天沢退二郎「大福山系画幅志 2」(「現代詩手帖」2009年05月号)
いくつかの断章(?)で構成された連作である。その「五」の部分に、とても惹かれた。竹藪がある。「1センチの隙間さえない密生林」なのだが、その竹藪のなかから「あかり」が漏れるのをみた人がいるという。その「あかり」の真相とは……。
なぜ、この部分をおもしろく感じたのか、私にはよくわからない。(と、書くと天沢に申し訳ないのだが……。)
ビワがビワではなく、竹が竹ではなく、人間のように見えたから--としか言いようがないのだが、それが人間のように見えた理由は何だろうか。「危篤」「看病」「葬儀」というような、人間のいのちにかかわることばがつかわれているからだろうか。
それももちろんあるだろうけれど。
それよりも、「それが、やがて生い茂る篠竹に囲まれて」の「やがて」、「それでも風は通るし」の「それでも」、それから次々に行に出てくる「めぐまれて」「それも限界があって」「しばらく前から」となどの「口調」の「ていねいさ」に理由があるように思える。ゆっくり進むことばに、引きつけられるのである。
「物語」というと奇妙な言い方になるのかもしれないけれど、天沢の書いている「夢」とも「幻」ともつかないような作品は、それがいわゆる「現実」ではないだけに、ことばがどれだけスピードをあげても速すぎるということはない。むしろ、速いほうが快適、気持ちがいいということもある。え、こんなところまで想像力は行ってしまうことができるか、と感激する。飛躍が多く、どんどん「いま」「ここ」から遠ざかるそのスピードにかっこいいなあ、と思ったりもする。
ほんらい、そういう超スピード感で取り仕切られるはずのことばの運動のなかに、こういうゆったりと、時間をていねいに追った「口調」が、「理由」といっしょに語られると、ぐいと、そこに引き込まれてしまう。この「引き込む」は、そして、天沢が引き込むというより、思わず私のほうから天沢の方へ近づいていく、のめりこんでゆくという感じなのである。「かっこいいなあ」と見とれているのとは逆に(逆に、というのは少し変かもしれないが、ようするに「距離」をとって眺めているのではなく)、一歩、ことばのなかへ踏み込んでいく感じがする。
そして、それは、天沢がここで書いている「やがて」や「しばらく前」が単に「時間」を指し示すだけではなく、その「時間」に「理由」がぴったり寄り添っているから、そういう印象が生まれるのだとも思う。「時間」と「理由」が重なり合う。あるいは、「理由」が「時間」を作り上げているといえばいいのだろうか。「時間」は単に何秒、何分、何時間という計測単位とともに「不変の形」(一種の「物差し」)としてあるのではなく、何か「理由」があれば、その「理由」によって伸び縮みするものなのだ。
逆に言えば(別の角度から言えば?)、天沢は、「時間の経過」に「理由」を織りまぜることで、「時間」を伸び縮みさせている。そういう変化がはっきりとことばのなかにあらわれるように、ていねいにことばを動かしている。それも、何か新しい表現によってというのではなく、むしろ、長い長い文学の歴史のなかで語られつづけ、語られつづけることによって、「無意識」にまでなってしまったようなことばをつかうことによって。
そして、それは、
という1行に凝縮する。「死んでしまった」ではなく「はかなくなる」。「はかなく」ということばの美しさ、その「美しさ」に「なる」という動き。
あ、ことばとは、こんなふうに「美しくなる」ことで生きていくんだなあ、「美しくなる」ことで「時間」を超えるんだなあ、というようなことを、ふと考えてしまうのである。
同時に、あ、昔は(?)、こんなふうにして、「時間」をゆっくりとていねいに見る視点があったのだあ、とも思う。
書かれている内容ではなく、その書き方、そのことばの動きかたに、引きつけられ、いいなあ、と思うのである。
いくつかの断章(?)で構成された連作である。その「五」の部分に、とても惹かれた。竹藪がある。「1センチの隙間さえない密生林」なのだが、その竹藪のなかから「あかり」が漏れるのをみた人がいるという。その「あかり」の真相とは……。
見棄てられた畑地が篠竹やぶになるに先立ち
某女が使っていた古井戸のわきに
一本、実生(みしょう)のビワの樹が移植されていて
順調に行けば数年後には実もつけるはずだった
それが、やがて生い茂る篠竹に囲まれ、おおい隠され
陽もささず、それでも風は通るし雨や地下水には
めぐまれて細々と生き延びていたが
それも限界があって、しばらく前から
危篤状態になってしまった。
周囲の篠竹たちも心配して
夜はうす灯りをともして看病したが
ついにはかなくなってしまったという。
竹の精たちがその遺体を処理して
古井戸の底へ埋めたあと、
せい一杯の灯をともして葬儀をしたのだった。
なぜ、この部分をおもしろく感じたのか、私にはよくわからない。(と、書くと天沢に申し訳ないのだが……。)
ビワがビワではなく、竹が竹ではなく、人間のように見えたから--としか言いようがないのだが、それが人間のように見えた理由は何だろうか。「危篤」「看病」「葬儀」というような、人間のいのちにかかわることばがつかわれているからだろうか。
それももちろんあるだろうけれど。
それよりも、「それが、やがて生い茂る篠竹に囲まれて」の「やがて」、「それでも風は通るし」の「それでも」、それから次々に行に出てくる「めぐまれて」「それも限界があって」「しばらく前から」となどの「口調」の「ていねいさ」に理由があるように思える。ゆっくり進むことばに、引きつけられるのである。
「物語」というと奇妙な言い方になるのかもしれないけれど、天沢の書いている「夢」とも「幻」ともつかないような作品は、それがいわゆる「現実」ではないだけに、ことばがどれだけスピードをあげても速すぎるということはない。むしろ、速いほうが快適、気持ちがいいということもある。え、こんなところまで想像力は行ってしまうことができるか、と感激する。飛躍が多く、どんどん「いま」「ここ」から遠ざかるそのスピードにかっこいいなあ、と思ったりもする。
ほんらい、そういう超スピード感で取り仕切られるはずのことばの運動のなかに、こういうゆったりと、時間をていねいに追った「口調」が、「理由」といっしょに語られると、ぐいと、そこに引き込まれてしまう。この「引き込む」は、そして、天沢が引き込むというより、思わず私のほうから天沢の方へ近づいていく、のめりこんでゆくという感じなのである。「かっこいいなあ」と見とれているのとは逆に(逆に、というのは少し変かもしれないが、ようするに「距離」をとって眺めているのではなく)、一歩、ことばのなかへ踏み込んでいく感じがする。
そして、それは、天沢がここで書いている「やがて」や「しばらく前」が単に「時間」を指し示すだけではなく、その「時間」に「理由」がぴったり寄り添っているから、そういう印象が生まれるのだとも思う。「時間」と「理由」が重なり合う。あるいは、「理由」が「時間」を作り上げているといえばいいのだろうか。「時間」は単に何秒、何分、何時間という計測単位とともに「不変の形」(一種の「物差し」)としてあるのではなく、何か「理由」があれば、その「理由」によって伸び縮みするものなのだ。
逆に言えば(別の角度から言えば?)、天沢は、「時間の経過」に「理由」を織りまぜることで、「時間」を伸び縮みさせている。そういう変化がはっきりとことばのなかにあらわれるように、ていねいにことばを動かしている。それも、何か新しい表現によってというのではなく、むしろ、長い長い文学の歴史のなかで語られつづけ、語られつづけることによって、「無意識」にまでなってしまったようなことばをつかうことによって。
そして、それは、
ついにはかなくなってしまったという。
という1行に凝縮する。「死んでしまった」ではなく「はかなくなる」。「はかなく」ということばの美しさ、その「美しさ」に「なる」という動き。
あ、ことばとは、こんなふうに「美しくなる」ことで生きていくんだなあ、「美しくなる」ことで「時間」を超えるんだなあ、というようなことを、ふと考えてしまうのである。
同時に、あ、昔は(?)、こんなふうにして、「時間」をゆっくりとていねいに見る視点があったのだあ、とも思う。
書かれている内容ではなく、その書き方、そのことばの動きかたに、引きつけられ、いいなあ、と思うのである。
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