山本美代子『夜神楽』(4)(編集工房ノア、2009年04月01日発行)
山本が触れているのは何なのだろう。どの詩にも「対象」を超えた何かがある。「子守唄」には赤ん坊が登場する。
「涎」。「無垢のひかり」。このつながりはとても自然だ。赤ん坊の「無垢」としっかり結びついている。けれど、その「無垢」を「無防備」「無辺際」と押し広げて行くとき、それは「赤ん坊」を逸脱している感じがする。「赤ん坊」が「赤ん坊」ではなくなった感じがする。
そして、
と、つづけば、それはもう「赤ん坊」ではない。人間の「赤ん坊」が薔薇の蕾、藤の篭、てんとう虫、繭より重いのはわかりきっている。そのわかりきっていることを「わざと」書くとき、両手が感じているのはほんものの「赤ん坊」の「重さ」ではない。三千グラムとか四千グラムという「重さ」ではなく、もっと「抽象的」な「重さ」である。「重さ」という「概念」そのものである。
このときから「赤ん坊」は実在の赤ん坊ではなく、「赤ん坊」という意識である。
「重さ」。その充実とは対照的に「がらんどう」の空。その不思議な感覚の亀裂に「灰色の象」が侵入してくる。「灰色の象」って何? たぶん、だれにもわからない。わからない何かのために、花びらさえ「息をつめて」緊張している。
「重さ」は実は「軽さ」でもある。不安でもある。「存在の耐えられない軽さ」とミラン・クンデラは言ったが、その「不安」に通じるものが、ここにある。「いのち」に対する「不安」である。「赤ん坊」とは生まれてしまった人間であるけれど、ここには何か、生まれる前の「不安」、「いのち」がつながることの「不安」のようなものがある。
一般的に考えれば、「いのち」がつながるというのは「安心」だけれど、その「いのち」が「無垢」「無防備」であるがゆえに、「いのち」のつながりは「不安」にかわるのだ。「重さ」は「軽さ」にかわるのだ。
象は、そういう「不安」の象徴かもしれない。「赤ん坊」が引き寄せてしまう「不安」、「赤ん坊」を見守るとき、「母」のなかにふっとわいてくる「不安」かもしれない。
「不安」の「遠近法」のようなものがある。「花の透視図法」「空の黄金比」「風の平均律」……。具象と抽象がぶつかりながら「不安」を定義しようとしている。その「迷い」のようなもの、「ゆらぎ」のようなもの。
「子守唄」とは、「赤ん坊」をなだめるための歌、眠らせるための歌であるけれど、それを歌うとき、ひとは、ほんとうは自分のなかにある「不安」、「いのち」がここに存在するということに対するとらえどころのない「不安」と向き合い、それをながめようとしているのかもしれない。
「赤ん坊」のためではなく、自分自身のために歌うのだ。「不安」が、「老いた灰色の象」が、「赤ん坊が来た道」、つまり「いのち」以前の世界へと還っていきますように、と祈りながら。
「帰る」という詩の最後の2行。
あ、「帰る」とは「還る」でもある。山本は、「いのち」以前の世界、「無」の世界へ「かえる」何かがあることを知っている。「かえる」ことこそ出発することだと知っている。
「象」は「還る」。そして、その「還る」という動きかあるからこそ、「赤ん坊」が「来る」(生まれる、生きる)ということもある。「還る」と「来る」は切り離すことのできない「いのち」そのものの動きなのだ。「還る」と「来る」を常に往復しながら(同時に行ないながら)、人間は存在している。
山本が触れているのは、そういう「存在形式」である。存在の運動のありかたである。
山本が触れているのは何なのだろう。どの詩にも「対象」を超えた何かがある。「子守唄」には赤ん坊が登場する。
赤ん坊の 透き通った涎が 小さな唇から
するすると落ちて 無垢のひかりを集めてい
る 無防備な湧出 無辺際の水脈 なめらか
な輝く細い雫
「涎」。「無垢のひかり」。このつながりはとても自然だ。赤ん坊の「無垢」としっかり結びついている。けれど、その「無垢」を「無防備」「無辺際」と押し広げて行くとき、それは「赤ん坊」を逸脱している感じがする。「赤ん坊」が「赤ん坊」ではなくなった感じがする。
そして、
赤ん坊は重く 薔薇の蕾みよりも 藤の篭よ
りも てんとう虫よりも 繭よりもずっしり
と重いので 両の手に余る
と、つづけば、それはもう「赤ん坊」ではない。人間の「赤ん坊」が薔薇の蕾、藤の篭、てんとう虫、繭より重いのはわかりきっている。そのわかりきっていることを「わざと」書くとき、両手が感じているのはほんものの「赤ん坊」の「重さ」ではない。三千グラムとか四千グラムという「重さ」ではなく、もっと「抽象的」な「重さ」である。「重さ」という「概念」そのものである。
このときから「赤ん坊」は実在の赤ん坊ではなく、「赤ん坊」という意識である。
重い赤ん坊を抱いて 満開の桜が支えている
がらんどうの空の下を歩くと 赤ん坊のあと
を 灰色の象がついてくる なみうつ灰色の
皮膚 一片の花びらも零さず 息をつめてい
る花の下で 小さなあくびをする赤ん坊
「重さ」。その充実とは対照的に「がらんどう」の空。その不思議な感覚の亀裂に「灰色の象」が侵入してくる。「灰色の象」って何? たぶん、だれにもわからない。わからない何かのために、花びらさえ「息をつめて」緊張している。
「重さ」は実は「軽さ」でもある。不安でもある。「存在の耐えられない軽さ」とミラン・クンデラは言ったが、その「不安」に通じるものが、ここにある。「いのち」に対する「不安」である。「赤ん坊」とは生まれてしまった人間であるけれど、ここには何か、生まれる前の「不安」、「いのち」がつながることの「不安」のようなものがある。
一般的に考えれば、「いのち」がつながるというのは「安心」だけれど、その「いのち」が「無垢」「無防備」であるがゆえに、「いのち」のつながりは「不安」にかわるのだ。「重さ」は「軽さ」にかわるのだ。
象は、そういう「不安」の象徴かもしれない。「赤ん坊」が引き寄せてしまう「不安」、「赤ん坊」を見守るとき、「母」のなかにふっとわいてくる「不安」かもしれない。
赤ん坊を展いていく 花の透視図法 空の黄
金比 風の平均律 野の遠近法 水の屈折率
片端から欠けていく 物のかたちを埋めなが
ら 眠りつづける赤ん坊
赤ん坊が来た道を 老いた象が還っていく
ゆれながら遠ざかる 長い灰色の鼻
「不安」の「遠近法」のようなものがある。「花の透視図法」「空の黄金比」「風の平均律」……。具象と抽象がぶつかりながら「不安」を定義しようとしている。その「迷い」のようなもの、「ゆらぎ」のようなもの。
「子守唄」とは、「赤ん坊」をなだめるための歌、眠らせるための歌であるけれど、それを歌うとき、ひとは、ほんとうは自分のなかにある「不安」、「いのち」がここに存在するということに対するとらえどころのない「不安」と向き合い、それをながめようとしているのかもしれない。
「赤ん坊」のためではなく、自分自身のために歌うのだ。「不安」が、「老いた灰色の象」が、「赤ん坊が来た道」、つまり「いのち」以前の世界へと還っていきますように、と祈りながら。
「帰る」という詩の最後の2行。
無への ささやかな供物として 口を小さく
開けて 帰る
あ、「帰る」とは「還る」でもある。山本は、「いのち」以前の世界、「無」の世界へ「かえる」何かがあることを知っている。「かえる」ことこそ出発することだと知っている。
「象」は「還る」。そして、その「還る」という動きかあるからこそ、「赤ん坊」が「来る」(生まれる、生きる)ということもある。「還る」と「来る」は切り離すことのできない「いのち」そのものの動きなのだ。「還る」と「来る」を常に往復しながら(同時に行ないながら)、人間は存在している。
山本が触れているのは、そういう「存在形式」である。存在の運動のありかたである。
遠野―詩集山本 美代子花神社このアイテムの詳細を見る |