詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷合吉重「こういう書き方を、君はきらうはずだが」

2009-05-18 10:12:27 | 詩(雑誌・同人誌)
谷合吉重「こういう書き方を、君はきらうはずだが」(「スーハ!」5、2009年05月10日発行)

 谷合吉重「こういう書き方を、君はきらうはずだが」。「君」がだれであるか知らないが、私は、こういう書き方が嫌いだ。「こういう書き方」というのは、「君」という人間がきっとこうだという前提でことばを動かす書き方だ。ことばを動かすことで自分が動く、というのではなく、相手を動かす。動かしうる、と思って、ことばを動かす方法である。
 「こういう方法」を私は「嫌い」である。そして、「嫌い」と感じる理由は、そういうことばに対する向き合いかたが、「汚い」と感じるからだ。「他人」をこうだときめつけ、その領域へ他人を追い込むことで、自分を守る。そういう方法を、私は「汚い」と感じる。「汚い」ものは「嫌い」。私は単純である。
 しかし。
 この「汚さ」は悪くはない。「汚さ」をどれだけ貫けるか。ことばにとって問題なのは、それだけである。運動の領域だけが問題である。(ことばの「射程」という言い方もある。)私が好き・嫌いと感じることと、そのことばがもっている「可能性」は別問題であり、そこに「可能性」があれば、それは詩である。
 
沖野よぅ。という問いかけ方は君野氏にあるからしない
かなりむかし、下北沢大丸ピーコック近くの踏切を志し低くくぐり、
君に呈示したぼくの小説はもう時効になったかい?

 この書き出しの3行。「沖野よぅ。という問いかけ方は君野氏にあるからしない」といいながら、「沖野よぅ」と呼びかけている。この行為のなかにある「矛盾」。自分で呼びかけながら、こういう呼びかけかたは「君の」呼びかけ方である、と断定し、自分のしていることを「宙吊り」にする。「君」と「ぼく」との「あいだ」にぶら下げてしまう。
 その「あいだ」は、今風にいえば「空気」ということになるのだろう。
 谷合のことばは、いわば、そういう「空気」を汚染させ、その「濁り具合」を詩として呈示するというものである。
 冒頭の3行では、「ぼくの小説は時効になったかい?」が一番重要な要素のように見えるけれど、それは「空気」には触れていない。だから、それはこの詩では重要ではない。他のことばを動かすための「方便」である。
 冒頭の3行で、谷合がこころを砕いているのは「踏切を志し低くくぐり、」の「志し低く」である。そのことばに「空気」がある。「ぼく」が「肉体」から吐き出したものが、どんよりと漂っている。踏切をくぐるとき「志し」が「低い」か「高い」かなど、なんの意味もない。電車が来るか、来ないか。はねられるか、はねられないか、が問題である。踏切を渡るときには、志の高低など、「ぼく」の体のなかにとじこめておいていいもの、とじこめておかなねければ、社会が動いていかない。(事故が起きれば、それによって人が影響を受ける。)そういうほんらい、「肉体」のなかにとどめおくべくきものを、わざと吐き出し、「空気」を汚す。汚して見せる。そうして、その瞬間の、「君」の反応をみている「ぼく」。「空気」が「君」の反応によって、どうかわるか、それを見ようとしている「ぼく」。

 「空気」を描く。--それは「情緒」が個人のものではなく、「空気」に属するものだという判断があるからだと思う。そして、そのとき「空気」は「もの」ではなく、ただ「肉体」から吐き出された「口臭」で汚れつづける。

時代の方がぼくたちより逃げ足速く
ぼくのこころはすでに手におえない石をかかえていて
あふれるほどの友情を感じながらひとりはなれて
新宿ゴールデン街をさまよえば

 「時代の逃げ足」「手におえない石」「あふれるほどの友情」。何もない。具体的なものは何もない。具体的なことをいわないで、「空気を読め」と迫るずるさ。「ひとりはなれて」と偽装される孤独。「ぼく」をただひとりの純粋の「被害者」のように偽装する。そのための「口臭」。「肉体」から吐き出された、ことば。ことば。ことば。

だから、東北沢から下北沢への通路(パサージュ)をもう
忘れてしまったといっても怒らないでくれ

 「東北沢」「下北沢」という地名が喚起する「周辺」という意識、「パサージュ」という用語(わざと「ルビ」につかう手法)--それも「肉体」から吐き出された「口臭」である。汚いものを、全部吐き出して、「肉体」のなかの「空気」だけは新鮮にしておく。ずるくて、「汚い」、ことばの運動。
 この手法(ことばの運動)で作品が20篇、一冊の詩集ができれば、そこに詩が成立すると思う。おもしろい詩集になると思う。
 私は不勉強で(いい加減な性格なので?)、谷合の詩をこれまで読んできたかどうか、よくわからない。はじめて、読んだ--という印象がある。
 「スーハ!」には、谷合は、もう1篇「微動だにしてはならない」という作品を書いているが、「空気の汚染」という感じは弱い。

朝まだき、ゼラチン状の奇蹟
わが植物に滴るのは
翼を折られ恥じらう言葉たちの痛み
三〇〇〇光年に群れるものたちの後姿
ねむりとうつつのあわいで
ライフルを持ち乳房の厚い扉を撃つ

 2行目の「わが植物」の「わが」、5行目の「あわい」に「空気」への意志を感じるが、この詩では「空気」が「物語」と混同されている感じがして、とても残念である。
 2篇の詩を読むと、谷合がめざしているのはどちらなのか、よくわからない。「汚い空気」の方だったら、とても楽しみである。「汚い」ものは嫌いだけれど、嫌いだからこそ、また読んでみたい。どこまで嫌いと言い続けられるか、それを知りたい。


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『田村隆一全詩集』を読む(88)

2009-05-18 01:08:23 | 田村隆一

 「蟻」。この作品にはたしかに「蟻」が描かれている。それはそれでおもしろいが、私は、その「蟻」が登場するまでがとても好きだ。

秋は
あらゆるものを透明にする
神の手もぼくの視野をさえぎることはできない
小さな庭の諸生物も
鈴虫の鳴き声とともに地下に消えた

 この書き出しは「蟻」とは無縁である。そればかりか「蟻」を遠ざけている。「秋」は「蟻」の季節ではない。
 どうして、「蟻」が登場するのか。
 秋、日が落ちてしまったら、田村はひとりで旅に出る--と書く。そこから、ことばが動いていく。

ぼくの一人旅とは
まずポーカー・テーブルのスタンドに灯をつけて
三人の椅子にむかって
カードをくばるだけ
それから赤ワインをグラスにつぎ
おもむろに自分のカードを眺める 白波に消えた足跡の砂浜
グリーン・リバーという混濁した川が流れているロッキー山脈の小さな町
無数の生物とその毒素を多量に排出する南アフリカ
星座をたよりに航行する深夜の貨物船

ぼくは半裸体の漁師のペテロ
ぼくは廃屋の三階建てをたった一人でツルハシをふるっている青年
ぼくはペスト コレラ エイズ まだ持ち札はたくさんある
ぼくはマドロス・パイプをくわえた貨物船の船長
ぼくは熱帯にも寒帯にもコロニイをもっている蟻
蟻 おお わが同類よ
宇宙から観察したら 身長3ミリの蟻と
一七五センチのぼくとたいして変らない

 「蟻」にたどりつくまでに、田村は、さまざまな場所を通る。複数の人間になる。そして、ペスト、コレラ、エイズという病気になる。複数の存在になる。複数の存在になりながら、同時に、その存在を捨てる。一瞬のうちに、その生を生きて、それを捨てる。その過激な運動の果てに、「蟻」にたどりつく。
 したがって、そのとき、「蟻」とはまた、さまざまな生を生きてしまった何かなのである。「蟻」という存在のなかに、人間の複数の可能性を田村はみている。
 こういうありかたを「肉眼」というこれまでの田村の表現を借りて言い直せば「肉・蟻」というものが、ここでは描かれているのだ。
 田村が「蟻」を描くことで、その「蟻」は「肉・蟻」になる。「肉・蟻」から世界を見ると、「肉眼」で見た世界が見える。
 ここに、田村の詩のひとつの秘密がある。
 田村は、ぼくを描くが同時に、ぼく以外も描く。「他人」を描く。詩のなかで「他人」になる。それは、自分の「肉眼」ではなく、「他人」の「肉眼」で世界を見るためである。「他人」の「肉眼」こそが、田村自身の「肉眼」を育ててくれる。

全世界に分布している蟻は一万種 人種の総人口よりはるかに多い

ギリシャ神話では
アイギナ島の住民が疫病で全滅したとき
ゼウスは蟻をその住民に変えたという
さよなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの
人間の世紀末
1999

 ゼウスが「蟻」を人間に変えたのなら、田村はことばで「ぼく」を「蟻」に変えるのだ。そして「肉・蟻」になるのだ。それは「肉眼」よりももっと、「未分化」の「生」である。

蟻と人間だけが一億二千万年も生きながらえてこれたのは

という行を手がかりにするならば、その「一億二千万年」の「いのち」そのものになる。「蟻」になることによって。そのとき「世紀末」はひとつの「断崖」である。そこには半裸体のペテロもツルハシをふるう青年もペストもコレラもエイズも同時に存在する。


青いライオンと金色のウイスキー (1975年)
田村 隆一
筑摩書房

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