詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岬多可子「その庭へ向かう径」、山口賀代子「ともだち」

2009-05-08 11:51:02 | 詩(雑誌・同人誌)
岬多可子「その庭へ向かう径」、山口賀代子「ともだち」(「左庭」13、2009年04月30日発行)

 岬多可子「その庭へ向かう径」は、なんのことなのかよくわからないが、ことばがことばとして独立していて、怖いところがある。

(三月、神経戦)

生乾きの 布の夜が ふっさりと地上を覆うと
匂いが 勝ってくる
ぎゃるり ぎゃらろ ぎゃらりおお
と 猫は春

黒が本質 と思っていて
咲けば 花 花 と 浮く足元も 常のこと
量が多いということは
地につかぬゆえ
満開 大群 断たれた毛束
なんでも おそろしい

黒が本質 というのは
意識のことだから そこから
五官を手足を 切り離していって
一輌ずつ ばらばらの行き先を目指す列車の
さみしいような 金属の
熱と軋み

敷布の下 しばらく動いていたものも
観念して
しまいには 鎮まる
けれど それが
人なのか 部分なのか
休止なのか 停止なのか
知らない

 最終連に「人なのか 部分なのか」ということばが出てくるが、その表現を借りていえば、ここに書かれたことばは「全体」なのか「部分」なのか--それがよく分からない。それが、怖い。
 たとえば、

生乾きの 布の夜が ふっさりと地上を覆うと

 この1行。2か所ある「1字空き」はいったい何なのだろう。この1字空きによって、ことばが「独立」というか、「部分」になっていく。「意識」ということばもこの詩に出てくるが、意識が運動していくのを逆らうように、わざと立ち止まらせている。それこそ「休止なのか 停止なのか/知らない」けれど、それが立ち止まるたびに、寸断されたことばがそれだけで「独立」するのだ。
 「生乾き」はありふれた(?)ことばだが、「布の夜」は少し違う。「布」も「夜」も誰でもが知っているが、「布の夜」って何? 布に夜がある? そんなものはない。ないということは、この「布の夜」というのは「比喩」ということである。
 いったん「比喩」という脇道へ入ってしまうと、そこから先は、もちろん「比喩」の世界である。「いま」「ここ」でありながら、「現実」ではない。日常の現実ではなく、あくまでことばが築き上げる世界である。
 「ふっさりと地上を覆う」。「ふっさり」とは「ふさふさ」。でも、これは「布」が「ふさふさ」ということ? 違うだろう。布を「ふさふさ」とはいわない。違うのだけれど、なんとなく「イメージ」がある。
 「布の夜」と同じである。
 1行のなかで、また、少し「比喩」のずれがひろがったのである。そして、そのずれは、修正されることはない。むしろ、そのずれを利用して、ことばは、「いま」「ここ」から、「いま」「ここ」ではないところへ入っていく。1字空きによって、退路を断ちながら進んで行く。
 なんのために? わからないけれど……。
 しかし、そんなふうに意識を断って動いてみても、意識というのは、どうしても「間」を飛び越えてつながってしまう。どんな断絶があろうと、意識というのはかってにそれを飲み込んでしまう。「黒が本質」ということばが出てくるが、「意識」とは「黒」、すべてを飲み込む「黒」、ブラックホールかもしれない。
 すべてを飲み込み、一体化しようとする意識(黒)と、それから逃れ「独立」しようとすることばが、互いに戦っている。(神経戦)ということばを、岬はつかっているが……。
 その戦いとは、どんなものか。

五官を手足を 切り離していって

 が、おそろしい。
 私の「肉体」感覚では、五官は(そして五感は)融合し、一つになり、変形し、もう一度生成されて(再生して)、「意識」に揺さぶるものだが、岬は、五官を融合させるのではなく、分離させる。分離させながら、それぞれを輝かせる。そして、その果てにあるものを見ようとしている。
 五官を分離したあと、それは

人なのか 部分なのか
休止なのか 停止なのか

 わからないけれど、その分離されたものは、確かに、「独立」して存在し得る。「布の夜」「ふっさりと・覆う」のような、微妙なずれとしてだけではなく、「ぎゃるり ぎゃらろ ぎゃらりおお」のような輝く音そのものとしても。

 何が岬を動かしているか。
 (四月、もえいづ)には、次の行がある。

ただ 在る よきもの
そのために 官能を全部ひらき
悪路を隘路を むしろ えらびとって

 この意識の「黒」(闇)は、「わざと」選びとられたものである。そして、「わざと」黒をえらびながら、黒のなかの「輝き」、暗くなることで輝くなにかと向き合おうとしている。暗くなることで輝く何かを「独立」させようとしている。
 そんなことを感じさせる詩である。



 山口賀代子「ともだち」は「股関節脱臼でまっすぐ歩くことのできなかった」時代、森の木漏れ日や風を「ともだち」として生きてきたと語る詩である。

こどものころ
ともだちは
そこかしこにいて
木漏れ日からも
空からも降ってきた
(略)
わたしはみずをのむ
まるめた手のひらに
みずをためそのすくないみずを
ごくりとのむ
耳もとで葉がさわさわとゆれ
風がわたしをなぶっていく
風もわたしのともだち

わたしにはともだちがおおい

 この「明るい」ことばの奥に、ふと岬の書いた「黒・意識」がよぎるのを感じる。そんなふうに受け止めてはいけないのかもしれないが、そう受け止めた方がいいのかもしれない。

みずをためそのすくないみずを

 という1行に動く意識。1字空きもなく、「みずをため」ときっちり結びつけて「そのすくないみずを」と言い換える時、「ともだちがおおい」の「おおい」とは逆の、限定されたものたちとの深い深いつながりがふいに襲いかかってくる。この深いつながりがあれば、ともだちの「多さ」は何の意味もない。



桜病院周辺
岬 多可子
書肆山田

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『田村隆一全詩集』を読む(78)

2009-05-08 01:32:53 | 田村隆一
 「爪」というタイトルでくくられた一群の作品。その冒頭の「誘惑」は不思議な作品である。小林秀雄と中原中也が登場する。「中原中也の思ひ出」の有名な一節が引用されている。海棠の花を眺めている。小林秀雄がなにごとか考えている。それに対して、中也が「もういいよ、帰ろうよ」と言う場面である。田村は、小林のことばを引用するにあたって、1行省略している。

 「花びらは死んだ様な空気の中を、まつ直に間断なく、落ちてゐた。
  樹蔭の地面は薄桃色にべつとりと染まつてゐた。あれは散るのぢやない、
  何んといふ注意力と努力、
  驚くべき美術、危険な誘惑だ」(小林秀雄)

 「あれは散るのぢやない、」と「何んといふ注意力と努力、」の間には、ほんとうは「散らしてゐるのだ、一とひら一とひら散らすのに、屹度順序も速度も決めてゐるに違ひない、」という1行がある。
 (私は、「田村隆一全詩集」は思潮社版2000年08月26日発行をテキストに使用している。1087ページが該当個所。「小林秀雄全集」は新潮社版昭和53年06月25日発行をつかっている。)
 なぜだろう。なぜ、省略したのだろう。

 引用のあと、田村は書いている。

肉眼を形成するために
人はこの世に生れ
この世によって育てられる せっかく
肉眼が誕生したというのに
「危険な誘惑」しか見られないのは
すごいパラドックスだ。

 田村は「散らしてゐるのだ」に「肉眼」を感じたはずである。そして、その「肉眼」が、そのあと「危険な誘惑」を見てしまったことに対して「パラドックス」と言っている。「散らしてゐる」から「危険な誘惑」までの「間」について、感じるところがあったはずなのである。それなのに、そこを省略している。
 なぜなのだろう。

 また、田村が引用していることばは、小林の文章を読むかぎりは、小林が考えたことであって、口には出してはいない。けれど、中也は、小林の様子をみて何かを感じ「もういいよ、帰ろうよ」と言ったのだ。
 そのとき、中也が見たものは何なのだろうか。
 そして、それを田村は、どう考えていたのか。

視力があっても「危険な誘惑」を感受できない「うつろな眼」は
世界中に充満していて

猫の眼のほうが
肉眼とでも云いたくなる

(略)

老樹が倒れたそのあとに
若木がすっきり立っていて
花びらは音もなく散っていたが
「散らす」までにはもっと時間がかかるだろう
それまでに
ぼくの肉眼が生れるかどうか いまさら
眼科へ行ってもはじまるまい

 「散る」ではなく「散らす」を見るのが「肉眼」。しかし、そのとき「もういいよ、帰ろうよ」と言った中也は? 中也は「肉眼」をもたなかったのか。それとも、「散らす」のあと、「危険な誘惑」までことばを動かしてしまう小林に対して、それは「肉眼」ではないと感じていたのか。

 ことばは、ことば自体の力で運動してしまう。「危険な誘惑」は「散らす」ということばが呼び込んでしまった「錯覚」かもしれない。--そういう批判を、田村は、ほんとうは書きたかったのかもしれない。
 「爪」という短い作品。

どうして
爪ばかりのびるのか 爪を
切るばかりが人生か
死者になった直後にも爪だけはのびるそうだ
爪がのびなくなったら
「脳死判定」よりも正確ではないか
愚者はあえて名医に意見具申する
わが爪よ
今日も切らなくちゃ

 「危険な誘惑」は「爪」のようなものである。それは「死者」のあと(「肉体」でなくなってしまったもの)、なぜかのびてきてしまうものである。

 「肉眼」がものを見ることと、概念が自律して運動してしまうことは、どこかで決定的に違う。そのことを田村は書きたいのだと思う。「肉眼」が「散らす」を見たのに、そのあと概念はかってに「危険な誘惑」まで暴走してしまう。その結果、「肉眼」で見たものは、どこかへ忘れ去られてしまう。
 田村は、あえて、その「忘れ去られた1行」を復権させるために、あえて省略したのかもしれない。書かないことによって、読者に対して、何か変だと感じさせたかったのかもしれない。小林秀雄のことばを読み直すように、そして中也とのやりとりを読み直すように提言しているのかもしれない。

 「肉眼」がとらえる具体的な「もの」「ものの動き」と「概念」との境目--それを直感的にみてしまい、「概念」には行かない、というのが詩の理想かもしれない。
 田村が書きたいのは、そういうものかもしれない。



花の町
田村 隆一,荒木 経惟
河出書房新社

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