詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本美代子『夜神楽』(3)

2009-05-16 09:04:54 | 詩集
山本美代子『夜神楽』(3)(編集工房ノア、2009年04月01日発行)

 「ふるさと」という作品。その冒頭。

わずかな種火を求めて ふるさとへ降りてい
く そこでは 近親憎悪の うすい血をそそ
ぎながら ひとふりの短刀が 鍛えられてい

赤く溶けて ゆがんだ鉄に 向かい合って
重い槌を 打ち下ろしている者がいる
阿吽の呼吸でつなぐ 父と子 祖父 曾祖父
はるかずっとむこうまで つながっている

 これは刀鍛冶、製鉄(たたら)のことを描いているのかもしれない。そして、「阿吽の呼吸」とは、その作業のときのリズムを指しているのかもしれない。しかし、私は、それとは違うことを感じてしまった。
 いのちのリレーというか、血のつながりを考えるとき、私はどうしても「母」をとおして考えてしまうが、あ、そうか、父の側(男の側)にも、血のつながりはあったのか、とふと思った。
 そして、その父から子への交代。そこに、山本は「阿吽の呼吸」を感じている。その「阿吽の呼吸」ということばに、「つながり」の強さを感じた。「阿吽の呼吸」とは別個の存在の呼吸なのだが、別個であるからこそ「阿吽」という関係が成り立つ。(ひとりでは「阿吽」はありえない。)そして、別個であるからこそ、その「阿吽」の関係が濃密になる。「阿」と「吽」で一対になる。そのときの「見えない意識」。それを山本はじっと見ている。

 この詩にはつづきがある。私は、わざと、「つながっている」までで引用をいったん中断したのだが、つづきは……。

阿吽の呼吸でつなぐ 父と子 祖父 曾祖父
はるかずっとむこうまで つながっている
男たちの修羅 燃え盛る炉 飛び散る火花
鞴の熱い風 火の過剰 火の爆発の寂しさ

 これも、蹈鞴の作業の継承を描いているといえばそれだけなのかもしれないが、「男たちの修羅」ということばが、そういった「労働」の継承以外のことを感じさせる。
 父と子の争い。そして、交代。「阿吽の呼吸」。それは、静かに、無言で、「肉体」が反応し合って、はじめて成り立つ。
 「ふるさと」というのは、そういう「阿吽の呼吸」を濃密にする。「血」をつなぎ、継承する作業が、修羅と阿吽の呼吸で、男たちのあいだでつながっていく。「父」の「女」を「子」が奪っていく。奪い・奪われる一瞬は「阿吽の呼吸」である。それが、いまもあるかどうかは問題ではない。そういう交代劇が、「肉体」のなかにひそんでいる。それを山本は見つめ、そういう劇が存在する「場」が「ふるさと」だといっているのだ。
 あ、そうか、そういう見方があるのか。私は、びっくりしてしまった。「いのち」というものは、女と男が協力して「つなぐ」ものだけれど、その背後には、また男の密約のようなものもある。「阿吽の呼吸」がある。そういう「阿吽の呼吸」の「場」が「ふるさと」だ。
 このとき「ふるさと」とは、具体的な地名であると同時に、ひとつの「場」を超えて、「神話」につながる「場」でもある。

低い軒の下で 一本のローソクをともす 消
えがての わずかなぬくもり それを 両手
で囲って 水の上に移すと 魂のようにあか
るんで 灯籠は 川を流れてゆく 女たちの
溟い海まで
土塀のように崩れている 喪壊われた時間の上
に やがて 冷たいひとふりの短刀が ひっ
そりと置かれる

 「女たちの溟い海」は「子宮」に、「短刀」は「ペニス」に見える。「喪われた時間」とは「阿吽」の「阿」と「吽」の「間」のことに思える。それはほんとうは「喪われ」てはいない。「間」があるから「阿吽」なのだが、それをあえて「喪われている」と否定することで、「時間」を動かしている。過去から、未来へ。
 「肉体」には「過去」も「未来」もない。「いま」しかない。けれど、「人間」の「いのち」を「歴史」のなかで眺めるなら、たしかに「過去」や「未来」はあると考えた方が考えを押し進めるとき都合がいい。(簡単にものごとを考えることができる。)「阿」「吽」はつながっていて、分離できないもの、まじりあっているもの、融合したものなのだが、「間」をあえて導入した方が、ここまでが「阿」(たとえば「過去」)、ここからが「吽」(たとえば「未来」)と「図式化」するのには都合がいい。

 私は、たぶん、とても奇妙なことを書いているのだと思う。山本の詩から逸脱して、かってに自分の考えていることを書いているだけなのかもしれない。誤読を拡大しているだけなのかもしれない。--けれど、誤読こそが、詩を読む楽しみ(文学の楽しみ)なのだから、もう少し、誤読を重ねる。
 「血のつながり」(いのちのちながり)を、私は、長い間、女(子宮)と関係づけて考えてきた。子宮のなかで育まれるいのち。子宮のなかで育まれて、育てられていくいのち。たしかにそれはそうなのだが、女のみでは、子宮のみでは、いのちはつながらない。そこには男の介入がある。そして、そこには男の死がある。女たちは、子宮のなかでいのちを育て、そこから「生まれ変わる」。それに対して、男たちはただ死んでゆく。死んでゆくことが「阿吽」の呼吸を活かすことなのだ。

 女性から見れば、そういう「人間の歴史」があるのかもしれない。そう見えるのかもしれない。男は死んでゆけ、女はいつまでも生まれ変わってやる--というと、たぶん、いいすぎになるのだろうけれど、そんなふうに見える世界を、山本は、わざと「男の阿吽の呼吸」を前面に出すことで、その裏側に、隠しているのかもしれない。


方舟―詩集 (1968年)
山本 美代子
蜘蛛出版社

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ロン・ハワード監督「天使と悪魔」(★★★)

2009-05-16 08:44:31 | 映画
監督 ロン・ハワード 出演 トム・ハンクス、アィエレット・ゾラー、ユアン・マクレガー、ステラン・スカルスガルド

 前作(?)の「ダビンチ・コード」はさんざんな映画だった。映画なのに、ひたすら「文字」を映している。まるで本を読んでいる感じだった。その印象が強すぎて、今回の映画の採点は甘くなっているかもしれない。前作ほど、ひどくない。その「ひどくない」がふつうの映画という感じになる。(ほんとうなら★★くらいの映画だろう。)
 今回も「文字」がカギをにぎっているが、「土」「水」「火」「空気」というだれにでもわかることばなので、「文字」が重要という意識があまりない。それがよかったのだろう。
 「文字」、しかも「鏡文字」の一種、左右対称というキーも、最後の瞬間に、うまくいかされている。ユアン・マクレガーの胸に刻印される文字が、天地が逆になる。それはなぜ? この瞬間だれが犯人かわかるのだが、その処理が簡潔なので、なかなかいい。あとで、その瞬間に犯人探しのカギがあった--というような、うるさい「解説」がないのも、とてもいい。(小説には、その部分の解説があるかもしれない。トム・ハンクスが、「あそこで気がつくべきだった」というような反省?として、ひとことくらい漏らしているかもしれない。映画よりは、はるかにていねいに、たぶん一番ていねいに描写されているだろうと思う。)
 映像として見るべき部分はあまりなく、見せ場の「反物質」の爆発と、その影響などあまりにもばかばかしいところがある。真上から爆風がくるのにパラシュートがなんの役に立つ?というひどいひどい矛盾がある。小説では、その矛盾は、まあ、目立たないだろうけれど、映像では「嘘」がみえすいてしまう。「反物質」の爆発自体が、「ザ・エンド・オブ・デイズ」の核爆発のきのこ雲を背景にしたキスシーンと同じようにひどいけれど……。
 映像として見せ場がない部分は、ひたすらローマ市内を移動することでごまかしている。改修中の聖堂や地図といった小道具で、「意識」をかきまぜたり、整理したりというのもいいし、最初のトム・ハンクスのプールの水泳(吹き替え、だね)の伏線も無理がない。前作の評判がよくなかった(?)ので、ずいぶん改良しようとした感じがする映画ではあった。



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『田村隆一全詩集』を読む(86)

2009-05-16 01:41:22 | 田村隆一

 「他人」を語り直す。それは「アフリカのソネット」にとてもわかりやすい形であらわれている。書き出し部分。

第一次世界大戦の数年前
「ぼく」はケンブリッジ大学の自然科学部門のカレッジの奨学金を得たとき
まだ十七歳 一年待たなければ入学できないから
パリをうろついてフランス語を勉強したり
北アフリカの エジプトに近いスーダンまで足をのばしたり
そこで偶然珍らしい甲蟲(ビートルズ)を見つけることになる

 田村は詩の登場人物の主語に「ぼく」をつかう。この詩でも「ぼく」ということばがつかわれている。しかし、この詩の「ぼく」は田村自身のことではない。(ぼく、ということばそのものも、カギ括弧のなかに入っていて、田村自身ではないことを明確にしている。)「オズワルド叔父さん」のことである。田村の叔父さんではない。ロアルド・ダールの長編小説のなかに出てくる主人公である。田村は、その小説の主人公になって、「ぼく」といっている。(小説は、田村自身が翻訳している。)
 そこに書かれることは、したがって「小説」の要約ということになる。
 そのビートルズからは「世界最強の媚薬」を作ることができる。
 「ぼく」は、つまりオズワルド叔父さんは、次のようなことをしている。

まんまと媚薬を製造すると クラスメイトの美女と共謀して
世界的天才の精液を冷凍庫に密閉し 金満家の有閑夫人に高値で売りつけるベンチャービジネスを開始する
指導教官は自然科学の老教授

精液を採取された人物を列記する--
アインシュタイン フロイト ストラビンスキー ピカソ 「蝶々夫人」で有名なプッチーニ プルーストにいたってはペニスがエンピツより細かったと女学生に報告させている

 なぜ、田村は、こういう「語り直し」をしたのだろうか。たぶん、小説の翻訳だけでは物足りなかったのだろう。翻訳をとおりこし、「オズワルド叔父さん」を生きてみたかったのだろう。自分のことばにしてみたかったのだろう。自分のことばにして、「オズワルド叔父さん」を生きるとき、何が見えてくるか。「オズワルド叔父さん」の「肉眼」に何が見えてくるか。

クローンは一九〇三年にH・ウエッバー博士が名付けた遺伝子の結合体。クローンによる最初の生物は蛙。現代ではクローン猿。どんなに厳重な国際的監視下でもクローン人間は誕生する。

近く自然人の芸術は消滅するだろう ソネットが聞きたかったら
アフリカへ行け
新鮮で猛毒のウイールスの群れの
音のないソネット
 
 田村の「肉眼」は、「音のないソネット」を「聞いた」。「見た」のではなく「聞いた」のである。ここにはふたつの「越境」がある。「肉眼」は「耳」ではないのに「音」を聞いてしまう。しかも、それは「音のない音」という矛盾を内包している。たむらは「他人」になることで、そういう領域にまで越境していく。そういう領域にまで、「田村」自身を「破壊」していく。
 「他人」を語ること、語り直すこととは、「田村自身」という「枠」を破壊し、「肉・ことば」になることなのだ。
 「他人」を語るということは、「他人」の「時間」を自分のなかに引き入れることでもある。「他人」の「時間」が、田村ひとりでは体験できなっかたものを感じさせてくれる。田村自身の「枠」を破壊するのを手伝ってくれる。
 「他人」とは、「肉・ことば」の「教授」なのである。



オズワルド叔父さん
ロアルド・ダール
早川書房

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