
背骨が低く鳴り出し
語ったこと
語らなかったことが
ねじれて揺れて
思いのほか痛みます

 おもしろいのは「語ったこと」と「語らなかったこと」が同等であるということだ。「語ったこと」と「語らなかったこと」が同じなら、「人間」と「人間」以外のものも同じになる。
 2連目。

身体の内の細い道に
人影はありません
赤目のウサギの耳だけが
時々動きます
昨日のことも
もっと前のことも
思い出してはいけません

 人間とウサギは区別がなくなる。そして「昨日」と「もっと前」も区別がなくなる。さらに、「思い出してはいけません」といってみたも、「思い出すこと」と「思い出さないこと」も同じことになってしまうので、「思い出してはいけません」と言えば言うほど「思い出すこと」にもなる。

 「頭」と「肉体」が浸透しあって、不思議な「こと」そのものになる。そのなかに、詩が、自然に浮かんでくる。「こと」から詩が生まれてくる。


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ケヴィン・マクドナルド監督「消されたヘッドライン」(★★)

2009-05-25 04:28:24 | 映画


監督 ケヴィン・マクドナルド 出演 ラッセル・クロウ、ベン・アフレック、ヘレン・ミレン

 事件を追う新聞記者(ラッセル・クロウ)がきわめて紋切り型。ジャンクフードを食い散らし、だらしない体型、だらしない格好。けれどもニュースに対する臭覚だけは鋭い。その彼が、議員スタッフ(女性)の死、その背後にある秘密を探っていく――というストーリー。これはもう、ほんとうにストーリーだけを追い掛ける映画。わざと「背後」がわからないように、わからないように、わからないように、怪しい関係を説明しつづける。
 こういうストーリーの鉄則は、最初は怪しくない人間が一番怪しい。で、そのとおりの展開。アメリカの軍事産業が登場し、巨大な金が動いている、ということが説明されるけれど、そのとき「一般人」が巨大と感じる金額なんて、金を操っている人間には小さい額。日本でも、金丸は「たかが5 億円もらって何が悪い」という態度だったが、それは蔭ではもっと大きい額が動いているということだろう。
 見どころは、冒頭近くのラッセル・クロウのジャンクフードを食い漁るシーンが、そのまま体形にあらわれているということくらいだろう。もともと肥満型の俳優なのだろうけれど、時代遅れの髪型で、演技をしたつもりになっている。これは議員を演じるベン・アフレック、新聞社の編集長のヘレン・ミレンも同じ。全員が「紋切り型」を「紋切り型」のまま演じている。俳優はどこまで「紋切り型」を演じることができるか。それを味わうための映画かしれない。

 クリント・イーストウッドが「グラン・トリノ」のラストで「ダーティ・ハリー」の格好を演じて見せてファンを喜ばせたが、同じ「紋切り型」でも、こんなにも違う。


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『田村隆一全詩集』を読む(95)

2009-05-25 00:06:59 | 田村隆一

 「第三景 滑川哀歌」。この詩には、田村のことばの特徴が凝縮している。さまざまなことばが、田村という「人間」のなかで出会い、輝く。

春になればヤマザクラが咲き
左へ曲がればハラキリ・ヤグラ
ハラキリ・ヤグラのすぐそばに北条高時の井戸
上方勢が稲村ガ崎に黄金の太刀を投げこんで乱入したとき
北条一族は滅び
高時は井戸のそばで切腹し身を投じる
東勝寺は、
「東ガ勝ツ」ことを祈願して建立されたのに
あっけなく敗北した
このあと
ぼくの若い日本は
南朝側と北朝側に分裂して内乱状態をむかえてさ

ハラキリ・ヤグラのすぐとなりに修道院
レデンプトリスチン修道院
神サマと結婚した美しいシスターたちの館は
ぼくの目には壮麗に映る
北海道のトラピスト修道院では
バター飴とクッキーを売っているけれど
ここでも彼女たち手焼きのクッキーを製造していて
若宮大路の洋品店で売っている

 サクラからハラキリ、北条一族、さらには修道院、シスターたちの副業(?)と、ことばはさまざまなものを渡り歩く。自在に動く。
 この詩で、おもしろいのは、「ぼくの若い日本は」という行だ。
 「ぼくの若い日本」。なぜ、「ぼくの」ということわりがついているのだろう。「田村の」「若い日本」だけが「南北朝時代」にはいったわけではない。歴史はだれにとっても同じである。けれども、田村は「ぼくの」と書いている。
 ここに田村の特徴がある。
 詩とは、詩のことばとは、あくまで「個人」のものなのである。歴史として「教科書」に書かれていることであっても、詩人が書き直せば(語り直せば)、それは「詩人の(田村の)」歴史である。
 「語り直す」ということは、それが既成の事実であっても、「共有」のものではなく、あくまで「個人」のものになるということだ。「個人」のものにするために、詩人は語り直すのだ。
 そして、そこに書かれていることは「ぼくの」歴史であるから輝くのだ。独特の光を放つのだ。田村の北条時代は、サクラとハラキリと井戸がいっしょになったものである。それが南北朝時代へと突き進む。
 つぎに出てくる「ぼくの目には壮麗に映る」も、同じである。「ぼくの目には」と書かなくても、それは田村の目にうつった「光景」としか見えない。だれも、田村以外の人間が修道院を「壮麗」と見ているとは思いはしない。けれども、田村は「わざと」「ぼくの目には」と書き加える。「ぼくの目」をとおって、ことばは動いているのだ。そのことばを追うことは、「田村」の内部をくぐることなのだ。そして、その田村の内部というのは、サクラとハラキリと井戸がしっかり結びついている世界である。
 この詩集は「ぼくの鎌倉八景」と明確に「ぼくの」と断わっているが、これはとても重要なことなのだ。あくまでも、「田村の」である。

 「ぼくの」であるからこそ、この詩の最後の部分は非常におかしい。修道院の手作りのクッキー、洋品店で売られているクッキーに、田村は「鎌倉」を見ている。

それにしても
とぼくは思う
どうしてシスターたちがつくったクッキーが
洋品店で売られているのかしら
色とりどりのパンティやブラジャーやスカーフに
いりまじってさ

 ここでも「ぼくは」思うのである。
 洋品店に売られているのは「パンティやブラジャーやスカーフ」だけではないはずだが、田村の目をとおると、洋品店はそういうものにかわる。スカートやブラウス、セーターではなく、「パンティやブラジャーやスカーフ」とクッキーが出会って、鎌倉を賑やかにする。「田村の」鎌倉は、そうやってできている。
 世界は「もの」であふれている。けれども「肉眼」が触れる「もの」には限りがあり、それが「ことば」になるには限りがある。限りがあるのだけれど、その限られたことばが、ふつうの「歴史」「観光案内」を逸脱して、田村自身を語りはじめる。そのとき、そこに、詩が存在する。




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