山本美代子『夜神楽』(3)(編集工房ノア、2009年04月01日発行)
「ふるさと」という作品。その冒頭。
これは刀鍛冶、製鉄(たたら)のことを描いているのかもしれない。そして、「阿吽の呼吸」とは、その作業のときのリズムを指しているのかもしれない。しかし、私は、それとは違うことを感じてしまった。
いのちのリレーというか、血のつながりを考えるとき、私はどうしても「母」をとおして考えてしまうが、あ、そうか、父の側(男の側)にも、血のつながりはあったのか、とふと思った。
そして、その父から子への交代。そこに、山本は「阿吽の呼吸」を感じている。その「阿吽の呼吸」ということばに、「つながり」の強さを感じた。「阿吽の呼吸」とは別個の存在の呼吸なのだが、別個であるからこそ「阿吽」という関係が成り立つ。(ひとりでは「阿吽」はありえない。)そして、別個であるからこそ、その「阿吽」の関係が濃密になる。「阿」と「吽」で一対になる。そのときの「見えない意識」。それを山本はじっと見ている。
この詩にはつづきがある。私は、わざと、「つながっている」までで引用をいったん中断したのだが、つづきは……。
これも、蹈鞴の作業の継承を描いているといえばそれだけなのかもしれないが、「男たちの修羅」ということばが、そういった「労働」の継承以外のことを感じさせる。
父と子の争い。そして、交代。「阿吽の呼吸」。それは、静かに、無言で、「肉体」が反応し合って、はじめて成り立つ。
「ふるさと」というのは、そういう「阿吽の呼吸」を濃密にする。「血」をつなぎ、継承する作業が、修羅と阿吽の呼吸で、男たちのあいだでつながっていく。「父」の「女」を「子」が奪っていく。奪い・奪われる一瞬は「阿吽の呼吸」である。それが、いまもあるかどうかは問題ではない。そういう交代劇が、「肉体」のなかにひそんでいる。それを山本は見つめ、そういう劇が存在する「場」が「ふるさと」だといっているのだ。
あ、そうか、そういう見方があるのか。私は、びっくりしてしまった。「いのち」というものは、女と男が協力して「つなぐ」ものだけれど、その背後には、また男の密約のようなものもある。「阿吽の呼吸」がある。そういう「阿吽の呼吸」の「場」が「ふるさと」だ。
このとき「ふるさと」とは、具体的な地名であると同時に、ひとつの「場」を超えて、「神話」につながる「場」でもある。
「女たちの溟い海」は「子宮」に、「短刀」は「ペニス」に見える。「喪われた時間」とは「阿吽」の「阿」と「吽」の「間」のことに思える。それはほんとうは「喪われ」てはいない。「間」があるから「阿吽」なのだが、それをあえて「喪われている」と否定することで、「時間」を動かしている。過去から、未来へ。
「肉体」には「過去」も「未来」もない。「いま」しかない。けれど、「人間」の「いのち」を「歴史」のなかで眺めるなら、たしかに「過去」や「未来」はあると考えた方が考えを押し進めるとき都合がいい。(簡単にものごとを考えることができる。)「阿」「吽」はつながっていて、分離できないもの、まじりあっているもの、融合したものなのだが、「間」をあえて導入した方が、ここまでが「阿」(たとえば「過去」)、ここからが「吽」(たとえば「未来」)と「図式化」するのには都合がいい。
私は、たぶん、とても奇妙なことを書いているのだと思う。山本の詩から逸脱して、かってに自分の考えていることを書いているだけなのかもしれない。誤読を拡大しているだけなのかもしれない。--けれど、誤読こそが、詩を読む楽しみ(文学の楽しみ)なのだから、もう少し、誤読を重ねる。
「血のつながり」(いのちのちながり)を、私は、長い間、女(子宮)と関係づけて考えてきた。子宮のなかで育まれるいのち。子宮のなかで育まれて、育てられていくいのち。たしかにそれはそうなのだが、女のみでは、子宮のみでは、いのちはつながらない。そこには男の介入がある。そして、そこには男の死がある。女たちは、子宮のなかでいのちを育て、そこから「生まれ変わる」。それに対して、男たちはただ死んでゆく。死んでゆくことが「阿吽」の呼吸を活かすことなのだ。
女性から見れば、そういう「人間の歴史」があるのかもしれない。そう見えるのかもしれない。男は死んでゆけ、女はいつまでも生まれ変わってやる--というと、たぶん、いいすぎになるのだろうけれど、そんなふうに見える世界を、山本は、わざと「男の阿吽の呼吸」を前面に出すことで、その裏側に、隠しているのかもしれない。
「ふるさと」という作品。その冒頭。
わずかな種火を求めて ふるさとへ降りてい
く そこでは 近親憎悪の うすい血をそそ
ぎながら ひとふりの短刀が 鍛えられてい
る
赤く溶けて ゆがんだ鉄に 向かい合って
重い槌を 打ち下ろしている者がいる
阿吽の呼吸でつなぐ 父と子 祖父 曾祖父
はるかずっとむこうまで つながっている
これは刀鍛冶、製鉄(たたら)のことを描いているのかもしれない。そして、「阿吽の呼吸」とは、その作業のときのリズムを指しているのかもしれない。しかし、私は、それとは違うことを感じてしまった。
いのちのリレーというか、血のつながりを考えるとき、私はどうしても「母」をとおして考えてしまうが、あ、そうか、父の側(男の側)にも、血のつながりはあったのか、とふと思った。
そして、その父から子への交代。そこに、山本は「阿吽の呼吸」を感じている。その「阿吽の呼吸」ということばに、「つながり」の強さを感じた。「阿吽の呼吸」とは別個の存在の呼吸なのだが、別個であるからこそ「阿吽」という関係が成り立つ。(ひとりでは「阿吽」はありえない。)そして、別個であるからこそ、その「阿吽」の関係が濃密になる。「阿」と「吽」で一対になる。そのときの「見えない意識」。それを山本はじっと見ている。
この詩にはつづきがある。私は、わざと、「つながっている」までで引用をいったん中断したのだが、つづきは……。
阿吽の呼吸でつなぐ 父と子 祖父 曾祖父
はるかずっとむこうまで つながっている
男たちの修羅 燃え盛る炉 飛び散る火花
鞴の熱い風 火の過剰 火の爆発の寂しさ
これも、蹈鞴の作業の継承を描いているといえばそれだけなのかもしれないが、「男たちの修羅」ということばが、そういった「労働」の継承以外のことを感じさせる。
父と子の争い。そして、交代。「阿吽の呼吸」。それは、静かに、無言で、「肉体」が反応し合って、はじめて成り立つ。
「ふるさと」というのは、そういう「阿吽の呼吸」を濃密にする。「血」をつなぎ、継承する作業が、修羅と阿吽の呼吸で、男たちのあいだでつながっていく。「父」の「女」を「子」が奪っていく。奪い・奪われる一瞬は「阿吽の呼吸」である。それが、いまもあるかどうかは問題ではない。そういう交代劇が、「肉体」のなかにひそんでいる。それを山本は見つめ、そういう劇が存在する「場」が「ふるさと」だといっているのだ。
あ、そうか、そういう見方があるのか。私は、びっくりしてしまった。「いのち」というものは、女と男が協力して「つなぐ」ものだけれど、その背後には、また男の密約のようなものもある。「阿吽の呼吸」がある。そういう「阿吽の呼吸」の「場」が「ふるさと」だ。
このとき「ふるさと」とは、具体的な地名であると同時に、ひとつの「場」を超えて、「神話」につながる「場」でもある。
低い軒の下で 一本のローソクをともす 消
えがての わずかなぬくもり それを 両手
で囲って 水の上に移すと 魂のようにあか
るんで 灯籠は 川を流れてゆく 女たちの
溟い海まで
土塀のように崩れている 喪壊われた時間の上
に やがて 冷たいひとふりの短刀が ひっ
そりと置かれる
「女たちの溟い海」は「子宮」に、「短刀」は「ペニス」に見える。「喪われた時間」とは「阿吽」の「阿」と「吽」の「間」のことに思える。それはほんとうは「喪われ」てはいない。「間」があるから「阿吽」なのだが、それをあえて「喪われている」と否定することで、「時間」を動かしている。過去から、未来へ。
「肉体」には「過去」も「未来」もない。「いま」しかない。けれど、「人間」の「いのち」を「歴史」のなかで眺めるなら、たしかに「過去」や「未来」はあると考えた方が考えを押し進めるとき都合がいい。(簡単にものごとを考えることができる。)「阿」「吽」はつながっていて、分離できないもの、まじりあっているもの、融合したものなのだが、「間」をあえて導入した方が、ここまでが「阿」(たとえば「過去」)、ここからが「吽」(たとえば「未来」)と「図式化」するのには都合がいい。
私は、たぶん、とても奇妙なことを書いているのだと思う。山本の詩から逸脱して、かってに自分の考えていることを書いているだけなのかもしれない。誤読を拡大しているだけなのかもしれない。--けれど、誤読こそが、詩を読む楽しみ(文学の楽しみ)なのだから、もう少し、誤読を重ねる。
「血のつながり」(いのちのちながり)を、私は、長い間、女(子宮)と関係づけて考えてきた。子宮のなかで育まれるいのち。子宮のなかで育まれて、育てられていくいのち。たしかにそれはそうなのだが、女のみでは、子宮のみでは、いのちはつながらない。そこには男の介入がある。そして、そこには男の死がある。女たちは、子宮のなかでいのちを育て、そこから「生まれ変わる」。それに対して、男たちはただ死んでゆく。死んでゆくことが「阿吽」の呼吸を活かすことなのだ。
女性から見れば、そういう「人間の歴史」があるのかもしれない。そう見えるのかもしれない。男は死んでゆけ、女はいつまでも生まれ変わってやる--というと、たぶん、いいすぎになるのだろうけれど、そんなふうに見える世界を、山本は、わざと「男の阿吽の呼吸」を前面に出すことで、その裏側に、隠しているのかもしれない。
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