山本まこと「冬の日溜まり」、福間明子「絵空事」(「水盤」5、2009年05月20日発行)
山本まこと「冬の日溜まり」を読みながら、ふと池井昌樹の詩を思い出した。放心の感覚が似通っている。
「冬の日溜まりに許されて」の「許されて」が気持ちがいい。私たちは何かを錯覚する。たとえば、この詩では、山本はいないはずの母をいると錯覚する。それは「許されて」そう錯覚するのである。私たちを「許す」何かが存在する。
そういう感覚のとき、すべてはゆったりととろける。断定の必要がなくなる。
「私はまだ生まれていなくていいような/生まれるものは影だけであっていいような」と2度繰り返される「いいような」というぼんやりした感じが、放心の豊かさをあらわしている。「ホラ、見つけたよ/とも言えないで」の「言えないで」の中途半端の感じも、とても美しい。
*
福間明子「絵空事」は、山本まこととは違った形の(たぶん、正反対の)こころの形を描いている。「放心」できないこころを書いている。
「共有することのできない時間」。「放心」するとき、人は、誰かと「時間」を共有している。「放心」することを「許す」何かと時間を共有している。そして、その共有のなかへ、いま、ここに、不在の母もあらわれる。それは、母もその時間を共有しているということでもある。
福間は、時間を共有しない。そうすると、どんなことが起きるか。
こころが「ごちゃまぜ」になる。そして、その「ごちゃまぜ」は「自分のもの」である。自分だけのものである。
こころとは不思議なもので、山本のように、自分のものではなくなって(誰かに「許される」ものになって)、そのことを「幸福」を運んでくるのに、福間の書いているように「自分のもの」であるときは、なんだか苦しいのである。苦悩を吸い込んでしまうのである。
こころを放してしまう(放心)と、こころを放せない苦悩。ひとところにとどまらず、揺れ動くから、おもしろいのだろう。
山本まこと「冬の日溜まり」を読みながら、ふと池井昌樹の詩を思い出した。放心の感覚が似通っている。
冬の日溜まりには
猫がつけてきた草の実を
うつらうつらと取り除く母がいる
母はもういないのに
その日溜まりに許されて
また母を見る
セーターのほつれなんかはそのままに
私はまだ生まれていなくていいような
生まれるものは影だけであっていいような
そんな奇妙な時間
カクレンボのオニじゃあるまいし
ホラ、見つけたよ
とも言えないで
「冬の日溜まりに許されて」の「許されて」が気持ちがいい。私たちは何かを錯覚する。たとえば、この詩では、山本はいないはずの母をいると錯覚する。それは「許されて」そう錯覚するのである。私たちを「許す」何かが存在する。
そういう感覚のとき、すべてはゆったりととろける。断定の必要がなくなる。
「私はまだ生まれていなくていいような/生まれるものは影だけであっていいような」と2度繰り返される「いいような」というぼんやりした感じが、放心の豊かさをあらわしている。「ホラ、見つけたよ/とも言えないで」の「言えないで」の中途半端の感じも、とても美しい。
*
福間明子「絵空事」は、山本まこととは違った形の(たぶん、正反対の)こころの形を描いている。「放心」できないこころを書いている。
誰とも共有することのできない時間があるとするならば
橋のたもとから眺める山の端に茜の夕焼け
空に夕月がかかる頃合いとか
淋しさ哀しさ懐かしさがごちゃまぜに
そのごちゃまぜは自分のものであるだけに
異様に重く感じられるだけにせつない
生きているのだから生きていればいい
「また絵空事ばかり言って」
祖母はいつもわたしにそう言って笑った
「共有することのできない時間」。「放心」するとき、人は、誰かと「時間」を共有している。「放心」することを「許す」何かと時間を共有している。そして、その共有のなかへ、いま、ここに、不在の母もあらわれる。それは、母もその時間を共有しているということでもある。
福間は、時間を共有しない。そうすると、どんなことが起きるか。
こころが「ごちゃまぜ」になる。そして、その「ごちゃまぜ」は「自分のもの」である。自分だけのものである。
こころとは不思議なもので、山本のように、自分のものではなくなって(誰かに「許される」ものになって)、そのことを「幸福」を運んでくるのに、福間の書いているように「自分のもの」であるときは、なんだか苦しいのである。苦悩を吸い込んでしまうのである。
こころを放してしまう(放心)と、こころを放せない苦悩。ひとところにとどまらず、揺れ動くから、おもしろいのだろう。