池井昌樹「瞳」(朝日新聞2009年05月09日夕刊)
池井昌樹「瞳」は、池井が何度も書いている「瞳」である。池井見つめる瞳。それは、どこにでも存在する。今回書いているのは「胸の奥」にある瞳である。
なぜ、池井は同じことを繰り返すのか。それは、私にとっては「同じ」に見えるけれど、池井にとっては「同じ」に見えないからである。そして、矛盾した言い方になるが、池井にとって「同じに見えない」というのは「同じ」ということである。その「瞳」は「同じもの」である。だから「同じ」に見えない。さらに言い方を変えるなら、その「瞳」は「普遍」である。だから「同じ」にみえない。そこには、そのつど池井の「いま」が映し出される。それはたとえて言えば、完璧な鏡である。完璧な鏡は、池井をまっすぐに写し出す。きのうの池井ときょうの池井は違った存在である。鏡を覗くたびに、その違った池井が写し出される。写し出された池井は違った存在である。だから、「完璧な鏡」としての「瞳」は、池井には、日々違った存在としてあらわれる。それは、「そこ」にあるのではなく、「そこ」にあらわれる。
「瞳」は、「そこ」に「ある」のではなく、「そこ」に「あらわれる」。
凡人の私には、あらゆるものは「そこ」に「ある」か「ない」でしかないが、天才・池井にとっては、あらゆる存在は「そこ」に「あらわれる」。「ある」ものとして見れば、それはいつもの、たとえば「完璧な鏡」であるが、「あらわれる」ものとして見れば、毎日違った姿をしている。もし、同じに見えるとしても、それは錯覚である。なぜなら、その鏡を覗く「池井」という存在が「きのう」と「きょう」では違った部分をもっているはずなのに、そこに写った「池井」が同じであるということは、「鏡」のなかになにごとかの変化が起きて、「いま」「ここ」に新しくあらわれてきているのだ。
「同じ」は「存在」が「同じ」ではなく、「あらわれる」というありかたが同じなのだ。「動詞」が「同じ」。「動詞」が同じであるためには、その「主語」が変わらないいけない。「主語」が同じである時、動詞はかわる。変化というのは、そのふたつである。池井にとっての変化とは「主語」がかわるのである。
「主語」とは、「瞳」であるが、同じ「瞳」なのに、どこが違うのか? 堂々巡りのことを書いてしまうが、それは「瞳」と名付けられているだけであって、ひとつひとつは違っていて、違うことで「同じ」になるのだ。
この詩で言えば、最後の方にその特徴がでている。
それは「瞳」とともに「あらわれる」ものである。そのとき「瞳」は「ゆき」であり「さくら」である。凡人なら「雪」「桜」をそのまま書いて、「違い」を区別するが、天才・池井はそれを区別できない。「雪」と「桜」と一体となって「あらわれる」瞳に眼を奪われるからである。瞳があらわれるから、「雪」も「桜」もあらわれるにすぎない。池井は、そんなふうに世界を見ている。「雪」と「桜」は瞳と一体になってあらわれるがゆえに、その区別はない。
同様に、瞳とともにあらわれる「罪」「咎」も区別はない。
あらゆるものに区別はない。それは、「池井」と「瞳」の区別もないということ、「池井」と「瞳」は一体であるということでもある。「みなものにうかぶつきのように」一体なのである。「水」と「月」が一体であるように、「池井」と「瞳」は、そのとき一体になっている。
一体になって、池井自身が「あらわれる」と言い直せば、池井を語ったことになるだろうか。
この一体感を、池井は「さえざえ」と呼んでいる。「さえざえ」とは「透明」。「透明」とは「池井」と「対象」との間、不純なものがないということ、疎外物がないということ、つまり「一体」になっているということでもある。
池井昌樹「瞳」は、池井が何度も書いている「瞳」である。池井見つめる瞳。それは、どこにでも存在する。今回書いているのは「胸の奥」にある瞳である。
わたしのむねのおくかには
ひとみがあって
むきあおうともしなかった
ひとみがさえざえみひらかれていて
とがめるでもなくただすでもなく
ひとみがわたしをみつめていて
こんやもわたしはねむれない
みなものにうぶつきのよう
わたのしむねのおくかには
かなしくふかいひとみがあって
さえざえとたださえざえと
ひとみはみひらかれるばかり
ひとみはなにもかたらない
おおきなあなはうまらない
だまってひとりむきあっている
わたしのむねのおくかから
まれにちらつくゆきもあり
さくらまいこむよるもあり
さえざえとたださえざえと
てらしだされる
つみとがもあり
なぜ、池井は同じことを繰り返すのか。それは、私にとっては「同じ」に見えるけれど、池井にとっては「同じ」に見えないからである。そして、矛盾した言い方になるが、池井にとって「同じに見えない」というのは「同じ」ということである。その「瞳」は「同じもの」である。だから「同じ」に見えない。さらに言い方を変えるなら、その「瞳」は「普遍」である。だから「同じ」にみえない。そこには、そのつど池井の「いま」が映し出される。それはたとえて言えば、完璧な鏡である。完璧な鏡は、池井をまっすぐに写し出す。きのうの池井ときょうの池井は違った存在である。鏡を覗くたびに、その違った池井が写し出される。写し出された池井は違った存在である。だから、「完璧な鏡」としての「瞳」は、池井には、日々違った存在としてあらわれる。それは、「そこ」にあるのではなく、「そこ」にあらわれる。
「瞳」は、「そこ」に「ある」のではなく、「そこ」に「あらわれる」。
凡人の私には、あらゆるものは「そこ」に「ある」か「ない」でしかないが、天才・池井にとっては、あらゆる存在は「そこ」に「あらわれる」。「ある」ものとして見れば、それはいつもの、たとえば「完璧な鏡」であるが、「あらわれる」ものとして見れば、毎日違った姿をしている。もし、同じに見えるとしても、それは錯覚である。なぜなら、その鏡を覗く「池井」という存在が「きのう」と「きょう」では違った部分をもっているはずなのに、そこに写った「池井」が同じであるということは、「鏡」のなかになにごとかの変化が起きて、「いま」「ここ」に新しくあらわれてきているのだ。
「同じ」は「存在」が「同じ」ではなく、「あらわれる」というありかたが同じなのだ。「動詞」が「同じ」。「動詞」が同じであるためには、その「主語」が変わらないいけない。「主語」が同じである時、動詞はかわる。変化というのは、そのふたつである。池井にとっての変化とは「主語」がかわるのである。
「主語」とは、「瞳」であるが、同じ「瞳」なのに、どこが違うのか? 堂々巡りのことを書いてしまうが、それは「瞳」と名付けられているだけであって、ひとつひとつは違っていて、違うことで「同じ」になるのだ。
この詩で言えば、最後の方にその特徴がでている。
まれにちらつくゆきもあり
さくらのまいこむよるもあり
それは「瞳」とともに「あらわれる」ものである。そのとき「瞳」は「ゆき」であり「さくら」である。凡人なら「雪」「桜」をそのまま書いて、「違い」を区別するが、天才・池井はそれを区別できない。「雪」と「桜」と一体となって「あらわれる」瞳に眼を奪われるからである。瞳があらわれるから、「雪」も「桜」もあらわれるにすぎない。池井は、そんなふうに世界を見ている。「雪」と「桜」は瞳と一体になってあらわれるがゆえに、その区別はない。
同様に、瞳とともにあらわれる「罪」「咎」も区別はない。
あらゆるものに区別はない。それは、「池井」と「瞳」の区別もないということ、「池井」と「瞳」は一体であるということでもある。「みなものにうかぶつきのように」一体なのである。「水」と「月」が一体であるように、「池井」と「瞳」は、そのとき一体になっている。
一体になって、池井自身が「あらわれる」と言い直せば、池井を語ったことになるだろうか。
この一体感を、池井は「さえざえ」と呼んでいる。「さえざえ」とは「透明」。「透明」とは「池井」と「対象」との間、不純なものがないということ、疎外物がないということ、つまり「一体」になっているということでもある。
童子池井 昌樹思潮社このアイテムの詳細を見る |