林堂一「昆虫記 蓑虫」、みえのふみあき「山の端にて」ほか(「乾河」55、2009年06月01日発行)
林堂一「昆虫記 蓑虫」は、2連目に、とても惹かれた。
カミュ『異邦人』に「しいて、言えば、」ということばがあるかどうか私は覚えていないが、『異邦人』を思い出した。「太陽がぎらぎら」ということばのせいかもしれない。遠くに『異邦人』を感じながら、「存在理由」を「しいて、言えば、」に私はこころを動かされた。
いつでも、だれにでも、ことばにならないものがあるのだと思う。そして、そのことばにならないことを、そのまま「肉体」に閉じこめておく人と、それを「肉体」から「しいて、」ことばにしてしまう人がいる。
「しいて、」は「わざと」に似ているが、すこし違う。
「わざと」は嘘を含む。「しいて」は嘘を排除する動きがある。排除しようとする動きがある。なんとか真実に近づこうとする思いがある。
わざと「きみに愛されている」と言えば、ほんとうは「きみを愛していない」ことになる。しいて「きみを愛している」と言えば、それは自分自身をその方向に駆り立てていることになる。だからこそ、「しいて」には、「それだけだよ」ということばもついてくる。「しいて」は「ひとつ」に向かって動くことばなのである。
ことばは、いろんなことろへ動く可能性をもっている。それをあえて「ひとつ」にしぼりこみ、その方向へ動かす。
すると、そこからおもしろいことがはじまる。
「ひとつ」への意識が、他人を(きみを)、突き動かす。ことばに圧力をかけ、その動きをひとつにすると、たとえば広い川が急に狭まったときのように、そこでは水の流れが速くなる。その流れに、水以外のもの、たとえば水に浮かんだ落ち葉がが引き込まれる。それに似ている。「ぼく」のことばが水。「きみ」が「落ち葉」だとすれば。
ことばは、いままでそこになかったものをひきだしてしまうのである。(私の感想も、林堂の「しいて、言えば、」に引き出されたものである。)
最後の連には「風がかすかに来て」ということばがあるけれど、その風は「しいて、言えば、」が引き起こした空気の乱れのようなものかもしれない。そして、その「来て」はどこか遠くからというより、そのことばのなかから「来た」のだと思う。
ことばがある方向へ動く。動いたのはことばだけれど、ことばに視点を固定すると、そのことばに誘われて、何かがやって「来た」ようにも見ることができる。「ぼく」のことばが動くと、それにつられて「きみ」のことばがやってきたように。
「風がかすかに来て」の「来て」がとても胸に響くのは、そういうことが影響していると思う。
だからこそ、最後の1行が、なんといえばいいのだろうか、とてもおかしい。不思議なユーモアがある。1行目にもどってしまうのだけれど、ねえ、存在理由なんて、そんなおげさな……という感じ。
重いけれど、軽い。そういう楽しさがある。
*
みえのふみあき「山の端にて」は「Occurence 」シリーズ。林堂は「存在理由」ということばをつかっていたが、みえのは「存在論」を書いている。存在する「こと」をことばで引き出そうとしている。「こと」というのは、ことばをつかって引き出すときだけ、目の前にあらわれてくる。
「山の端」という「こと」をみえのは描く。山の端という「場」、あるいは「形」というものではなく、「山の端」というのは、どうしてそこに出現し、存在し得ているのかをことばで迫ろうとしている。「遥かなだけの遠さ」から「少女にとどかぬ少年の眼差し」という抒情へことばが動いてしまう。抒情になってしまうと「こと」は存在論から「精神論」というか「形而上学」(?)になってしまう。たぶん、そういうことを、みえのは好まない。「形而下学」としての「こと」というものが、どこかに意識されている。だから、おおいそぎで「あるいは」と言い換える。そして、「石ころ」に視点を収斂させようとする。--この過程が、とてもおもしろい。
「存在論」を詩でどう表現するか。「こと」の世界を、詩でどう表現するか。みえののことばは、いつも、それを意識しながら動いている。
そして、それは「石ころ」のような無機質の小さなものに出会ったとき、とても美しく結晶する。
「石ころ」は「ことば」でもある。
*
有田忠郎「グラック・ノート」は詩人グラック・ノートに関するメモである。その最後の部分。
ことばと「耳」の問題に触れていて、印象に残った。
林堂一「昆虫記 蓑虫」は、2連目に、とても惹かれた。
存在理由を言われると
よわるんだ
そんなもんあるわけないよって
開き直るのは簡単だけれど
太陽がぎらぎら
たったそれだけの理由で
踏みつぶされても
文句は言えないし
しいて、
言えば、
きみに愛されている
それだけだよ
きみがいなくなったら
ぼくもいなくなっちゃう
カミュ『異邦人』に「しいて、言えば、」ということばがあるかどうか私は覚えていないが、『異邦人』を思い出した。「太陽がぎらぎら」ということばのせいかもしれない。遠くに『異邦人』を感じながら、「存在理由」を「しいて、言えば、」に私はこころを動かされた。
いつでも、だれにでも、ことばにならないものがあるのだと思う。そして、そのことばにならないことを、そのまま「肉体」に閉じこめておく人と、それを「肉体」から「しいて、」ことばにしてしまう人がいる。
「しいて、」は「わざと」に似ているが、すこし違う。
「わざと」は嘘を含む。「しいて」は嘘を排除する動きがある。排除しようとする動きがある。なんとか真実に近づこうとする思いがある。
わざと「きみに愛されている」と言えば、ほんとうは「きみを愛していない」ことになる。しいて「きみを愛している」と言えば、それは自分自身をその方向に駆り立てていることになる。だからこそ、「しいて」には、「それだけだよ」ということばもついてくる。「しいて」は「ひとつ」に向かって動くことばなのである。
ことばは、いろんなことろへ動く可能性をもっている。それをあえて「ひとつ」にしぼりこみ、その方向へ動かす。
すると、そこからおもしろいことがはじまる。
わたしくだってそうだわ
あなたが存在理由
「ひとつ」への意識が、他人を(きみを)、突き動かす。ことばに圧力をかけ、その動きをひとつにすると、たとえば広い川が急に狭まったときのように、そこでは水の流れが速くなる。その流れに、水以外のもの、たとえば水に浮かんだ落ち葉がが引き込まれる。それに似ている。「ぼく」のことばが水。「きみ」が「落ち葉」だとすれば。
ことばは、いままでそこになかったものをひきだしてしまうのである。(私の感想も、林堂の「しいて、言えば、」に引き出されたものである。)
茶柱の鎧に身をかためた蓑虫と
スエードのコートを着た蓑虫が
二疋
シャシャンボの枝からぶらさがって
きれぎれに
そんな会話をかわしている
風がかすかに来て
揺れて
存在理由がよろけて
もひとつの存在理由にちょっと触れた
最後の連には「風がかすかに来て」ということばがあるけれど、その風は「しいて、言えば、」が引き起こした空気の乱れのようなものかもしれない。そして、その「来て」はどこか遠くからというより、そのことばのなかから「来た」のだと思う。
ことばがある方向へ動く。動いたのはことばだけれど、ことばに視点を固定すると、そのことばに誘われて、何かがやって「来た」ようにも見ることができる。「ぼく」のことばが動くと、それにつられて「きみ」のことばがやってきたように。
「風がかすかに来て」の「来て」がとても胸に響くのは、そういうことが影響していると思う。
だからこそ、最後の1行が、なんといえばいいのだろうか、とてもおかしい。不思議なユーモアがある。1行目にもどってしまうのだけれど、ねえ、存在理由なんて、そんなおげさな……という感じ。
重いけれど、軽い。そういう楽しさがある。
*
みえのふみあき「山の端にて」は「Occurence 」シリーズ。林堂は「存在理由」ということばをつかっていたが、みえのは「存在論」を書いている。存在する「こと」をことばで引き出そうとしている。「こと」というのは、ことばをつかって引き出すときだけ、目の前にあらわれてくる。
山の端は距離である
ただ遥かななだけの遠さである
少女にとどかぬ少年の眼差し
あるいはみだれた文脈の自己増殖に
終止符をうつことができるのは
小さな石ころひとつ
「山の端」という「こと」をみえのは描く。山の端という「場」、あるいは「形」というものではなく、「山の端」というのは、どうしてそこに出現し、存在し得ているのかをことばで迫ろうとしている。「遥かなだけの遠さ」から「少女にとどかぬ少年の眼差し」という抒情へことばが動いてしまう。抒情になってしまうと「こと」は存在論から「精神論」というか「形而上学」(?)になってしまう。たぶん、そういうことを、みえのは好まない。「形而下学」としての「こと」というものが、どこかに意識されている。だから、おおいそぎで「あるいは」と言い換える。そして、「石ころ」に視点を収斂させようとする。--この過程が、とてもおもしろい。
「存在論」を詩でどう表現するか。「こと」の世界を、詩でどう表現するか。みえののことばは、いつも、それを意識しながら動いている。
そして、それは「石ころ」のような無機質の小さなものに出会ったとき、とても美しく結晶する。
山の端を夕日が溶かす
だれもそこに立つことはできない
ぼくも立てばもはや山の端ではない
はるか彼方に象の背のように
新しい山の端が眠っている
ぼくは石ころを蹴とばす。
「石ころ」は「ことば」でもある。
*
有田忠郎「グラック・ノート」は詩人グラック・ノートに関するメモである。その最後の部分。
「作品における固有名詞は、文章の中に有機体のように溶け込むようでなければなりません。そうすれば文体の質がかわるのです。極端な場合、短い詩だと固有名詞の間に組織される響きのシステムがし全体を支配することもあります。」グラックの書き方の特質のひとつがここにある。
ことばと「耳」の問題に触れていて、印象に残った。
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