詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本まこと「冬の日溜まり」、福間明子「絵空事」

2009-05-22 10:35:05 | 詩(雑誌・同人誌)
山本まこと「冬の日溜まり」、福間明子「絵空事」(「水盤」5、2009年05月20日発行)

 山本まこと「冬の日溜まり」を読みながら、ふと池井昌樹の詩を思い出した。放心の感覚が似通っている。

冬の日溜まりには
猫がつけてきた草の実を
うつらうつらと取り除く母がいる
母はもういないのに
その日溜まりに許されて
また母を見る
セーターのほつれなんかはそのままに
私はまだ生まれていなくていいような
生まれるものは影だけであっていいような
そんな奇妙な時間
カクレンボのオニじゃあるまいし
ホラ、見つけたよ
とも言えないで

 「冬の日溜まりに許されて」の「許されて」が気持ちがいい。私たちは何かを錯覚する。たとえば、この詩では、山本はいないはずの母をいると錯覚する。それは「許されて」そう錯覚するのである。私たちを「許す」何かが存在する。
 そういう感覚のとき、すべてはゆったりととろける。断定の必要がなくなる。
 「私はまだ生まれていなくていいような/生まれるものは影だけであっていいような」と2度繰り返される「いいような」というぼんやりした感じが、放心の豊かさをあらわしている。「ホラ、見つけたよ/とも言えないで」の「言えないで」の中途半端の感じも、とても美しい。



 福間明子「絵空事」は、山本まこととは違った形の(たぶん、正反対の)こころの形を描いている。「放心」できないこころを書いている。

誰とも共有することのできない時間があるとするならば
橋のたもとから眺める山の端に茜の夕焼け
空に夕月がかかる頃合いとか
淋しさ哀しさ懐かしさがごちゃまぜに
そのごちゃまぜは自分のものであるだけに
異様に重く感じられるだけにせつない
生きているのだから生きていればいい
「また絵空事ばかり言って」
祖母はいつもわたしにそう言って笑った

 「共有することのできない時間」。「放心」するとき、人は、誰かと「時間」を共有している。「放心」することを「許す」何かと時間を共有している。そして、その共有のなかへ、いま、ここに、不在の母もあらわれる。それは、母もその時間を共有しているということでもある。
 福間は、時間を共有しない。そうすると、どんなことが起きるか。
 こころが「ごちゃまぜ」になる。そして、その「ごちゃまぜ」は「自分のもの」である。自分だけのものである。
 こころとは不思議なもので、山本のように、自分のものではなくなって(誰かに「許される」ものになって)、そのことを「幸福」を運んでくるのに、福間の書いているように「自分のもの」であるときは、なんだか苦しいのである。苦悩を吸い込んでしまうのである。

 こころを放してしまう(放心)と、こころを放せない苦悩。ひとところにとどまらず、揺れ動くから、おもしろいのだろう。

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『田村隆一全詩集』を読む(92)

2009-05-22 01:22:09 | 田村隆一

 「鳥語」には文体が乱れたところがある。最終連。

殺人という人間的行為には
宗教的な匂いがする
ホロコーストなんて一人の人間が一人の人間を毒殺したり射殺したり
アリバイを主張したりして性行為そっくりの劇は生れない そういえば昔
『情熱なき殺人』という洋画があったっけ
ぼくの墓碑銘はきまった
「ぼくの生涯は美しかった」
と鳥語で森の中の石に彫る

 3行目の「ホロコーストなんて」ということばを引き継ぐ「動詞」がない。これは、田村にはわかりきったことなので、書き忘れたのだ。書き忘れても、書き忘れたことさえ意識できないほど、田村の「肉体」にしみついていることばなのだ。
 「ホロコーストなんて」「人間的行為ではない」。したがって、「宗教的な匂いもしない」。田村は、そう書きたい。
 では、「人間的行為」とは、何か。

アリバイを主張したりして性行為そっくりの劇

 である。「アリバイを主張する」とは、主語が「殺人者」の場合、嘘をつくことである。ことばで真実ではないことをいう。それが「人間的」なのである。真実ではないことのなかに、「自由」がある。真実を破壊して、真実から人間を解放する。
 それはたしかに「宗教的」なことかもしれない。人間は死ぬ。その絶対的な真実を破壊し、否定し、宗教は、死とは対極にある「永遠のいのち」を語る。現実には、だれも体験したことのない「生」を語る。
 「性行為そっくりの劇」。これは何だろう。興奮である。「直接性」である。相手がいるときはもちろんそうだが、相手のいないオナニーもまた直接的である。「肉体」に直接触れない性行為はない。
 「アリバイ」の主張と、この「性行為」の直接性を結びつけて考えるとき、不思議なものが見えてくる。
 「アリバイの主張」、その嘘は、けっして何かと触れない。不在。そこに存在しないことがアリバイである。「性行為」が直接的であるのに対して、「アリバイ」は直接性を否定する。他者との関係の直接性を否定する。しかし、その直接性の否定が嘘によってつくられるとき、そこには何が起きるのだろうか。意識のなかでは、他者との直接的な関係が強く結びついて離れない。--そこには、何か矛盾したものが、分かちがたく結びついているのである。
 たぶん、「ホロコースト」には、この直接性がない。直接性がないから、矛盾もない。ホロコーストには「肉体」が関与する部分が少ない。殺人が直接的ではなく、間接的におこなわれる。実感がない。だから、いったんホロコーストが起きると、その間接性(直接性の欠如)ゆえに、行為が暴走する。矛盾をかかえこまないものは、踏みとどまることができない。
 田村の詩について、何度か「矛盾」ということを書いてきたが、その「矛盾」は、「直接性」と深くつながっている。「直接」とは、何かしら「矛盾」しているのである。「直接性」も、田村の「思想」のひとつである。

 「直接性」は、また別の角度からも見つめることができる。

アリバイを主張したりして性行為そっくりの劇は生れない そういえば昔

 この1行。なぜ、1行なのだろう。末尾の「そういえば昔」は、「アリバイを主張したりして性行為そっくりの劇は生れない」とは文脈上、結びつかない。「そういえば昔」は次の行の「『情熱なき殺人』という洋画があったっけ」と結びついている。
 行が、ある意味で「不自然」な形で展開している。文脈を優先するのではなく、ほかのものを優先している。
 何を優先しているのか。「論理」ではなく、「論理」にならないものを優先している。「論理」以前のもの、「論理」を破壊するものを優先しているのだ。
 「ホロコースト」ということばを出したために、文脈はぶれたが、その「ぶれ」をもういちど元へ戻すために、田村は「殺人」ということばをもう一度登場させたいのだ。殺人の直接的なもの--その美しさ、直接的なものだけがもつ美しさを取り戻したいのだ。

アリバイを主張したりして性行為そっくりの劇は生れない そういえば昔

 この1行には、ことばにならない「直接性」が隠れている。「ホロコーストなんて」ということばが「述語」を欠いたまま、「直接」「殺人」と対比され、「直接」対比することで、そのなかでねじれた「未分化」の「論理」のようなものが、バネの反動のように、揺れ動いている。
 そこが、この詩の、おもしろいところである。

 直接的なものは、すべて美しい。田村が、墓碑銘に選んだ「ぼくの生涯は美しかった」ということばのなかにも「美しい」が輝いている。「ぼくの生涯は美しかった」とは、言い換えれば「ぼくの生涯は直接的だった」ということである。
 田村は「肉眼」ということばを何度もつかっている。それは、「見る」という「方法」を破壊して、(人間が歴史のなかで形成してきた「視点」を破壊して)、「未分化」の「いのち」としてものを見るということだが、これは「いのち」が「直接」ものを見るということ--と言い換えることができるかもしれない。



鳥と人間と植物たち―詩人の日記 (1981年) (徳間文庫)
田村 隆一
徳間書店

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