前原正治『水 離(か)る』(土曜美術出版、2008年11月20日発行)
ことばは何のためにあるか。たぶん、見えないものを見るためにある。見えるものの陰に隠れてしまっているものを浮かび上がらせるためにある。そんなことを考えた。
「水 離る」のなかほど。
砂漠の瀕死の子供。その子供の顔に蠅がたかっている。その蠅の欲望を「水」にしぼりこむとき、世界が浮かび上がる。「汗」ではなく「涙」。それも「億分の一の水気」。見えないものを見る視力。そこに「思想」がある。
「生まれる前」とは、すべての人間の「いのち」のことである。それは現実には存在しないが、確実に存在する。現実には存在しない、というのは、その「いのち」は「未分化」である、ということだ。その「未分化」の「いのち」は、やはり「非在の」「風のそよぎ」を見る。「いのち」がやさしい風に吹かれる。そして、風と一体になり、緑と一体になる。
--というより「未分化」だから、それは最初から一体である。「一体」だった「いのち」がひとりになり、緑になり、風になる。世界になる。
それが、いま、幼いまま、小さな「水」になって、離れていく。そのとき、世界は崩壊する。
前原は、それを見つめている。
「前田敦さんへの<鎮魂歌>」というサブタイトルのついた「こおろぎ」という作品の後半。
世界が崩壊した瞬間、そこにはまた何かが生まれる。世界から離れた瞬間、世界が何かに凝縮する。相反する動きが、相反する動きであることによって、見えない何かに凝縮する。その瞬間を、前原は、この詩では「こおろぎ」ということばで見ている。
相反する動き--その瞬間の凝縮、そして結晶。そういうものを前原は、いつも見ようとしているようである。
「辛夷」の後半。
「光に刺し殺され/宙吊りにされる」が、いい。死ぬことが生まれることなのである。砂漠の子どもは、蠅に涙の一滴、最後のいのちの「水」を奪われて死んでゆく。死んでゆくことによって、前原のことばのなかに生きる。読んだひとのこころのなかに生きる。生まれる。
ことばは何のためにあるか。たぶん、見えないものを見るためにある。見えるものの陰に隠れてしまっているものを浮かび上がらせるためにある。そんなことを考えた。
「水 離る」のなかほど。
世界は
剥き出しの悪意にみちて
ひりひりしている
そこに
直に投げ出され
晒されている子供の身体の中で
ただ一つ眼(まなこ)だけが
かろうじて涙の一滴の
その億分の一の水気を残しているのか
一匹の蠅が
子供の目尻に
必死にしがみつき
口吻を突き出し
舐(な)めている
砂漠の瀕死の子供。その子供の顔に蠅がたかっている。その蠅の欲望を「水」にしぼりこむとき、世界が浮かび上がる。「汗」ではなく「涙」。それも「億分の一の水気」。見えないものを見る視力。そこに「思想」がある。
かつて
生まれる前の
緑の風の非在のそよぎを
夢みていた日々は遠く
(略)
……いのちから
水 離(か)る
真夏の日射しの
いま
「生まれる前」とは、すべての人間の「いのち」のことである。それは現実には存在しないが、確実に存在する。現実には存在しない、というのは、その「いのち」は「未分化」である、ということだ。その「未分化」の「いのち」は、やはり「非在の」「風のそよぎ」を見る。「いのち」がやさしい風に吹かれる。そして、風と一体になり、緑と一体になる。
--というより「未分化」だから、それは最初から一体である。「一体」だった「いのち」がひとりになり、緑になり、風になる。世界になる。
それが、いま、幼いまま、小さな「水」になって、離れていく。そのとき、世界は崩壊する。
前原は、それを見つめている。
「前田敦さんへの<鎮魂歌>」というサブタイトルのついた「こおろぎ」という作品の後半。
息絶えだえに一匹のこおろぎが
ひとの身代わりに
せつなく世界を歌う
そのはかなさを そのうつくしさを
歌は
世界をふるわせ
世界にしみいっていく
そして
世界も
ふいに息をとめたこおろぎになる
世界が崩壊した瞬間、そこにはまた何かが生まれる。世界から離れた瞬間、世界が何かに凝縮する。相反する動きが、相反する動きであることによって、見えない何かに凝縮する。その瞬間を、前原は、この詩では「こおろぎ」ということばで見ている。
相反する動き--その瞬間の凝縮、そして結晶。そういうものを前原は、いつも見ようとしているようである。
「辛夷」の後半。
膨らみ出した辛夷(こぶし)の蕾の
その一つひとつに
蝉の幼虫のような
透明な仏が眠っている
花開き
光に刺し殺され
宙吊りにされる日を待ちつつ
「光に刺し殺され/宙吊りにされる」が、いい。死ぬことが生まれることなのである。砂漠の子どもは、蠅に涙の一滴、最後のいのちの「水」を奪われて死んでゆく。死んでゆくことによって、前原のことばのなかに生きる。読んだひとのこころのなかに生きる。生まれる。
水離(か)る―前原正治詩集前原 正治土曜美術社出版販売このアイテムの詳細を見る |