安水稔和「冨上芳秀氏の公開質問状に答える」(「イリプスⅡnd」3、2009年04月20日発行)
安水稔和「冨上芳秀氏の公開質問状に答える」は、「イリプスⅡnd」3で冨上芳秀が「<出てきた>というレトリックの意味するもの」というサブタイトルをつけて書いた質問状に答えるものである。2点、気になるところがあった。
冨上は、冨上が苦労して探し出してきた竹中郁の作品群が、安水が竹中家を訪問した時に<出てきた>かのように講演で語ったのはおかしい、と批判していた。
これに対して、安水は次のように答えている。
冨上は「レトリック」を問題にしていたが、私がこの部分に感じるのは、やはり「レトリック」の問題である。日本語は主語を省略しても文意が通じる。今回の場合、「出てきた」の主語は「未完詩篇」であり、それが「出てきた」というとき、それがどういう経緯で出てきたかが一番の問題である。「詩篇」は動き回れないから、「主語」となって「出てくる」ことはできない。どうしても、誰かが「出てくる」という状態にしなくてはならない。つまり、こういうときは「出てきた」というだけでは不十分なのである。だれが、どうやって見つけ出したか、という経緯を言わないかぎり、その「出てきた」はほんとうの「主語」を隠していることになる。
なぜ、主語を隠さなければならないのか。竹中の未完詩篇が冨上の苦労によって出てきたのなら、当然、それは「講演」のなかで明確に、「冨上が見つけ出したので、読むことができた」というべきである。
この部分の釈明、謝罪は、不十分である、と私は思う。
「竹中家の調査で私が見つけたと言っているのではありません。あなたから出てきたのです。」ではなく、「冨上から出てきたと、講演で正確に表現しなかったのは、私の過ちでした」と認めるべきだと思う。すでに、多くの読者は、その詩篇が冨上から出てきたという事実は知っている。(推測として、知っている。)事実ではなく、その事実をどう表現するか、どんな「レトリック」で表現するかが問われている。
そのことを安水は誤解している。問われているのは「誰が発見したか」という「事実」ではない。
重要なのは「発見」という「事実」であり、「表現」ではない--という意見もあるかもしれない。
けれど、その「表現」が含む「事実」、言い換えると「表現」が隠してしまう「事実」というものもある。
ことばはいつでも全体の「一部」をあらわすことしかできない。どんなにことばをついやしても「事実」の全体を語りきれることはない。ひとは、ある「事実」を衝撃的に伝えるために「わざと」一部を省略することもある。「わざと」何かを隠すこともある。そういう「隠蔽」の「事実」というものがある。
今回、冨上が問題にしているのは、冨上という「主語」を「隠蔽」している表現を問題にしている。そこには、どういう「事実」があるのか。
「隠蔽した」という「事実」をいわずに、「私が見つけたと言っているのではありません」では不十分だ。「私が見つけたのではない」のなら、なぜ、そのことを最初に言わないのか、「私が見つけたのではない」という「事実」をなぜ明確に言わないのか、が問われているのである。なんらかの「思惑」があるのではないのか。
「詩篇」の発見が、ものの「事実」なら、「思惑」は「心理」の「事実」である。安水は、「心理の事実」を語っているようには、私には受け止められない。「心理の事実」は安水にしか答えられない。その安水にしか答えられないものを、安水は語っているとは思えない。
それは、もうひとつの気がかかり部分と関係してくる。
安水は、書いている。
これでは、出版の責任を冨上に押しつけることになる。責任の転嫁である。冨上は安水の出版の妨害をしている、という誤解をあたえかねないのではないか。
どの部分を削除し、どのような加筆をしますという具体的な提案をし、出版をご了承下さいと申し入れないかぎり、解決にはならないのではないか。
何をすべきか、冨上に問いもとめるのではなく、これこれのことをします、と具体的に「公開」の場で提案することが、いま、必要な「レトリック」なのではないのだろうか。「テープ起しの文言の削除加筆によって」では、「事実」が不明確である。何ができるのか、という「事実」がもとめられている。何ができるか、という「事実」は、そして、安水にしか書けないことである。
安水にしか書けない「ことば」を、もう一度、読んでみたいと思う。
安水稔和「冨上芳秀氏の公開質問状に答える」は、「イリプスⅡnd」3で冨上芳秀が「<出てきた>というレトリックの意味するもの」というサブタイトルをつけて書いた質問状に答えるものである。2点、気になるところがあった。
冨上は、冨上が苦労して探し出してきた竹中郁の作品群が、安水が竹中家を訪問した時に<出てきた>かのように講演で語ったのはおかしい、と批判していた。
これに対して、安水は次のように答えている。
未完詩篇が出てきたと話したのは、竹中家の調査で私が見つけたと言っているのではありません。あなたから出てきたのです。『詩集成』へのあなたの研究成果の提供によって出てきたのです。
冨上は「レトリック」を問題にしていたが、私がこの部分に感じるのは、やはり「レトリック」の問題である。日本語は主語を省略しても文意が通じる。今回の場合、「出てきた」の主語は「未完詩篇」であり、それが「出てきた」というとき、それがどういう経緯で出てきたかが一番の問題である。「詩篇」は動き回れないから、「主語」となって「出てくる」ことはできない。どうしても、誰かが「出てくる」という状態にしなくてはならない。つまり、こういうときは「出てきた」というだけでは不十分なのである。だれが、どうやって見つけ出したか、という経緯を言わないかぎり、その「出てきた」はほんとうの「主語」を隠していることになる。
なぜ、主語を隠さなければならないのか。竹中の未完詩篇が冨上の苦労によって出てきたのなら、当然、それは「講演」のなかで明確に、「冨上が見つけ出したので、読むことができた」というべきである。
この部分の釈明、謝罪は、不十分である、と私は思う。
「竹中家の調査で私が見つけたと言っているのではありません。あなたから出てきたのです。」ではなく、「冨上から出てきたと、講演で正確に表現しなかったのは、私の過ちでした」と認めるべきだと思う。すでに、多くの読者は、その詩篇が冨上から出てきたという事実は知っている。(推測として、知っている。)事実ではなく、その事実をどう表現するか、どんな「レトリック」で表現するかが問われている。
そのことを安水は誤解している。問われているのは「誰が発見したか」という「事実」ではない。
重要なのは「発見」という「事実」であり、「表現」ではない--という意見もあるかもしれない。
けれど、その「表現」が含む「事実」、言い換えると「表現」が隠してしまう「事実」というものもある。
ことばはいつでも全体の「一部」をあらわすことしかできない。どんなにことばをついやしても「事実」の全体を語りきれることはない。ひとは、ある「事実」を衝撃的に伝えるために「わざと」一部を省略することもある。「わざと」何かを隠すこともある。そういう「隠蔽」の「事実」というものがある。
今回、冨上が問題にしているのは、冨上という「主語」を「隠蔽」している表現を問題にしている。そこには、どういう「事実」があるのか。
「隠蔽した」という「事実」をいわずに、「私が見つけたと言っているのではありません」では不十分だ。「私が見つけたのではない」のなら、なぜ、そのことを最初に言わないのか、「私が見つけたのではない」という「事実」をなぜ明確に言わないのか、が問われているのである。なんらかの「思惑」があるのではないのか。
「詩篇」の発見が、ものの「事実」なら、「思惑」は「心理」の「事実」である。安水は、「心理の事実」を語っているようには、私には受け止められない。「心理の事実」は安水にしか答えられない。その安水にしか答えられないものを、安水は語っているとは思えない。
それは、もうひとつの気がかかり部分と関係してくる。
安水は、書いている。
「公開質問状」であなたは私が予定している評論集『竹中郁を読む』(仮題)が出版されようとしているのは許せないと言う。許せないというあなたの気持ちを知った上はこのまま事を進めるわけにはいかないと思い、出版を凍結しています。テープ起しの文言の削除加筆によってあなたが未刊詩篇の発見提供者であると重ねて明確にするにしても、あなたの諒解を得られないままに事を運ぶつもりはありません。
これでは、出版の責任を冨上に押しつけることになる。責任の転嫁である。冨上は安水の出版の妨害をしている、という誤解をあたえかねないのではないか。
どの部分を削除し、どのような加筆をしますという具体的な提案をし、出版をご了承下さいと申し入れないかぎり、解決にはならないのではないか。
何をすべきか、冨上に問いもとめるのではなく、これこれのことをします、と具体的に「公開」の場で提案することが、いま、必要な「レトリック」なのではないのだろうか。「テープ起しの文言の削除加筆によって」では、「事実」が不明確である。何ができるのか、という「事実」がもとめられている。何ができるか、という「事実」は、そして、安水にしか書けないことである。
安水にしか書けない「ことば」を、もう一度、読んでみたいと思う。
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