詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐藤恵「ティア(みずうみ)」

2009-05-13 06:15:00 | 詩(雑誌・同人誌)
佐藤恵「ティア(みずうみ)」(「スーハ!」5、2009年05月10日発行)

 佐藤恵「ティア(みずうみ)」は、亡くなった人を送る。その静かな感じがとても気持ちよく響いてくる。

わたしたちはひとりびとりの胸に
ちいさな骨壺をさげて
今昇ってきた月光をたよりに湖を渡って行く
湖面に敷き延べられた銀の浮き布よ

重みのあるものはこの白い骨片(かけら)だけあとは捨ててきたので
かかとのまるみだけ沈んでも
ゆらめきながら渡って行くのだ

静かな摺り足のささなみ
かそけき骨の鳴き音
さぎりのような葬列

 「重みのあるものはこの白い骨片あとは捨ててきたので」という1行が痛切だ。この1行には、ふたつの文がある。「重みのあるものはこの白い骨片」と「あとは捨ててきたので」。「あとは捨ててきたので」は最初の文につけくわえた補足、理由説明である。ふたつの文の間には、論理上の呼吸がある。しかし、その呼吸をこの1行は消してしまっている。ふたつの文を密着させている。論理上は切り離せても、心情的に切り離せないからである。そのこころの動きがそのまま「肉体」を動かす。
 ここから、ことばは、論理とは違ったものを描き出す。

かかとのまるみだけ沈んでも
ゆらめきながら渡っていくのだ

 物理の論理では、人間は湖を(水面を)渡ることはできない。けれど、その「肉体」がこころであるときは、そこには「物理の論理」は働かない。そういう論理の超越を、あるいは特権ともいうべきものを、「重みのあるものはこの白い骨片あとは捨ててきたので」という1行がつくりだしている。
 改行や1行あきには、それぞれ意味があるのだ。
 「かかとのまるみ」のかかとは、骨壺を持つひとのかかとであるはずだが、論理が物理を超え、こころと「肉体」が融合したものについて語るとき、その「肉体」もまた死者の「肉体」と一体になっているような感じがする。かかとは、亡くなったひと自身の、美しいかかとでもあるのだ。
 だから「かそけき骨の鳴き音」ということばも生まれる。死者は泣かない。骨は泣かない。泣くのは、生きている人間、骨壺をもった人間である。けれども、このとき、亡くなったひとと、骨壺をもつ人間は一体になっているので、骨壺をもっているひとが泣けば、それにつられて骨もまた泣くのである。「泣かないで」といって泣くのである。
 最後の3行。これは、とても美しい。

昇りきった者たちもまた
しずくほどの重みを与えられ
おびただしい雨粒となって還ってくる

 湖の水分が天に昇り、そこで冷やされて雨粒になって降りてくる--と読めば、これは気象の動きそのままである。けれど、私には、佐藤が書いている「雨粒」は「雨粒」ではなく、「涙」というふうに感じられる。
 亡くなったいとしい人は、涙となって、佐藤の「肉体」へ還ってくる。涙を流すとき、佐藤は、その最愛のひとと「肉体」としてひとつになり、静かに交流している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(83)

2009-05-13 00:32:40 | 田村隆一

 『1999』(1998年)の「美しい断崖」。繰り返し田村が書いてきたことが、ここでも書かれている。「肉眼」の問題である。

ネパールの草原では月は東に陽は西に
その平安にみちた光景には
心を奪われたくせに
「美しい断崖」にはなってくれない
きっとぼくの眼は
肉眼になっていないのだ
ただ視力だけで七十年以上も地上を歩いてきたにちがいない
まず熟性の秘密をさぐること
腐敗性物質という肉体のおだやかな解体を知ること

 ある対象を見る。それは「視力」の仕事である。「肉眼」の仕事は「対象」を超えて何かを見る力である。それは「対象」の向こうにあるのではなく、その内部にある。「対象」の内部にあって、「熟性」するもの。
 「腐敗性物質」とは人間のことだが、その「肉体のおだやかな解体」とは何だろうか。死だろうか。それとも生だろうか。それは死であり、誕生である。ふたつが結びついたものだ。田村にとって、あらゆる存在は、生と死のように矛盾したものが固く結びついている。その結びつきこそ「美しい断崖」だ。生にとって死は断崖。死にとっても生は断崖である。矛盾したものがぶつかるとき、そこに「断崖」があらわれてくるのだ。

愛が生れるのはその瞬間である
視力だけで生きる者には愛を経験することはできない
生物は「物」である
生物の本能もまた「物」である
だが
視力が肉眼と化したとき
物は心に生れ変る たとえ
地の果てまで旅したとしても
視力だけでは「物」は見えない

肉眼によって
物と心が核融合する一瞬
一千万 百億の生物が瞬時に消滅したとしても
この世には消えないものがある

 「視力」が「肉眼」になるためには何が必要か。「ぼく」の解体である。「ぼく」だけにかぎらないが、あらゆる存在は「形」をもっている。視力が見るのは「形」である。その内部ではない。
 「本能」ということばを手がかりに考えてみる。「本能」は「人間」の(あるいは生物の)内部にある。その内部こそ、田村にとっては「物」である。(外部は「物」にはなっていない。「物」以前の何かである。)
 視力が「肉眼」になるとは、「視力」が「内部」を見る力を獲得するということだが、それは「内部」そのもの、本能そのもの、「いのち」そのものに生まれ変わることと同義である。
 「視力」が「内部」のもの、「肉眼」になったとき、あらゆる存在の外部は解体し、形が存在する前の、「未分化」の存在になる。あらゆるものが「未分化」の状態で平等に結びつく。
 「人間」の内部にあるもの。それは、たとえば仮に「心」と呼ばれたりする。
 「肉眼」によって、「心」と「物の内部・本能」が出会う。そのときのことを、田村は強烈なことばで書いている。

核融合する一瞬

 それは単なる「融合」ではない。「核融合」。激しい爆発。出合った「心」と「物」が融合するだけではなく、そのとと、その周囲にあった存在もすべてとかして爆発する。世界が一変する。そういう瞬間。

 矛盾→解体→生成。田村のことばの特徴として、そういうことを何度か書いてきたが、そのときの生成は世界の破壊でもある。

一千万 百億の生物が瞬時に消滅したとしても
この世には消えないものがある

 消えないもの--それは何か。破壊する力である。核融合は「未分化」そものもさえも破壊するかもしれない。それは、矛盾した夢である。けれど、矛盾しているから、そこに、ほんとうの何かがある。田村の夢がある。祈りがある。



半七捕物帳を歩く―ぼくの東京遊覧 (1980年)
田村 隆一
双葉社

このアイテムの詳細を見る
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする