山本美代子『夜神楽』(編集工房ノア、2009年04月01日発行)
山本美代子の感覚が共振している世界はとても深い。広い。
「帰る」。
これは神楽を舞い終えて舞台を降りる役者(演者)の姿であろう。呼吸が荒くなって、もう口が自然に開いてしまう。それでも、まだだらしない身体を見せたくないので、そっと口を開いている。押しとどめている。その姿からマスを連想している。人間とマスが重なる。そして、その重なりの中に、「いのち」が浮かび上がる。
「未生の記憶のなかの 肌に添う 懐かしい水」。それは「口に含む水」「飲み水」を超えて、「いのち」を抱いている水、羊水のように感じられる。
「水」をくぐり、「水」のなかで、生まれ変わる。生まれ変わるというのは、誕生するということでもある。水の中には「いのち」のドラマがある。そして、そのドラマのなかで、あらゆるものが入れ代わる。人間はマスになることができる。また人間は、神楽の登場人物になることができる。もちすん、その登場人物から人間に、マスから人間になることもできる。「水」によって。「羊水」のなかで育てられてきた「いのち」が「水」からでて、「水」を飲む。肌に添っていた水が「肉体」のなかを流れる。そのとき、ふたつの「水」はとけあっている。「肉体」そのものが「水」になっている。だからこそ、マスにもなれるのだ。
「海に消える物語を遡る」。このことばのなかにある反対の方向の運動の統一。川は山から海へ流れる。マスは海から山へ帰る。遡る。最初に引用した部分には「未生の記憶」ということばがあったが、「未生の記憶」へ帰るのも、時間を「遡る」ことである。
過去を耕す。時間を耕す。そのとき、あらゆる「いのち」が出合う。--山本の思想・哲学は、そこにある。
「現存」ということばが思わず出てくる。しかし、それをすぐにサケの「口を小さく開けて」という姿に引き戻す。ことばを必ず具体的な描写へかえす姿勢に、山本の思想のたしかさがある。広さがある。広いから、どこへ還っても「いのち」のかたちになる。
「指」は薔薇と指の関係、指さすものと指さされるものの関係を描いている。
指さすことは、対象になることなのだ。何かを認識するということは、何かになることなのだ。「マス」とことばにすればマスになる。薔薇とことばにすれば薔薇になる。かけ離れたふたつのものをことばがつなぐとき、そこでは「いのち」がつながっている。
だが、ほんとうに弥勒菩薩の指は何も指さしていないのか。何も指ささないということは「無」を指さすと言い換えてもいいかもしれない。きっとそうに違いないと思う。
「指差したものに指差される」とは、川を遡るマスの運動に似通ったところがある。そこではふたつの逆向きの、つまり対立する(矛盾する)運動がある。対立・矛盾の「場」というのは「無」に通じる。「無」とは「明確なひとつの形(運動形式)がない」ということであって、何も存在しないということではない。どこにでもエネルギーはある。「いのち」の運動がある。そして、その運動は、何かに逆らうようにして常に動いている。矛盾を超越して動いている。そういう「場」が「無」である。(「帰る」の最後にでてきた「無への ささやかな供物」というときの「無」も同じである。「未生」としての「場」である。「未生」は未だ生まれていないではなく、これから生まれる、という意味である。「未来」が未だ来ないではなく、これから必ずやって来る、という意味であるように。)
指は、何かを指さすことで「無」に触れるのだ。そうであるなら、ことばもまた、何かを「指さす」ことで「無」に触れる。
*
蛇足だが「指差しつずける指」は「つづける」がいいだろう。「帰る」の「幻暈」は私は「眩暈」と読んだ。
山本美代子の感覚が共振している世界はとても深い。広い。
「帰る」。
結婚斑をつけた サクラマスのように 小さ
く口を開けて帰る 未生の記憶のなかの 肌
に添う 懐かしい水のある処まで
これは神楽を舞い終えて舞台を降りる役者(演者)の姿であろう。呼吸が荒くなって、もう口が自然に開いてしまう。それでも、まだだらしない身体を見せたくないので、そっと口を開いている。押しとどめている。その姿からマスを連想している。人間とマスが重なる。そして、その重なりの中に、「いのち」が浮かび上がる。
「未生の記憶のなかの 肌に添う 懐かしい水」。それは「口に含む水」「飲み水」を超えて、「いのち」を抱いている水、羊水のように感じられる。
「水」をくぐり、「水」のなかで、生まれ変わる。生まれ変わるというのは、誕生するということでもある。水の中には「いのち」のドラマがある。そして、そのドラマのなかで、あらゆるものが入れ代わる。人間はマスになることができる。また人間は、神楽の登場人物になることができる。もちすん、その登場人物から人間に、マスから人間になることもできる。「水」によって。「羊水」のなかで育てられてきた「いのち」が「水」からでて、「水」を飲む。肌に添っていた水が「肉体」のなかを流れる。そのとき、ふたつの「水」はとけあっている。「肉体」そのものが「水」になっている。だからこそ、マスにもなれるのだ。
河のかたちに蛇行したあと すべて海に消え
る物語を遡る 膨張するピポポタマスの 重
量をかきわけ 人の顔をした鳥の飛跡を追っ
て
「海に消える物語を遡る」。このことばのなかにある反対の方向の運動の統一。川は山から海へ流れる。マスは海から山へ帰る。遡る。最初に引用した部分には「未生の記憶」ということばがあったが、「未生の記憶」へ帰るのも、時間を「遡る」ことである。
過去を耕す。時間を耕す。そのとき、あらゆる「いのち」が出合う。--山本の思想・哲学は、そこにある。
夜神楽を舞う若者は 同じ平面で 飽かず
繰り返し旋回する ひとつ回って 取り外す
地のえにし ふたつ回って 振り切る 肉の
しがらみ かぞえきれず回って 幻暈のロー
トの中 限りなく覚めている現存
海への ささやかな供物として 口を小さく
開けて 帰る
「現存」ということばが思わず出てくる。しかし、それをすぐにサケの「口を小さく開けて」という姿に引き戻す。ことばを必ず具体的な描写へかえす姿勢に、山本の思想のたしかさがある。広さがある。広いから、どこへ還っても「いのち」のかたちになる。
「指」は薔薇と指の関係、指さすものと指さされるものの関係を描いている。
よあけ 開きはじめた 薔薇の蕾を指差し
て 薔薇色の色彩に染まる指
指さすことは、対象になることなのだ。何かを認識するということは、何かになることなのだ。「マス」とことばにすればマスになる。薔薇とことばにすれば薔薇になる。かけ離れたふたつのものをことばがつなぐとき、そこでは「いのち」がつながっている。
よる 闇の中で 色彩の無い薔薇を指差しつ
ずける指 約束は永遠に守られるだろう
薔薇は咲ききって ある刻ふいに崩おれて
散る 指差したものに指差される 死すべき
ものの 感触のある指
弥勒菩薩の頬に添えられた 指差すことのな
い しなやかな 指の形
だが、ほんとうに弥勒菩薩の指は何も指さしていないのか。何も指ささないということは「無」を指さすと言い換えてもいいかもしれない。きっとそうに違いないと思う。
「指差したものに指差される」とは、川を遡るマスの運動に似通ったところがある。そこではふたつの逆向きの、つまり対立する(矛盾する)運動がある。対立・矛盾の「場」というのは「無」に通じる。「無」とは「明確なひとつの形(運動形式)がない」ということであって、何も存在しないということではない。どこにでもエネルギーはある。「いのち」の運動がある。そして、その運動は、何かに逆らうようにして常に動いている。矛盾を超越して動いている。そういう「場」が「無」である。(「帰る」の最後にでてきた「無への ささやかな供物」というときの「無」も同じである。「未生」としての「場」である。「未生」は未だ生まれていないではなく、これから生まれる、という意味である。「未来」が未だ来ないではなく、これから必ずやって来る、という意味であるように。)
指は、何かを指さすことで「無」に触れるのだ。そうであるなら、ことばもまた、何かを「指さす」ことで「無」に触れる。
*
蛇足だが「指差しつずける指」は「つづける」がいいだろう。「帰る」の「幻暈」は私は「眩暈」と読んだ。
山本美代子詩集 (1982年) (日本現代女流詩人叢書〈第11集〉)山本 美代子芸風書院このアイテムの詳細を見る |