詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

清野雅巳「実家」、青野直枝「降誕祭」

2009-05-23 09:14:25 | 詩(雑誌・同人誌)
清野雅巳「実家」、青野直枝「降誕祭」(「雲雀料理」6、2009年05月10日発行)

 清野雅巳「実家」はことばがていねいだ。特別なことが書いてあるわけではないが、そのていねいなことばの動きに、ふっと誘い込まれる。

正月
実家でテレビを見ていると
討論番組に
イラク人質事件の帰還者が
あれから四年 いや五年か
ぼくとそんなに違わない年に見える
これから国際交流のありかたについて
語るという
そこへ母が来て
風呂がわいたと告げた
ぼくはテレビを消して立ち上がった
湯船で足を伸ばしながら
くもりガラスを見た
窓の外は暗く
耳をすますと
遠くで車が
砂利を踏みしだいている

 「そこへ母が来て」からが、とてもていねいである。なんでもないことのようだが、「テレビを消して」という1行は、最後の「遠くで車が/砂利を踏みしだいている」を静かに支えている。家のなかでテレビの音が消えているから、遠くの音が聞こえるのである。
 風呂の窓が「くもりガラス」というのは、すりガラスのことなのか、湯気で曇ってのことなのか、はっきりとはしないが、たぶんすりガラスだろう。外から風呂のなかが見えないように配慮して、半透明になっているのだろう。そういう「暮らし」のありかたと、テレビは見ないときは消すという行為がゆったりと、しっかりと結びついていて、不思議に安心感がある。
 くもりガラスであっても、外の様子は窺い知ることができる。「暗い」。暗いから、自然に、その外に広げる感覚も「視力」ではなく「聴力」になる。これも自然だし、それに先だつ「湯船で足を伸ばしながら」もなんともいえず気持ちがいい。足を伸ばして体を解放する。それにあわせて感覚も自然に広がっていく。その広がった感覚が、遠くの音を聞きとるのである。
 ただし、この感覚は、自然と広がるものではあるけれど、そこには「意識」も働いている。広がっていく感覚を、ただ広げるのではなく、とぎすますというとおおげさになるかもしれないけれど、しっかりとその感覚を生きる。「耳をすます」。その結果として、遠くの音が耳にとどくのだ。
 感覚を広げ、同時に、その感覚の広がりがとらえるものをていねいにすくい取る。ことばにする。その感覚の動きを実感すると、清野が聞きとった「音」、「車が/砂利を踏みしだく」音が、どこかで「国家」が「若者」を踏みしだく「音」とも重なって聞こえる。清野はそんなことまでは書いてはないのだが、「イラク人質事件」が、この詩では必然的なものに見えてくる。感じる人が感じればいい、自分の感覚は押しつけない、という「生きかた」が、そこには反映されているかもしれない。まず、自分自身の感覚をしっかりつかみとる、というていねいさが清野にはある。



 青野直枝「降誕祭」には、眩暈のように美しい行がある。

両面張りの鏡が
上下を映したとき
より低く映るのは
空なのか海なのか

 「両面張りの鏡」を空と海とのあいだに水平におけば、物理的に言えば、空は「上面」、海は「下面」にしか映らない。「下面」を「低い」ととらえれば、「海」が低いにきまっている。
 しかし。
 空は鏡まで降りてくる。海は鏡まで昇ってくる。その「動き」を考えると、空は「低く」降りてきた。海は「高く」昇ってきた、ということになる。「低く」と「高く」が逆転する。
 鏡のなかで、空と海が出会い、その固い結びつきが「低い」「高い」のなかにひそむ矛盾したものをひとつにする。
 その瞬間が美しい。
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『田村隆一全詩集』を読む(93)

2009-05-23 00:06:17 | 田村隆一

 「肉眼」とは「直接的な目」である。それは、「愉快な対話」のなかの、「目」に関する部分を読むと、よくわかる。

あの
顔みたいなものに張りついている丸い穴は
何ですか
二つありますね
一般的には目と呼んでいますが
形だけは目ですが、じつは
何も見えないのです
カメラのレンズと思ってくれればいい
TVカメラだと移動もできますし
拡大レンズもある
そのカメラに写るものだけが世界で
信用できるものだと人は思いこんでいる
色彩も音もついていて
しかも何度も繰り返しがききます
デジタルの時代になりましたから
肉眼なんて余計なもの

 「肉眼なんて余計なもの」とは、もちろん田村流の逆説である。「カメラ」のレンズ、テレビカメラがとらえるものは「間接的」である。人間の目は、いまは、もうそういうものになってしまっている。
 「何度でも繰り返しがききます」はたいへんな皮肉である。「目」は、人間の「視線」のありかたを知らず知らずに身につけている。人間がつみかさねてきた「視線」、形成してきた「視線」をそのままつかって世界を見つめる。「一点透視図」のような「視線」もあれば、「古今風の感性」というような「ことばの視線」もある。それは蓄積され、数値化され、デジタル化していると言えるかもしれない。田村が書いているように。
 それは、「殺人」が「肉眼」だとすれば、「ホロコースト」を「目」と呼ぶようなものかもしれない。

 「目」と「肉眼」の違いを、田村は次のようにも書いている。

人間の悲惨という輝しき存在も、どこを探したっていない、赤ん坊が
母胎からポトリと落ちて消耗するだけ

 「目」は何も生まない。ただ「消耗する」。すでに形成された「視点」で世界を見つめるとき、世界はただ「消耗」される。
 「肉眼」は、そういう「消耗」そのものを破壊し、「視線」のとらえる世界を破壊し、ことばにならないものを、「未分化」のものに、直接触れる。そして、そういう「直接性」は、まだ人間に共有されていないがゆえに難解でもある。
 「人間の悲惨という輝しき存在」ということばが象徴的である。ふつうの、つまり「目」の「視線」から見れば、「悲惨」が「輝しい」というのは奇妙である。ほんらい結びついてはならないことばである。だから、そのままでは「難解」である。「難解」のなかには、すでに形成された「視線」ではとらえられない(理解できない)、まったく新しいものがあるのだ。「目」を叩き壊し、そういう新しいものを「直接」放り出すのが詩なのである。




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