監督 ジョナサン・デミ 出演 アン・ハサウェイ、ローズマリー・デウィット、ビル・アーウィン
ジョナサン・デミといえば「羊たちの沈黙」「フィラデルフィア」が印象的だ。どちらも人間の「心理」を追いかけている、ととらえれば、この「レイチェルの結婚」ともつながる。人のこころは、いつ、どんなふうに動くか。そのきっかけは何か。その揺れ動きは他人にどう影響するのか……。そして、この映画は、その揺れ動きが「羊たちの沈黙」や「フィラデルフィア」とは違って、ストーリー以外のものを描き出す。
この映画にはいくつもの興味深いシーンがある。
姉(レイチェル)の結婚式・披露宴のテーブルの席を決めている。妹(キム)の席がなかなか決まらない。薬物依存症で、みながもてあましている。そのうち、レイチェルが怒りだす。父に向かって「自分の結婚式なのに、自分の意見が通らない。父はキムのことばかり気にかけている」。そこにキムが加わり、けんかが白熱する。そして、突然、どんな拍子でだったか私は忘れてしまったが、レイチェルが「妊娠している」と口走る。そのとたん、けんかは一転、祝福に変わる。ただし、キムは置き去りにして。そのことに対して、キムは「こんなやり方はずるい」と怒る。「私のことを話していたのに、妊娠を持ち出すことで話題をずらすなんて」と。向き合うべき問題があるのに、それから目をそらすのは許せない、というのである。
これは、そして、この映画の全体のテーマでもある。
キムを中心にして、この家族には「問題」がある。キムが引き起こした「事件」が尾を引いている。キムには薬物で気分が高揚しているときに、車の運転を誤り、川に転落した。そして、その車には弟が乗っていたのだが、彼を救えなかった。弟の死が、家族全体に影を落としている。キム自身にも大きく影響している。
わかっているけれど、家族の誰もが、そのことと真剣に向き合えない。悲しみと、怒りと、許さなければならないという思いが絡み合って、どうしていいかわからないのである。周囲の人も、それは結局「家族の問題」だからと、距離をとってしまう。
「問題」と直接向き合うのではなく、遠ざける。そこから視線を逸らせる。そうやって、日々を過ごしていく。そのうちに、どうすることもできない「思い」が蓄積していく。ますます「問題」と直面できなくなる。悪循環である。
キムは、自分の依存症を語るのに、嘘をついている。叔父(?)に性的虐待を受けた、そのため姉は摂食障害になり、自分は薬物依存症になった。そして、いま、こうやってここにいる。依存症を克服しようとしているというようなことを依存症の集いで「告白」し、参加者を感動させる。その嘘を知り、姉は、自分自身と向き合わず、ごまかしている、と激怒する、という具合である。キムほどではないが、誰もが、「問題」を遠ざけることで、自分を、そして自分のまわりを「安泰」にさせたいのである。
この映画は、そういうこころの絡み合い、揺れ動き、ふいに爆発する怒り、悲しみを、解決策をしめさず、ただただ具体的に具体的につみかさねていく。そのつみかさねかたがとてもていねいで、スクリーンにぐいぐいひきこまれていく。そして、それはストーリー以外のものを描き出す。ストーリーにならないものを描き出す。
結婚式という集まりがうまくつかわれている。だれもかれもが集まってくる。そこにはさまざまな思いが交錯する。一人一人の思いは違う。違う人がいるということが不自然ではない「場」が結婚式なのである。そして、そこで繰り広げられる「ことば」のやりとり、「感情」のやりとりは、ストーリーではなく、いわば一種の「音楽」である。あるテーマがある。それに次々と変奏が加わりうねっていく音楽である。
この映画では、登場人物を「音楽」にかかわらせることで、人と人との交流が「音楽」であることを、非常に強く打ち出している。それぞれの人はそれぞれの楽器。そして、その楽器には出せる音と出せない音がある。あるときは「ノイズ」も出す。けれど、それが組合わさると、不思議な「音楽」になる。一人の音を別の人の音が補強する。ひとつの音から別の新しい音が呼び覚まされる。その運動はどこへゆくかわからない。「即興」がそこに加わり、ただ「音」の運動を加速させるだけなのである。その瞬間瞬間、誰もがみんな愉しいわけではないかもしれないが、そういう「陰り」も含めて、「音楽」自体は豊かになっていく。他人の「音」を聴き、自分にどんな「音」が出せるのかさぐりながら、「音楽」そのものを生きていく--それが人生。
この映画の登場人物たち本人にとっては「愉しい音楽」ではない部分もあるかもしれない。けれど、その豊かな音楽に触れて、映画を見ている私自身は、とても幸福だった。不思議な言い方になるが、どんなときでも人間は生きていけるのだ、という感じが強く伝わってくるのである。実感できるのである。悲しみも、怒りも、絶望も、歓びも、それをただぶちまける。それは、いろいろな形で他人に受け止められ、さまざまに「変奏」されるのだが、そういう「変奏」の全体として、人生は、きっと「音楽」になる。そんな感じがとても強くこころに残る。
イーストウッドの「グラン・トリノ」は傑作だった。「チェンジリング」も傑作である。けれど、このジョナサン・デミの「レイチェルの結婚」はそれを上回る。この映画には、人間の「豊かさ」がある。
「グラン・トリノ」や「チェンジリング」は、ストーリーをとおして、そこで起きたことを「愛」とか「希望」とか、シンプルなことばに昇華してしまう。
それに対して、「レイチェルの結婚」は、「純粋さ」ではなく、「純粋さ」を叩き壊しながら「不純」さえも輝かせる。それは、いうなればストーリーから逸脱してゆく「豊かさ」である。「世界」にはいくつも「ストーリー」がある。けれど、「世界」はひとつの「ストーリー」ではない。(ひとつの「ストーリー」を追い求めるとき、「全体主義」というとんでもないものが登場するかもしれない。)人間には、それぞれ「ストーリー」があるのはもちろんだが、人間は自分自身の「ストーリー」からも逸脱していく自由をもっているはずである。この映画は、そういう人間の可能性をも描いている。逸脱しながら、人間は「豊か」になっていく。そういうことを感じさせてくれる映画である。
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