詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

前原正治『水 離(か)る』

2009-05-26 10:43:28 | 詩集
前原正治『水 離(か)る』(土曜美術出版、2008年11月20日発行)

 ことばは何のためにあるか。たぶん、見えないものを見るためにある。見えるものの陰に隠れてしまっているものを浮かび上がらせるためにある。そんなことを考えた。
 「水 離る」のなかほど。

世界は
剥き出しの悪意にみちて
ひりひりしている
そこに
直に投げ出され
晒されている子供の身体の中で
ただ一つ眼(まなこ)だけが
かろうじて涙の一滴の
その億分の一の水気を残しているのか
一匹の蠅が
子供の目尻に
必死にしがみつき
口吻を突き出し
舐(な)めている

 砂漠の瀕死の子供。その子供の顔に蠅がたかっている。その蠅の欲望を「水」にしぼりこむとき、世界が浮かび上がる。「汗」ではなく「涙」。それも「億分の一の水気」。見えないものを見る視力。そこに「思想」がある。

かつて
生まれる前の
緑の風の非在のそよぎを
夢みていた日々は遠く
(略)
……いのちから
水 離(か)る
真夏の日射しの
いま

 「生まれる前」とは、すべての人間の「いのち」のことである。それは現実には存在しないが、確実に存在する。現実には存在しない、というのは、その「いのち」は「未分化」である、ということだ。その「未分化」の「いのち」は、やはり「非在の」「風のそよぎ」を見る。「いのち」がやさしい風に吹かれる。そして、風と一体になり、緑と一体になる。
 --というより「未分化」だから、それは最初から一体である。「一体」だった「いのち」がひとりになり、緑になり、風になる。世界になる。
 それが、いま、幼いまま、小さな「水」になって、離れていく。そのとき、世界は崩壊する。
 前原は、それを見つめている。

 「前田敦さんへの<鎮魂歌>」というサブタイトルのついた「こおろぎ」という作品の後半。

息絶えだえに一匹のこおろぎが
ひとの身代わりに
せつなく世界を歌う
そのはかなさを そのうつくしさを
歌は
世界をふるわせ
世界にしみいっていく
そして
世界も
ふいに息をとめたこおろぎになる

 世界が崩壊した瞬間、そこにはまた何かが生まれる。世界から離れた瞬間、世界が何かに凝縮する。相反する動きが、相反する動きであることによって、見えない何かに凝縮する。その瞬間を、前原は、この詩では「こおろぎ」ということばで見ている。

 相反する動き--その瞬間の凝縮、そして結晶。そういうものを前原は、いつも見ようとしているようである。
 「辛夷」の後半。

膨らみ出した辛夷(こぶし)の蕾の
その一つひとつに
蝉の幼虫のような
透明な仏が眠っている
花開き
光に刺し殺され
宙吊りにされる日を待ちつつ

 「光に刺し殺され/宙吊りにされる」が、いい。死ぬことが生まれることなのである。砂漠の子どもは、蠅に涙の一滴、最後のいのちの「水」を奪われて死んでゆく。死んでゆくことによって、前原のことばのなかに生きる。読んだひとのこころのなかに生きる。生まれる。 


水離(か)る―前原正治詩集
前原 正治
土曜美術社出版販売

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『田村隆一全詩集』を読む(96)

2009-05-26 00:03:13 | 田村隆一

 「第六景 さかさ川早春賦」。「さかさ」というのは、一種の「矛盾」である。1連目には、次の形で書かれている。

水仙の花はいつのまにか消えた
春の雪が降って
その雪が消えたら
クロッカスの小さな花が咲いた
民家の庭に
冬のあいだじゅう一羽で棲みついていた
単独者のジョウビタキも
氷の国へ帰ってしまった
この単独者は
立ち去ることで日本列島に

がきたことをぼくらに告知する

 クロッカスは咲くことで早春を告げる。やって来ることで何かを告げる。存在が何かを告げる--ここには矛盾はない。ジョウビタキは去ることで春を告げる。不在が何かを告げる。これは「矛盾」である。不在のものは何も告げることはできない。不在のものが、どうやって、「いま」「ここ」にいる誰かにむかって何かを告げるというのは「矛盾」である。「不在のもの」と「存在するもの」は同時には存在し得ないからである。
 この論理は、次のように言い換えると、「矛盾」ではなくなる。「不在のもの」(いままでここにいたが、いまはここにいないもの)は、その存在するということを別の存在に譲ったのである。「不在のもの」のかわりに「別の存在」がいま、ここにいて、その交代した何かが、何事かを告げる。
 だが、田村は、その交代したものを、ここでは明確にしていない。だから、それは「矛盾」したままである。こういう「矛盾」が田村は大好きである。
 だからこそ、「さかさ川」という存在に目を向ける。

ぼくは下駄をはいて
小町から大町の裏通り
安養院のそのまた裏の小路を歩いていくと
緑の血管のような
細い川が流れていて
土地の人は
さかさ川と呼んでいる
昔は
海の潮が逆流してきたのでそんな名前が生まれたのだという
その川をさかさに歩いていくと
小さな飲み屋があって

 川は山から海の方へ流れる。その流れが、潮のために逆向きのために「さかさ」になる。この「さかさ」のなかにも「矛盾」がある。もちろん、「潮」を主語にすれば「矛盾」は消えるが、「川」が主語であるかぎり、それは「矛盾」である。
 そして、この「矛盾」は、ジョウビタキが不在であることによって春を告げるというのといくらか似ている。山から海への「流れ」が不在であり、それにかわって「潮」が「不在」を埋めるようにして、海から山へ流れる。
 そうなのだ。
 田村の「矛盾」は、単に、ある存在の不在を何かが埋め合わせ、何かを語るだけではなく、いままでそこにいたもの(そこにあったもの)の動きそのものを逆転させるのである。
 ジョウビタキは「冬」を連れてきた。それが不在であるとき、何かは、その冬のやってきた方向へ逆に突き進み、そうすることで「春」を告げる。
 この動きを明確にするために、田村は「さかさ川早春賦」の1連目にジョウビタキを書いたのだ。1連目がなくても、「さかさ川早春賦」の「本論」(?)の部分は、少しも変わらない。ことばの動きがかわるわけではない。「さかさ川」で言いたいことを、1連目で少し披露しているのだ。あらかじめ、「幅」をもたせているのだ。「矛盾」をさりげなく、ここにも、こんなふうにして「矛盾」がある、と教えているのだ。

 そして、その「矛盾」に重ね合わせるようにして、田村は、飲み屋であった経済学博士との談話を書きつないでいく。

日曜日の午前十時ウサギ博士から電話で呼び出されて
ぼくはさかさ川をさかのぼり
居酒屋にたどりついたのだが

なんのことはない
鎌倉の八甲田山のてっぺんのウサギ博士の
自宅の奥さんと娘さんが恐いものだから
ぼくを共犯者に仕立て上げるこんたんなのだ

人間には
どこか悲惨で滑稽なところがある
どんな人間の心の中にも
さかさ川は流れているが

 「人間の心の中にも」、ある方向を「わざと」逆に動くものがある。そして、それは「わざと」そんなふうに動くことで、この世界の流れが、正反対のものがいっしょに存在することで成り立っている。「矛盾」があるから、おもしろく動いていると、田村は考えているのだ。
 「矛盾」は、いつでも田村の思想なのだ。

 この詩にも、注釈がついている。この注釈も、また、非常におもしろい。

「さかさ川」という名前が、ぼくには気に入っている。そして、「さかさ川早春賦」というぼくの詩が、ぼくは大好きだ。しかし、そのかわりに、ウサギ博士のご夫人から、ぼくはしかられて、いまでもご夫妻には頭をさげて歩いている。

 原文の「ぼくは大好きだ」の「ぼく」には傍点が打ってある。「ぼくは」大好きだが、そうでない人もいる。つまり「ウサギ博士のご夫人」は、この詩が好きではない。「ウサギ博士」が奥さんを恐がっている、と書いたからだ。詩に書かれたことがいやなのだ。
 でも、田村は、この詩が好き。
 ここにも、「さかさ川」と同じような、どうしようもない「矛盾」がある。ジョウビタキの不在が春を告げるというのは同じような「矛盾」がある。
 ウサギ博士夫妻は、この詩が嫌い。でも、田村が、この詩が好きであるように、私もこの詩が好き。嫌いなものがいて、その「嫌い」という流れを「さかさ」に動いていって、私はウサギ博士に会う。彼ら夫婦に会う。田村に会う。

 田村の「矛盾」は、こういうことも含む。





青いライオンと金色のウイスキー (1975年)
田村 隆一
筑摩書房

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