清野雅巳「実家」、青野直枝「降誕祭」(「雲雀料理」6、2009年05月10日発行)
清野雅巳「実家」はことばがていねいだ。特別なことが書いてあるわけではないが、そのていねいなことばの動きに、ふっと誘い込まれる。
「そこへ母が来て」からが、とてもていねいである。なんでもないことのようだが、「テレビを消して」という1行は、最後の「遠くで車が/砂利を踏みしだいている」を静かに支えている。家のなかでテレビの音が消えているから、遠くの音が聞こえるのである。
風呂の窓が「くもりガラス」というのは、すりガラスのことなのか、湯気で曇ってのことなのか、はっきりとはしないが、たぶんすりガラスだろう。外から風呂のなかが見えないように配慮して、半透明になっているのだろう。そういう「暮らし」のありかたと、テレビは見ないときは消すという行為がゆったりと、しっかりと結びついていて、不思議に安心感がある。
くもりガラスであっても、外の様子は窺い知ることができる。「暗い」。暗いから、自然に、その外に広げる感覚も「視力」ではなく「聴力」になる。これも自然だし、それに先だつ「湯船で足を伸ばしながら」もなんともいえず気持ちがいい。足を伸ばして体を解放する。それにあわせて感覚も自然に広がっていく。その広がった感覚が、遠くの音を聞きとるのである。
ただし、この感覚は、自然と広がるものではあるけれど、そこには「意識」も働いている。広がっていく感覚を、ただ広げるのではなく、とぎすますというとおおげさになるかもしれないけれど、しっかりとその感覚を生きる。「耳をすます」。その結果として、遠くの音が耳にとどくのだ。
感覚を広げ、同時に、その感覚の広がりがとらえるものをていねいにすくい取る。ことばにする。その感覚の動きを実感すると、清野が聞きとった「音」、「車が/砂利を踏みしだく」音が、どこかで「国家」が「若者」を踏みしだく「音」とも重なって聞こえる。清野はそんなことまでは書いてはないのだが、「イラク人質事件」が、この詩では必然的なものに見えてくる。感じる人が感じればいい、自分の感覚は押しつけない、という「生きかた」が、そこには反映されているかもしれない。まず、自分自身の感覚をしっかりつかみとる、というていねいさが清野にはある。
*
青野直枝「降誕祭」には、眩暈のように美しい行がある。
「両面張りの鏡」を空と海とのあいだに水平におけば、物理的に言えば、空は「上面」、海は「下面」にしか映らない。「下面」を「低い」ととらえれば、「海」が低いにきまっている。
しかし。
空は鏡まで降りてくる。海は鏡まで昇ってくる。その「動き」を考えると、空は「低く」降りてきた。海は「高く」昇ってきた、ということになる。「低く」と「高く」が逆転する。
鏡のなかで、空と海が出会い、その固い結びつきが「低い」「高い」のなかにひそむ矛盾したものをひとつにする。
その瞬間が美しい。
清野雅巳「実家」はことばがていねいだ。特別なことが書いてあるわけではないが、そのていねいなことばの動きに、ふっと誘い込まれる。
正月
実家でテレビを見ていると
討論番組に
イラク人質事件の帰還者が
あれから四年 いや五年か
ぼくとそんなに違わない年に見える
これから国際交流のありかたについて
語るという
そこへ母が来て
風呂がわいたと告げた
ぼくはテレビを消して立ち上がった
湯船で足を伸ばしながら
くもりガラスを見た
窓の外は暗く
耳をすますと
遠くで車が
砂利を踏みしだいている
「そこへ母が来て」からが、とてもていねいである。なんでもないことのようだが、「テレビを消して」という1行は、最後の「遠くで車が/砂利を踏みしだいている」を静かに支えている。家のなかでテレビの音が消えているから、遠くの音が聞こえるのである。
風呂の窓が「くもりガラス」というのは、すりガラスのことなのか、湯気で曇ってのことなのか、はっきりとはしないが、たぶんすりガラスだろう。外から風呂のなかが見えないように配慮して、半透明になっているのだろう。そういう「暮らし」のありかたと、テレビは見ないときは消すという行為がゆったりと、しっかりと結びついていて、不思議に安心感がある。
くもりガラスであっても、外の様子は窺い知ることができる。「暗い」。暗いから、自然に、その外に広げる感覚も「視力」ではなく「聴力」になる。これも自然だし、それに先だつ「湯船で足を伸ばしながら」もなんともいえず気持ちがいい。足を伸ばして体を解放する。それにあわせて感覚も自然に広がっていく。その広がった感覚が、遠くの音を聞きとるのである。
ただし、この感覚は、自然と広がるものではあるけれど、そこには「意識」も働いている。広がっていく感覚を、ただ広げるのではなく、とぎすますというとおおげさになるかもしれないけれど、しっかりとその感覚を生きる。「耳をすます」。その結果として、遠くの音が耳にとどくのだ。
感覚を広げ、同時に、その感覚の広がりがとらえるものをていねいにすくい取る。ことばにする。その感覚の動きを実感すると、清野が聞きとった「音」、「車が/砂利を踏みしだく」音が、どこかで「国家」が「若者」を踏みしだく「音」とも重なって聞こえる。清野はそんなことまでは書いてはないのだが、「イラク人質事件」が、この詩では必然的なものに見えてくる。感じる人が感じればいい、自分の感覚は押しつけない、という「生きかた」が、そこには反映されているかもしれない。まず、自分自身の感覚をしっかりつかみとる、というていねいさが清野にはある。
*
青野直枝「降誕祭」には、眩暈のように美しい行がある。
両面張りの鏡が
上下を映したとき
より低く映るのは
空なのか海なのか
「両面張りの鏡」を空と海とのあいだに水平におけば、物理的に言えば、空は「上面」、海は「下面」にしか映らない。「下面」を「低い」ととらえれば、「海」が低いにきまっている。
しかし。
空は鏡まで降りてくる。海は鏡まで昇ってくる。その「動き」を考えると、空は「低く」降りてきた。海は「高く」昇ってきた、ということになる。「低く」と「高く」が逆転する。
鏡のなかで、空と海が出会い、その固い結びつきが「低い」「高い」のなかにひそむ矛盾したものをひとつにする。
その瞬間が美しい。