詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川朱実「ロバの来る日」、橋本和彦「木の哲学」

2009-05-12 08:39:49 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「ロバの来る日」、橋本和彦「木の哲学」(「石の詩」73、2009年05月20日発行)

 北川朱実「ロバの来る日」は、ブラジルの村のことを描いている。ロバが本を背中にかついでやってくる。移動図書館である。

とても会いたかった人に会うときのように
大人も子供も
装いを正して木陰に集まってくる

開いた本に木漏れ日があたって
文字が
ゼリービーンズのようにはね

黒いアゲハ蝶が
古い布の切れはしみたいに
少女の肩で休む

 「とても会いたかった人に会うときのように」が美しい。「正装して」ではなく「装い正して」ということばの流れが美しい。そして「文字が/ゼリービーンズのようにはね」の改行がとてもとても美しい。改行があることによって、ことばを探している「間」と、ことばがその「間」の向こうからあらわれてくる新鮮な感じがいい。ことばにならなかったものがやっとことばになった、という印象を引き出す「間」。「間」によって生まれる飛翔感。その「いま」「ここ」という時空間が破られた印象(錯覚?)があるから、次のアゲハ蝶の3行が不思議な世界になる。
 それはほんとうのアゲハ蝶? アゲハ蝶が少女の肩から本をのぞきこんでいるのか。あるいは、ゼリービーンズのように本の中から飛び出してきた蝶が肩にとまっているのか。現実なのか。比喩なのか。
 そこから、ことばが「思考」にかわってゆく。

卵からかえったばかりの雛を
両手で包むようにしてページをくる少年は
ふと顔をあげ
文字を指さして何かを言おうとした

それは
初めて人間が言葉を持つ
瞬間のような表情だった

 いま、少年は、「卵からかえったばかりの雛」そのままに、「人間」に生まれ変わっている。ことばとともに、人間は生まれ変わるのである。
 生まれ変わると、どうなるか。

私は気づいていた
文字を旅して帰ってくると
彼らはすこし無口になることに

日暮れて
私たちの上空を
真珠色に光る蝶の群れが
一すじの川になって渡っていった

 ことばとともに生まれ変わると人は「無口になる」。ことばを知ることが人を無口にする。それは矛盾である。矛盾だから、そこに真実がある。その無口を「肉体」のなかでしっかり吸収し、それから人はやっと話しはじめるのである。そのとき、ことばは初めて「思想」になる。
 北川の書いている「一すじの川」は現実なのか、比喩なのか。私は「天の川」と思って読んだ。ことばを知ったとき、ことばは、それまで見えていたものを、違った形にしてしまう。ブラジルのこどもたちがことばを知った。そして、彼らがことばを知ったということを知って、北川も生まれ変わる。そのとき、「天の川」は「天の川」ではなく、新しいことばで呼ばれることを欲する。その願いに答えるようにして「真珠色に光る蝶の群れが/一すじの川になって渡っていった」ということばが生まれる。
 
 今夜、私は、北川が見た「天の川」が見れるだろうか。見てみたい。そう思った。



 橋本和彦「木の哲学」は「木」をテーマに橋本自身の存在形式の夢を語っている。「木を満たすのはそれぞれの語彙と語法であり」という1行が出てくるが、橋本自身も、自分を満たす語彙と語法をひたすら追求している。

木の表皮が厚く無骨であるのは偶然ではない
気のない面はそれぞれで全く異なっており
一本一本が全く別の生き物とも言える程だが
内面集中度の高さにおいては近似している

 「内面集中度」ということばに橋本の理想が託されている。


人のかたち鳥のかたち
北川 朱実
思潮社

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フォン・イェン監督「長江にいきる秉愛(ビンアイ)の物語」(★★★★)

2009-05-12 06:19:10 | 映画
 長江に計画されている三峡ダム。水没する村。その立ち退き交渉。ドキュメンタリー。
 ここに登場する「おかあさん」がすごい。夫は病弱。こどもが二人。とても貧しい。とても貧しいのだけれど、家族を愛している。いまの暮らしを愛している。立ち退きはいや、と最後まで抵抗する。最後は、役人にだまされるようにして(?)家を追われる。
 むかし、愛し合った男がいた。けれど父親に反対されて、いまの夫と結婚した。ふつうは恋愛し結婚するのだが、私の場合は結婚して、そのあと恋愛がはじまったというようなことから語りはじめる。流産したことや、堕胎したことなども、「暮らし」として、しっかり語る。
 仕事は農業。土地と向き合い、土地と暮らす。そこには土地さえあれば、人間は生きて行けるという思想がある。立ち退きを拒むのも、いま、ここで世話をしている(?)土地とはなれたくないという思いがあるからだろう。別の土地、ではなく、この土地というこだわりがある。
 そのことを雄弁に語るエピソード。「おかあさん」が夢の話をする。「いつも古里の夢を見る。いまの土地の夢を見るようになったのは、ここに住んで20年ほどしてからだ。魂は体ほど自由に動けない」。
 感動してしまった。
 生きるとは、こういうことを言うのだ。自分の体験していることを、しっかりとことばにする。自分で語る。そうすると、そこにおのずと「哲学」が顔を出してしまう。「魂は体ほど自由に動けない」というようなレトリックを「おかあさん」はどこかから学んだわけではないだろう。確かに高校までは卒業しているが、そこに描かれる日々の暮らしに本など出てこない。雑誌や新聞、テレビも出てこない。こどもの「宿題」が出てくるくらいである。けれど、そういう暮らしのなかでもことばは哲学の高みに到達する。自分のことを「正確」に語りさえすれば。
 映画は、このことばに呼応するように、土地をしっかりととらえていた。それは肥沃な土地ではない。荒れた土地である。しかし、その荒れた土地を少しずつ耕してサツマイモ(だと思う)やトウモロコシを育てる。ミカンを育てる。野菜、果物は、その手入れに応じて実る。裏切らない。荒れた土地なのに、みどりはしっかり生きている。その、裏切らないものへの愛着があるから、土地を離れたくない。役人の「ことば」ではなく、土地を信じる。
 最後に、役人のことばの攻撃にどうすることもできなくて、家を立ち退かざるを得なくなるシーンには涙が流れてしまう。風が吹き荒れる高台で念書を書かされるのだが、そのとき「おかあさん」は、気持ちが昂っていて、どう書いていいかわからない、と役人に助けを求めるしかなくなる。
 あ、役人は、「おかあさん」から土地だけではなく、「ことば」まで奪ってしまったのだ。なんという横暴。なんという暴力。「念書なんか、書いたらだめ」とこころの中で叫んでみるが、もちろんスクリーンには届かない。
 無念、という気持ちがわいてくる。映画が終わっても、しばらくは席を立てない。最後は「字幕」で「おかあさん」の行く末が語られるのだが、もう一度、あの、強い顔を見たい、もう一度スクリーンに写し出されないものか、と強く強く願った。

 いつの日か、また、あの「おかあさん」の強い顔が戻ってきますように。「木靴の樹」の最後で、「ミネク、幸せになれよ」と祈ったように、「おかあさん」の幸せをこころから祈らずにはいられなかった。


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『田村隆一全詩集』を読む(82)

2009-05-12 00:00:06 | 田村隆一
 「液」の「カイロの猫」は不思議なことを書いている。新潟の女性から絵葉書がとどいた。

絵はがきは
エジプトのカイロ
うちの猫とそっくりの猫
「ネコちゃんにあんまり似ているので贈ります」
と絵はがきの空欄に彼女は書いている

アラビア語の看板と赤いトラックを背にして
ちゃっかり坐っている猫

似ているどころか わが家のネコである
七、八年まえの正月に のっそり家に入ってきて
そのまま 大股をひろげて眠りこけてしまって
猫だって時差に弱いことがやっと分かった
カイロから小さな日本列島の
そのまた小さな村にどうやってたどり着いたのか たぶん

 このあと、猫がジェット機にもぐりこみ日本にやってくることが夢想されているが、この部分をどう読むか。その「絵はがき」の猫は七、八年前に撮影されたものであり、それがいま田村の家にいる、と読むべきなのか。それとも、空間を飛び越えて、「いま」田村の猫がエジプトにも存在すると読むべきなのか。
 私は、「いま」田村の家にいる猫が同時にエジプトにいると読む。同じ「もの」が同時に違った場に存在できないというのは物理の基本的な考え方だが、詩は「物理」ではないし、また田村の「思想」は「いま」「ここ」にある考え方を破壊することにある。

 この「絵はがき」のことばに先行する連のことばが重要だ。

現在は
猫や鳥や魚にはあるが人間にはない
鳥は鳥の中で飛ぶ
猫は猫の中で眠る
人間の中には人間はいない
言葉だけで
人間は社会的な存在になり 言葉の中で
人は死ぬ そのとき
やっと人は
人になるのである

 「現在」(いま)という時間は人間の中にはない。ところが猫や鳥の中にはある。それは猫や鳥にとって、あらゆる時間が「現在」であるということだ。「現在」しかない。存在する時、それはいつでも「現在」である。
 存在する瞬間がいつでも「いま」なら、同じ時間に、ものは別の場に存在できないという論理は成り立たない。「場」の違いを「いま」が超越してしまう。
 エジプトにいるときが「いま」。そして田村の家にいるときが「いま」。時間から、存在を規定するのではなく、存在から時間を規定すれば、私たちが信じている物理の定理は無効になる。存在するあらゆる時間、生きているあらゆる時間が「いま」というのは、いのちの「純粋な」ありかたである。野生、自然のありかたである。(「白昼の悪魔」の「wildとは純粋な「自然」そのもの」という行を思い出そう。)「猫は猫の中で眠る」。そして、「時間」は「猫」のなかに存在する。「いま」という時間だけが存在する。
 人間は、そんなふうには存在し得ない。なぜなら、「ことば」を生きるからである。「自然」「純粋」を生きるのではなく、「ことば」を生きている。「ことば」が「時間」をつくる。「いま」と「いま以外」(過去・未来)をつくる。だから「いま」を生きるためには、「時間」をつくることばを破壊しなければならない。ことばを破壊したときに、人間は「いま」を生きることができる。そして、ことばの破壊は人間にとっては「死」と同じであるから、ことばを破壊し、死ぬことが、人間になる(生まれ変わる)ということでもある。
 田村の「思想」は、ことばで説明すると、そんなふうにいつも「矛盾」してしまう。死ぬことが生きること、という矛盾の形でしか言えないものになってしまう。

 「カイロの猫」にもどる。
 田村はジェット機に乗って日本にやってきた猫のことを書いている。それは、「いま」田村の家にいる猫が七、八年前に田村の家にたどり着くまでの描写と考えることができる。しかし、もし、私が考えているように、いまその猫がカイロにいるのだと仮定したら、田村の書いていることは矛盾している。そして、矛盾しているからこそ、猫はカイロにいなければならないのである。
 矛盾こそが田村のことばの運動の基本なのだから。
 「いま」猫がカイロにいるにもかかわらず、その猫は七、八年前、カイロから日本にやってきたと書くことは、いわば「時間」そのものを破壊することである。
 もちろん、その絵はがきが七、八年前に撮影された写真でできていると仮定すると「矛盾」が消えるが、矛盾が消えてしまっては田村の詩にはならない。
 田村は、「時間」を破壊するために、わざと、「いま」猫がカイロにいると書くのである。田村の家にいて、同時にカイロにいる。そういうことができるのが「猫」である。そういうことができないのが「人間」である、と書くのである。ことばゆえに、それができない、というのが田村の考えである。

 この「カイロの猫」と対になっているのが「液」。その中にも、おもしろいことばがある。矛盾に満ちたことばがある。

白色の脳漿から精液
むろん 赤い血液 青い血液
透明で純粋な唾液 雑菌を繁殖させるにはもってこいの

 「純粋な唾液」と「雑菌」。しかし、「雑菌」と書かれているにもかかわらず、私にはその「雑菌」が「純粋」と聞こえる。そう読んでしまう。「雑菌」は「wild」なのだ。野生であり、本能なのだ。「雑菌」は人間のことなど考えない。ただ「雑菌」として「生きる」ことを「純粋」に考え、一番いい場所を選んでいるだけなのだ。
 ことばは、ことばを破壊しながら、そのいちばんいい場所へ、どうやってたどり着くことができるだろうか。田村の夢には終わりがない。



猫ねこネコの物語 (児童図書館・文学の部屋)
ロイド・アリグザンダー
評論社

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