谷合吉重「こういう書き方を、君はきらうはずだが」(「スーハ!」5、2009年05月10日発行)
谷合吉重「こういう書き方を、君はきらうはずだが」。「君」がだれであるか知らないが、私は、こういう書き方が嫌いだ。「こういう書き方」というのは、「君」という人間がきっとこうだという前提でことばを動かす書き方だ。ことばを動かすことで自分が動く、というのではなく、相手を動かす。動かしうる、と思って、ことばを動かす方法である。
「こういう方法」を私は「嫌い」である。そして、「嫌い」と感じる理由は、そういうことばに対する向き合いかたが、「汚い」と感じるからだ。「他人」をこうだときめつけ、その領域へ他人を追い込むことで、自分を守る。そういう方法を、私は「汚い」と感じる。「汚い」ものは「嫌い」。私は単純である。
しかし。
この「汚さ」は悪くはない。「汚さ」をどれだけ貫けるか。ことばにとって問題なのは、それだけである。運動の領域だけが問題である。(ことばの「射程」という言い方もある。)私が好き・嫌いと感じることと、そのことばがもっている「可能性」は別問題であり、そこに「可能性」があれば、それは詩である。
この書き出しの3行。「沖野よぅ。という問いかけ方は君野氏にあるからしない」といいながら、「沖野よぅ」と呼びかけている。この行為のなかにある「矛盾」。自分で呼びかけながら、こういう呼びかけかたは「君の」呼びかけ方である、と断定し、自分のしていることを「宙吊り」にする。「君」と「ぼく」との「あいだ」にぶら下げてしまう。
その「あいだ」は、今風にいえば「空気」ということになるのだろう。
谷合のことばは、いわば、そういう「空気」を汚染させ、その「濁り具合」を詩として呈示するというものである。
冒頭の3行では、「ぼくの小説は時効になったかい?」が一番重要な要素のように見えるけれど、それは「空気」には触れていない。だから、それはこの詩では重要ではない。他のことばを動かすための「方便」である。
冒頭の3行で、谷合がこころを砕いているのは「踏切を志し低くくぐり、」の「志し低く」である。そのことばに「空気」がある。「ぼく」が「肉体」から吐き出したものが、どんよりと漂っている。踏切をくぐるとき「志し」が「低い」か「高い」かなど、なんの意味もない。電車が来るか、来ないか。はねられるか、はねられないか、が問題である。踏切を渡るときには、志の高低など、「ぼく」の体のなかにとじこめておいていいもの、とじこめておかなねければ、社会が動いていかない。(事故が起きれば、それによって人が影響を受ける。)そういうほんらい、「肉体」のなかにとどめおくべくきものを、わざと吐き出し、「空気」を汚す。汚して見せる。そうして、その瞬間の、「君」の反応をみている「ぼく」。「空気」が「君」の反応によって、どうかわるか、それを見ようとしている「ぼく」。
「空気」を描く。--それは「情緒」が個人のものではなく、「空気」に属するものだという判断があるからだと思う。そして、そのとき「空気」は「もの」ではなく、ただ「肉体」から吐き出された「口臭」で汚れつづける。
「時代の逃げ足」「手におえない石」「あふれるほどの友情」。何もない。具体的なものは何もない。具体的なことをいわないで、「空気を読め」と迫るずるさ。「ひとりはなれて」と偽装される孤独。「ぼく」をただひとりの純粋の「被害者」のように偽装する。そのための「口臭」。「肉体」から吐き出された、ことば。ことば。ことば。
「東北沢」「下北沢」という地名が喚起する「周辺」という意識、「パサージュ」という用語(わざと「ルビ」につかう手法)--それも「肉体」から吐き出された「口臭」である。汚いものを、全部吐き出して、「肉体」のなかの「空気」だけは新鮮にしておく。ずるくて、「汚い」、ことばの運動。
この手法(ことばの運動)で作品が20篇、一冊の詩集ができれば、そこに詩が成立すると思う。おもしろい詩集になると思う。
私は不勉強で(いい加減な性格なので?)、谷合の詩をこれまで読んできたかどうか、よくわからない。はじめて、読んだ--という印象がある。
「スーハ!」には、谷合は、もう1篇「微動だにしてはならない」という作品を書いているが、「空気の汚染」という感じは弱い。
朝まだき、ゼラチン状の奇蹟
わが植物に滴るのは
翼を折られ恥じらう言葉たちの痛み
三〇〇〇光年に群れるものたちの後姿
ねむりとうつつのあわいで
ライフルを持ち乳房の厚い扉を撃つ
2行目の「わが植物」の「わが」、5行目の「あわい」に「空気」への意志を感じるが、この詩では「空気」が「物語」と混同されている感じがして、とても残念である。
2篇の詩を読むと、谷合がめざしているのはどちらなのか、よくわからない。「汚い空気」の方だったら、とても楽しみである。「汚い」ものは嫌いだけれど、嫌いだからこそ、また読んでみたい。どこまで嫌いと言い続けられるか、それを知りたい。
谷合吉重「こういう書き方を、君はきらうはずだが」。「君」がだれであるか知らないが、私は、こういう書き方が嫌いだ。「こういう書き方」というのは、「君」という人間がきっとこうだという前提でことばを動かす書き方だ。ことばを動かすことで自分が動く、というのではなく、相手を動かす。動かしうる、と思って、ことばを動かす方法である。
「こういう方法」を私は「嫌い」である。そして、「嫌い」と感じる理由は、そういうことばに対する向き合いかたが、「汚い」と感じるからだ。「他人」をこうだときめつけ、その領域へ他人を追い込むことで、自分を守る。そういう方法を、私は「汚い」と感じる。「汚い」ものは「嫌い」。私は単純である。
しかし。
この「汚さ」は悪くはない。「汚さ」をどれだけ貫けるか。ことばにとって問題なのは、それだけである。運動の領域だけが問題である。(ことばの「射程」という言い方もある。)私が好き・嫌いと感じることと、そのことばがもっている「可能性」は別問題であり、そこに「可能性」があれば、それは詩である。
沖野よぅ。という問いかけ方は君野氏にあるからしない
かなりむかし、下北沢大丸ピーコック近くの踏切を志し低くくぐり、
君に呈示したぼくの小説はもう時効になったかい?
この書き出しの3行。「沖野よぅ。という問いかけ方は君野氏にあるからしない」といいながら、「沖野よぅ」と呼びかけている。この行為のなかにある「矛盾」。自分で呼びかけながら、こういう呼びかけかたは「君の」呼びかけ方である、と断定し、自分のしていることを「宙吊り」にする。「君」と「ぼく」との「あいだ」にぶら下げてしまう。
その「あいだ」は、今風にいえば「空気」ということになるのだろう。
谷合のことばは、いわば、そういう「空気」を汚染させ、その「濁り具合」を詩として呈示するというものである。
冒頭の3行では、「ぼくの小説は時効になったかい?」が一番重要な要素のように見えるけれど、それは「空気」には触れていない。だから、それはこの詩では重要ではない。他のことばを動かすための「方便」である。
冒頭の3行で、谷合がこころを砕いているのは「踏切を志し低くくぐり、」の「志し低く」である。そのことばに「空気」がある。「ぼく」が「肉体」から吐き出したものが、どんよりと漂っている。踏切をくぐるとき「志し」が「低い」か「高い」かなど、なんの意味もない。電車が来るか、来ないか。はねられるか、はねられないか、が問題である。踏切を渡るときには、志の高低など、「ぼく」の体のなかにとじこめておいていいもの、とじこめておかなねければ、社会が動いていかない。(事故が起きれば、それによって人が影響を受ける。)そういうほんらい、「肉体」のなかにとどめおくべくきものを、わざと吐き出し、「空気」を汚す。汚して見せる。そうして、その瞬間の、「君」の反応をみている「ぼく」。「空気」が「君」の反応によって、どうかわるか、それを見ようとしている「ぼく」。
「空気」を描く。--それは「情緒」が個人のものではなく、「空気」に属するものだという判断があるからだと思う。そして、そのとき「空気」は「もの」ではなく、ただ「肉体」から吐き出された「口臭」で汚れつづける。
時代の方がぼくたちより逃げ足速く
ぼくのこころはすでに手におえない石をかかえていて
あふれるほどの友情を感じながらひとりはなれて
新宿ゴールデン街をさまよえば
「時代の逃げ足」「手におえない石」「あふれるほどの友情」。何もない。具体的なものは何もない。具体的なことをいわないで、「空気を読め」と迫るずるさ。「ひとりはなれて」と偽装される孤独。「ぼく」をただひとりの純粋の「被害者」のように偽装する。そのための「口臭」。「肉体」から吐き出された、ことば。ことば。ことば。
だから、東北沢から下北沢への通路(パサージュ)をもう
忘れてしまったといっても怒らないでくれ
「東北沢」「下北沢」という地名が喚起する「周辺」という意識、「パサージュ」という用語(わざと「ルビ」につかう手法)--それも「肉体」から吐き出された「口臭」である。汚いものを、全部吐き出して、「肉体」のなかの「空気」だけは新鮮にしておく。ずるくて、「汚い」、ことばの運動。
この手法(ことばの運動)で作品が20篇、一冊の詩集ができれば、そこに詩が成立すると思う。おもしろい詩集になると思う。
私は不勉強で(いい加減な性格なので?)、谷合の詩をこれまで読んできたかどうか、よくわからない。はじめて、読んだ--という印象がある。
「スーハ!」には、谷合は、もう1篇「微動だにしてはならない」という作品を書いているが、「空気の汚染」という感じは弱い。
朝まだき、ゼラチン状の奇蹟
わが植物に滴るのは
翼を折られ恥じらう言葉たちの痛み
三〇〇〇光年に群れるものたちの後姿
ねむりとうつつのあわいで
ライフルを持ち乳房の厚い扉を撃つ
2行目の「わが植物」の「わが」、5行目の「あわい」に「空気」への意志を感じるが、この詩では「空気」が「物語」と混同されている感じがして、とても残念である。
2篇の詩を読むと、谷合がめざしているのはどちらなのか、よくわからない。「汚い空気」の方だったら、とても楽しみである。「汚い」ものは嫌いだけれど、嫌いだからこそ、また読んでみたい。どこまで嫌いと言い続けられるか、それを知りたい。