詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本美代子『夜神楽』

2009-05-14 09:11:01 | 詩集
山本美代子『夜神楽』(編集工房ノア、2009年04月01日発行)

 山本美代子の感覚が共振している世界はとても深い。広い。
 「帰る」。

結婚斑をつけた サクラマスのように 小さ
く口を開けて帰る 未生の記憶のなかの 肌
に添う 懐かしい水のある処まで

 これは神楽を舞い終えて舞台を降りる役者(演者)の姿であろう。呼吸が荒くなって、もう口が自然に開いてしまう。それでも、まだだらしない身体を見せたくないので、そっと口を開いている。押しとどめている。その姿からマスを連想している。人間とマスが重なる。そして、その重なりの中に、「いのち」が浮かび上がる。
 「未生の記憶のなかの 肌に添う 懐かしい水」。それは「口に含む水」「飲み水」を超えて、「いのち」を抱いている水、羊水のように感じられる。
 「水」をくぐり、「水」のなかで、生まれ変わる。生まれ変わるというのは、誕生するということでもある。水の中には「いのち」のドラマがある。そして、そのドラマのなかで、あらゆるものが入れ代わる。人間はマスになることができる。また人間は、神楽の登場人物になることができる。もちすん、その登場人物から人間に、マスから人間になることもできる。「水」によって。「羊水」のなかで育てられてきた「いのち」が「水」からでて、「水」を飲む。肌に添っていた水が「肉体」のなかを流れる。そのとき、ふたつの「水」はとけあっている。「肉体」そのものが「水」になっている。だからこそ、マスにもなれるのだ。

河のかたちに蛇行したあと すべて海に消え
る物語を遡る 膨張するピポポタマスの 重
量をかきわけ 人の顔をした鳥の飛跡を追っ


 「海に消える物語を遡る」。このことばのなかにある反対の方向の運動の統一。川は山から海へ流れる。マスは海から山へ帰る。遡る。最初に引用した部分には「未生の記憶」ということばがあったが、「未生の記憶」へ帰るのも、時間を「遡る」ことである。
 過去を耕す。時間を耕す。そのとき、あらゆる「いのち」が出合う。--山本の思想・哲学は、そこにある。

夜神楽を舞う若者は 同じ平面で 飽かず 
繰り返し旋回する ひとつ回って 取り外す
地のえにし ふたつ回って 振り切る 肉の
しがらみ かぞえきれず回って 幻暈のロー
トの中 限りなく覚めている現存
海への ささやかな供物として 口を小さく
開けて 帰る

 「現存」ということばが思わず出てくる。しかし、それをすぐにサケの「口を小さく開けて」という姿に引き戻す。ことばを必ず具体的な描写へかえす姿勢に、山本の思想のたしかさがある。広さがある。広いから、どこへ還っても「いのち」のかたちになる。

 「指」は薔薇と指の関係、指さすものと指さされるものの関係を描いている。

よあけ 開きはじめた 薔薇の蕾を指差し
て 薔薇色の色彩に染まる指

 指さすことは、対象になることなのだ。何かを認識するということは、何かになることなのだ。「マス」とことばにすればマスになる。薔薇とことばにすれば薔薇になる。かけ離れたふたつのものをことばがつなぐとき、そこでは「いのち」がつながっている。

よる 闇の中で 色彩の無い薔薇を指差しつ
ずける指 約束は永遠に守られるだろう
薔薇は咲ききって ある刻ふいに崩おれて 
散る 指差したものに指差される 死すべき
ものの 感触のある指
弥勒菩薩の頬に添えられた 指差すことのな
い しなやかな 指の形

 だが、ほんとうに弥勒菩薩の指は何も指さしていないのか。何も指ささないということは「無」を指さすと言い換えてもいいかもしれない。きっとそうに違いないと思う。
 「指差したものに指差される」とは、川を遡るマスの運動に似通ったところがある。そこではふたつの逆向きの、つまり対立する(矛盾する)運動がある。対立・矛盾の「場」というのは「無」に通じる。「無」とは「明確なひとつの形(運動形式)がない」ということであって、何も存在しないということではない。どこにでもエネルギーはある。「いのち」の運動がある。そして、その運動は、何かに逆らうようにして常に動いている。矛盾を超越して動いている。そういう「場」が「無」である。(「帰る」の最後にでてきた「無への ささやかな供物」というときの「無」も同じである。「未生」としての「場」である。「未生」は未だ生まれていないではなく、これから生まれる、という意味である。「未来」が未だ来ないではなく、これから必ずやって来る、という意味であるように。)

 指は、何かを指さすことで「無」に触れるのだ。そうであるなら、ことばもまた、何かを「指さす」ことで「無」に触れる。



 蛇足だが「指差しつずける指」は「つづける」がいいだろう。「帰る」の「幻暈」は私は「眩暈」と読んだ。

山本美代子詩集 (1982年) (日本現代女流詩人叢書〈第11集〉)
山本 美代子
芸風書院

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『田村隆一全詩集』を読む(84)

2009-05-14 00:34:26 | 田村隆一

 「油」には「物」が出てくる。すでに田村が何度か書いている。「物」。

枯れ草の細い道を歩いて行くと
「物」つくっている仕事場にたどりつく
むろん
「物」は人が作るのだが その人も
「物」にならないければ「物」はうまれない
人間が「物」になる仕事場には
どんな秘密がかくされているか

 これでは堂々巡りである。なぜ、堂々巡りが起きるのか。「定義」が不完全だからである。「物」とは何なのか--その「定義」が不完全である。
 「物」とは何?
 「物」とは単なる存在ではない。「物」と抽象的にいわれているのは、それが「抽象」でしかいいあらわすことのできない存在だからである。「机」「椅子」あるいは「機械」という個別の名詞をもった存在ではなく「物」。個別の存在ではなく、存在を「個別」に存在させる前の、「未分化」のものが「物」と呼ばれているのだ。
 何かを作るとは、その素材を破壊し(○○をつくるための「素材」という概念から解放し)、その素材の新しい可能性を引き出すということである。こういうことができるのは、こういうことをするためには、まず人間は△△という素材は○○をつくるためのもの、という概念を叩き壊さなければならない。人間が自分のもっている(自分がしばられている)概念を叩き壊し、概念のない状態=物になってしまわなければならない。概念のない状態、概念というものがうまれてくる前の状態になってしまわなければならない。そういう状態になって△△という素材を見ると(「肉眼」で見ると)、それは○○をつくるためのものという「枠」がら解放されて、何につかっていいかわからない存在になる。何につかうかという「分化」が起きていない状態、「未分化」の状態になってしまっている。
 そこからしか、「物」はつくれない。

 「概念なし」--これを、田村は「無私」と言い換えている。

「物」が「物」を作る
無私とはこういうことかと ぼくは観察するよりほかにない

 この「無私」の「無」は「カオス」(混沌)の「無」と同じである。何もないのではなく、そこにはエネルギーはある。エネルギーを形にする定まった様式がないというだけである。様式なし、「未分化」のエネルギーだけがある。「私」は「分化」していない。「人間」そのものになっている。「肉体」そのものになっている。

 この「無私」をさらに、田村は言い換えている。

「私」を滅却するためには若干時間がかかる

 「私」を「滅却」した状態が「無私」である。「私」が存在しなくなった状態が「物」ということになる。「私」が「私」であることをやめ、「未分化」の「いのち」そのものになったとき、素材もまた△△という名前であることはできない。むりやりいってしまえば「無・素材」というものになる。名前のないもの、「未分化」のものになる。「未分化」のものが出会い、そこで、いままでなかった「分化」の化学反応をおこす。
 核融合をおこす。
 そのとき「物」は誕生する。
 そして、その運動、化学反応のためには「時間」がかかる。

 「時間」とは「他人」のことだ。「私」を否定する力のことだ。「私」を否定するがゆえに、それは「物」でもある。
 あ、また、堂々巡りにもどってしまった……。




詩人のノート―1974・10・4-1975・10・3 (1976年)
田村 隆一
朝日新聞社

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