詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本美代子『夜神楽』(4)

2009-05-17 15:09:29 | 詩集
山本美代子『夜神楽』(4)(編集工房ノア、2009年04月01日発行)

 山本が触れているのは何なのだろう。どの詩にも「対象」を超えた何かがある。「子守唄」には赤ん坊が登場する。

赤ん坊の 透き通った涎が 小さな唇から
するすると落ちて 無垢のひかりを集めてい
る 無防備な湧出 無辺際の水脈 なめらか
な輝く細い雫

 「涎」。「無垢のひかり」。このつながりはとても自然だ。赤ん坊の「無垢」としっかり結びついている。けれど、その「無垢」を「無防備」「無辺際」と押し広げて行くとき、それは「赤ん坊」を逸脱している感じがする。「赤ん坊」が「赤ん坊」ではなくなった感じがする。
 そして、

赤ん坊は重く 薔薇の蕾みよりも 藤の篭よ
りも てんとう虫よりも 繭よりもずっしり
と重いので 両の手に余る

 と、つづけば、それはもう「赤ん坊」ではない。人間の「赤ん坊」が薔薇の蕾、藤の篭、てんとう虫、繭より重いのはわかりきっている。そのわかりきっていることを「わざと」書くとき、両手が感じているのはほんものの「赤ん坊」の「重さ」ではない。三千グラムとか四千グラムという「重さ」ではなく、もっと「抽象的」な「重さ」である。「重さ」という「概念」そのものである。
 このときから「赤ん坊」は実在の赤ん坊ではなく、「赤ん坊」という意識である。

重い赤ん坊を抱いて 満開の桜が支えている
がらんどうの空の下を歩くと 赤ん坊のあと
を 灰色の象がついてくる なみうつ灰色の
皮膚 一片の花びらも零さず 息をつめてい
る花の下で 小さなあくびをする赤ん坊

 「重さ」。その充実とは対照的に「がらんどう」の空。その不思議な感覚の亀裂に「灰色の象」が侵入してくる。「灰色の象」って何? たぶん、だれにもわからない。わからない何かのために、花びらさえ「息をつめて」緊張している。
 「重さ」は実は「軽さ」でもある。不安でもある。「存在の耐えられない軽さ」とミラン・クンデラは言ったが、その「不安」に通じるものが、ここにある。「いのち」に対する「不安」である。「赤ん坊」とは生まれてしまった人間であるけれど、ここには何か、生まれる前の「不安」、「いのち」がつながることの「不安」のようなものがある。
 一般的に考えれば、「いのち」がつながるというのは「安心」だけれど、その「いのち」が「無垢」「無防備」であるがゆえに、「いのち」のつながりは「不安」にかわるのだ。「重さ」は「軽さ」にかわるのだ。
 象は、そういう「不安」の象徴かもしれない。「赤ん坊」が引き寄せてしまう「不安」、「赤ん坊」を見守るとき、「母」のなかにふっとわいてくる「不安」かもしれない。

赤ん坊を展いていく 花の透視図法 空の黄
金比 風の平均律 野の遠近法 水の屈折率
片端から欠けていく 物のかたちを埋めなが
ら 眠りつづける赤ん坊
赤ん坊が来た道を 老いた象が還っていく
ゆれながら遠ざかる 長い灰色の鼻

 「不安」の「遠近法」のようなものがある。「花の透視図法」「空の黄金比」「風の平均律」……。具象と抽象がぶつかりながら「不安」を定義しようとしている。その「迷い」のようなもの、「ゆらぎ」のようなもの。

 「子守唄」とは、「赤ん坊」をなだめるための歌、眠らせるための歌であるけれど、それを歌うとき、ひとは、ほんとうは自分のなかにある「不安」、「いのち」がここに存在するということに対するとらえどころのない「不安」と向き合い、それをながめようとしているのかもしれない。
 「赤ん坊」のためではなく、自分自身のために歌うのだ。「不安」が、「老いた灰色の象」が、「赤ん坊が来た道」、つまり「いのち」以前の世界へと還っていきますように、と祈りながら。

 「帰る」という詩の最後の2行。

無への ささやかな供物として 口を小さく
開けて 帰る

 あ、「帰る」とは「還る」でもある。山本は、「いのち」以前の世界、「無」の世界へ「かえる」何かがあることを知っている。「かえる」ことこそ出発することだと知っている。
 「象」は「還る」。そして、その「還る」という動きかあるからこそ、「赤ん坊」が「来る」(生まれる、生きる)ということもある。「還る」と「来る」は切り離すことのできない「いのち」そのものの動きなのだ。「還る」と「来る」を常に往復しながら(同時に行ないながら)、人間は存在している。
 山本が触れているのは、そういう「存在形式」である。存在の運動のありかたである。



遠野―詩集
山本 美代子
花神社

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『田村隆一全詩集』を読む(87)

2009-05-17 00:53:21 | 田村隆一
 「他人」をことばのなかに引き入れながら、田村のことばはどんどん自在になる。どこへでもゆく。「アブサン」は、そうした作品群のなかにあっても傑作である。
 最終連。3行

この世の外(そと)なら
どこだっていいさ
どこだって

 どこだって「歩きたい」。1連目の書き出し「ぼくはまだ/砂漠を歩いたことがない」を手がかりにすれば、ここには「歩きたい」が省略されている。「歩きたい」は「行きたい」と同義だろうと思う。そして、そう思った瞬間、その「行きたい」は「生きたい」でもあるということに気がつく。「生きたい」はこの詩のタイトル「アブサン」(Absent」(不在)の反対語である。存在したい。どこででって、存在したい。「この世の外なら」。
 「この世の外」はふつうは「死後の世界」のことだが、田村にとっては「死後」ではなく、「生まれる前」(未分化の領土)である。
 そのこと、「この世の外」が死後ではなく、「未分化の領土」であることを語るために、この詩のことばは動いている。
 ジャン・ギャバンの主演した『地の果てを行く』から、ロートレックを経て、砂漠ではなく「断崖」をイギリスに求めて歩いたことを書き、次のようにことばは展開する。

一篇の詩
その一行 一行が断崖だとしたら
作品ははじめて死体からよみがえる
そんな作品が書けたら
北アフリカの砂漠を歩いてみるか
「アブサン!」

 「断崖」ということばは田村のひとつの理想である。いま引用した連の前(第3連)には、「ぼくは断崖そのもののような詩が書いてみたい」ということばがある。それは「この地」と「他の場」との絶対的な境目である。直立し、切り立ち、そこには「死」が隣り合わせにある。「生」と「死」が向き合ったまま、「垂直」に駆け上る。あるいは、落下する。どちらへ行くかわからない。そういう緊張した「場」である。
 そういう「場」で、

作品ははじめて死体からよみがえる

 「死体」と「よみがえる」(生)。矛盾したものが拮抗する。生から死へではなく、死から生へという動き自体が「矛盾」しているが、この「矛盾」こそ、田村のことばをつらぬくエネルギーのすべてである。「矛盾」が、互いを破壊しながら、矛盾を超越して、止揚とは無関係な何かになってしまう。「この世」にあるものではなく、「この世の外」にあるものになってしまう。
 「アブサン」(不在)の存在となって、北アフリカの砂漠を、ジャン・ギャバンのように。いや、ジャン・ギャバンを超越して。
 それは実際に歩かなくても歩いたことになる存在の仕方だ。
 ことばが、そういう「場」を獲得するなら、そこはいつでも「生」が「不在(アブサン)」の、つまり「死」でありながら、そこからはじまる「生」であるという「矛盾」なのだから、「ここ」は「ここではなく」、「ここ」であることが「北アフリカの砂漠」であるという「矛盾」を引き寄せてしまうからである。歩かなくても歩いたことになる。行かなくても、行ったことになる。それがことばの運動というものである。
 そして、田村によれば、そういう「運動」を「ことば」ではなく色彩と線で、つまり、絵画で達成したのがロートレックである。
 ロートレックを「語り直し」て、田村は次のように書いている。

ロートレックの最晩年の「砂漠」は
ムーラン街24番地
モンマルトルの娼婦の館(やかた)こそ
心という絶えず移動する水平軸
魂は断崖と砂漠をつなぐ垂直軸
肉だけで構成されている砂嵐のアトリエで
男の油彩も三百点の石版も
十九世紀最後の十年間に稲妻のごとく仕上げられたもの
十九世紀以外に「世紀末」はない

この世の外なら
どこだっていいさ
どこだって

 「この世」(十九世紀)を超越して、魂は、ここではないどこかへ、存在しない「場」を生きる。「存在しない場」であるからこそ、「アブサン(不在)」であることが「生」である。人は死ぬことで生きるのである。
 田村のことばは矛盾のなかで、矛盾を叩き壊しながら、輝く。



僕が愛した路地 (1985年)
田村 隆一
かまくら春秋社

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