詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本美代子『夜神楽』(2)

2009-05-15 09:49:41 | 詩集
山本美代子『夜神楽』(2)(編集工房ノア、2009年04月01日発行)

 山本美代子の「身体感覚」はとても自然だ。まず小さく動いて、それから徐々に大きくなる。そのため動きに不安定さがない。
 「アンダンテ」

直立歩行を始めてから ひとはいつも 首の
あたりが寒い 地熱がこいしくて なずなの
微小な花に目をとめたりする 水溜まりに映
る 空の深さ

 「首のあたりが寒い」というのは、ごくふつうの表現だけれど、この「あたり」という幅のもたせかたが不思議に山本のリズムである。「身体感覚」である。「首筋が寒い」でもいいのかもしれないけれど、それだと「肉体」が限定される。「あたり」というひとことが、「肉体」と「空気」をなじませる。その「なじむ」広がりがあるから「寒い」→「熱」→地熱という動き、首(肉体)→空気(あたり)→地という動きがとてもスムーズになる。あ、山本は、いつもこんなふうに「肉体」を「空気」(世界)のなかでなじませながら生きているのだな、と自然に分かる。だから、地→なずな→花、という動きが自然だし、地→水溜まりが自然だ。そして、そこに一気に侵入してくる空。水の中で地と天が融合し、しかも「浅い」はずの水溜まりが「空の深さ」によって活性化される。
 ただ一方方向へ広がっていくのではなく、その方向と逆、あるいは垂直にまじわる方向へも広がり、世界が立体化する。そして、その「立体」のなかに「肉体」が位置をしめる。その確かさが、とても自然で、とてもいい。

歩くはやさで通りすぎる 今 歩くはやさで
感じる やわらかな純粋 弾む抽象
同じ高さで移動していく こころと身体 ゆ
っくりと運んでいく 刺

 「肉体」の確かな位置があるから「やわらかな純粋」「弾む抽象」もなじむ。「やわらかな」「弾む」のなかに「肉体」のイメージが侵入してきているからだ。「頭」ではなく、「肉体」の手触りのようなものが侵入してきているからだ。
 科学や論文では、こういう「肉体」の侵入は不純物になる。つまり、なんのことかわからない、あいまいな言語の混乱になるが、詩では、この「混乱」が世界の豊かさにつながる。異質なものが(定義不能なものが)ことばに侵入してきて、それが定義不能であるからこそ、その定義不能を超えて何かが動くのである。それは山本のことばを借りて言えば「こころと身体」という「結びつき」そのものである。「こころ」と「身体」ではなく、「こころと身体」という結びついたものが、そのまま動くのである。
 そして、唐突な、



 説明が省かれた、この一語。
 それは「純粋」「抽象」を「こころと身体」で言い直したことばだ。「比喩」だ。「概念」になる前の、つまり「頭」で整理される前の「こころと身体」が、直接とらえた、ことばにならない「状態」(空気)そのものだ。
 「刺って何?」と聞かれたら、私は、それについてどう答えていいかわからない。わからないけれど、わからないからこそ、そのことばが「真実」だと感じる。

 山本の「肉体」が広がっていくのは「空間」だけではない。
 「遠くへ」。その書き出し。

まもなく 遠くへ行ってしまう ひとがいる
ので 時間の堰の 水位が増していく

 山本の「肉体(こころと身体)」は「時間」も「あたり」(首のあたり、のあたり)を自然に引き寄せる。「まもなく」が、なんとも不思議である。「遠くへ行ってしまう」はこの詩では「死ぬ」ことである。その「死ぬ」という現象と、「まもなく」が「あたり」の感覚で融合する。
 うーん、そうか。
 私は、そううなってしまった。
 私は父の死に目にも母の死に目にもあっていないので、その死の瞬間を知らない。兄が死んだときは立ち会ったが、まだ若くて、死そのものがなじみのないものだった。そのときの時間の動きが、よく思い出せない。しかし、そうか、「まもなく」という感じで、時間が「肉体」に近づいてくるのか、それは堰に水がたまるような感じか、と不思議に納得してしまった。

まもなく 遠くへいってしまう ひとがいる
ので 向こう岸からのまなざしが ときおり
入り混じる リンゴは目の前で 四次元の球
体を強固にし 言葉は 意味を追いかけて
迷走をはじめ 脳髄までとどく 水仙の香の
なかで 手の位置 足の置き場所を はじめ
てのように探す

 そして、山本の「時間」は「向こう岸」の「時空間」を引き寄せる。「まもなく」という「あたり」の感覚が、そういうものを呼び寄せてしまう。
 なんとも不思議で、なんとも魅力的である。
 人が死ぬのを「魅力的」といってはいけないのだろうけれど、あ、その、彼岸と此岸が入り混じった「時間」(あたり)を見てみたい、と思わず思ってしまった。
 でも、この感覚は、やっぱりとても強烈なのだろう。
 その後の山本のことばは少し乱れる。「言葉は 意味を追いかけて 迷走をはじめ」が正直で、とても気持ちがいい。そして、その迷走のまま(?)、次の「脳髄までとどく」の主語がわからなくなる。主語は「迷走」する「言葉」? 「意味」? それとも「水仙の香」?
 このわからなくなる感覚がいい。とても自然だ。言葉、意味、水仙の香が融合して、区別のつかないものになる。その実感がいい。山本に「肉体」があるように、「言葉」や「意味」「水仙の香」にも「肉体」があるのだ、と気づかされる。山本の「肉体」は、そういう「肉体」とも交感している。響きあっている。

 これはすごいことだなあ、と、ほーっとため息が漏れる。
紡車―山本美代子詩集 (1979年)
山本 美代子
芸風書院

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『田村隆一全詩集』を読む(85)

2009-05-15 00:39:20 | 田村隆一

 「春画」は金子光晴のことを描いている。

男は三十二歳 昭和三年に女房をつれて
日本脱出の計画をたてる
この男の「計画」は場あたりだが
パリへ行きたくても大阪までの汽車賃しかない
そこで 上野の美校の日本画科に半年ほどいただけだが
清長風の押し売り用の春画を描きまくって
長崎まで
モデルは大阪では胴長柳腰の日本女
長崎ではオランダの微風が目にささやいてくれるから
日本女でもバタ臭くなる しかし目は
なかなか多彩な花を咲かせてくれる球根にはなってくれない
春画を売りつづけて やっと上海まで
目は南画風だが多彩な色彩が生れる

 この詩にかぎらないが、田村のことばの動きは不思議だ。何かをたんたんと書いているように見える。ここでは、金子光晴のことをたんたんと書いているように見える。しかも、その金子光晴の姿は何かが特別変わっているわけではない。(と、思う。)田村が書くまで、だれも知らなかったという「事実」は書かれていない。それにもかかわらず、なぜか、引き込まれて読んでしまう。
 そして、思うのだ。
 詩とは、新しいことを書かなくてもいい。知っていること、知られていることを、そのまま書いても詩である。
 ただし、条件がある。
 そのことばには詩人独自の語法がなければならない。ことばがなければならない。自分のことを書かなくても、(他人のことを書いても)、そこに詩人自身の語法・文体があれば、そこには詩が成立する。

 今年の3月、私は伊藤比呂美と偶然話す機会があった。そのとき伊藤は、彼女の詩は「語り直し」なのだと言った。自分の体験を語っているのではなく、すでに語られたことを語り直す。それが、詩。語り直すとき、そこには彼女自身のすべてが反映される。そして、詩が誕生する。伊藤の「声」で語れば、それが伊藤の体験でなくても、伊藤そのものの体験したことになる。語り直しとは「他人」になることだが、「他人」になることが伊藤そのものになることなのだ。「伊藤」であることをやめ、「他人」になったとき、「伊藤」が生まれるのである。矛盾→破壊→誕生。その動きが、「語り直し」のなかにある。
 田村のこの詩もほとんどが「語り直し」である。
 金子光晴という人間の「語り直し」である。そして、語り直すとき、そこに田村の「こだわり」、つまり田村自身の「声」がつけくわえられる。「時間」がつけくわえられる。
日本女でもバタ臭くなるしかし 目は
なかなか多彩な花を咲かせてくれる球根にはなってくれない

 「目」へのこだわり。それは「肉眼」へのこだわりと同じである。
 田村は、金子の描いた「目」の変化をおいながら、その「目」が単に「目」なのか、「肉眼」なのか見ようとしている。それはそのまま、金子の「目」が「目」のままなのか、それとも「肉眼」なのか、それを見極めることである。
 「多彩な花を咲かせてくれる球根」--それが「肉眼」である。「肉眼」で対象を見れば、その対象から多彩な花が咲き始める。「いま」「ここ」にはない花が咲き始める。その多彩な花が「春画」のなかにあらわれないかぎり、金子は「肉眼」を手にいれていないことになる。
 その金子の姿を描くことで、田村自身が、「肉眼」を手に入れる。金子になる。金子にぴったり重なる。(金子を、自分の「理想」として引き寄せる。)

男は男娼以外のあらゆる労働に従事しながら
東南アジアのゴム園で汗をながし 近代世界の原罪を
白色と夕食のナショナリズムのエゴイズムを
一九三〇年代のヨーロッパの危機を
骨の髄まで体験する それにつれて
春画のモデルも多様化せざるをえない
黒い人 白い人 黄色い人
男の放浪 地と汗の放浪は十年におよぶ
男は金子光晴という筆名で不朽の詩集『鮫』を刊行する

 男は画家だったはずである。しかし、春画を描いているうちに、ことばにたどりついてしまった。この越境。それは、田村が常に思い描いている「肉体」の越境と重なる。目は見るのではなく、聞く。耳は聞くのではなく触れる。舌は味わうのではなく見る……。そんなふうにして「越境」することで、目が「肉眼」に、耳が「肉耳」に、舌が「肉舌」になるように、絵は、その線と色は、「肉・線」「肉・色」になる。その「肉・線」「肉・色」が「肉・ことば」である。
 だから、「不朽の名作」になる。ことばは単にことばなのではない。そこに書かれていることばは「肉・ことば」なのだ。他のものから越境してきたもの、他のもの(ここでは絵画だが)を破壊して誕生したものなのだ。
 そう書くことで、田村自身「肉・ことば」を手にいれるのだ。

 「語り直し」。それは、金子光晴だけを「語り直し」ているとき、何を書いているか、はっきりとは見えにくいかもしれない。金子光晴のこと、みんなが知っていること、春画を書いていたが、ある日、詩集を出した。それは不朽の名作『鮫』である、というのでは田村が書き直す(語り直す)までもないではないか、という印象を与えるかもしれない。
 しかし、違うのだ。
 田村は、金子は春画を描きながら「肉・ことば」の世界に到達した、と書いているのだ。それは、田村しか書けないことである。
 その「肉・ことば」で、別な人を「語り直す」--そういう試みをすると、その「肉・ことば」の動きがどんなものか、どんなに個性的かわかる。つまり、田村にしか書けない世界かがわかる。「語り直し」は創作である。発見である、ということがわかる。

アインシュタインよ どうして
十六歳の美少女と恋愛しなかったのだ
彼女の陰毛の下に 核分裂と融合の
化学方程式を薔薇の形で刺青(いれずみ)にしておけば
二十世紀は灰にならずにすんだのに

 ここに描かれた「アインシュタイン」。それは金子光晴の「肉眼」(肉・ことば)と、田村の「肉・ことば」が描き出すアインシュタインである。
 この5行は、いわば、「反歌」である。それまでの金子の描写(金子の半生の語り直し)という長歌にたいする反歌。
 ふたつは向き合うことで、互いを照らし、そこに「ことば」そのものを浮かび上がらせる。「肉・ことば」の力を、浮かび上がらせる。

 田村のことばは「他人」を語り直すことで「多彩」になっていく。その世界をひろげていく。田村の詩が多彩なのは、それが田村自身の「体験」にことばを従属させるのではなく、「語り直し」という運動のなかでことばを解放するからである。



僕が愛した路地 (1985年)
田村 隆一
かまくら春秋社

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