「Passion 美への情熱 石橋正二郎生誕 120年を記念して」(石橋美術館)
石橋正二郎とは誰だったのだろう。私はいままでコレクターを中心にして絵を見たことはなかった。いつも誰が描いたかしか見て来なかった。これからも、やはり誰が描いたかしか見ないとは思う。けれど、私のように誰が描いたかだけを見る視点が可能なのは、石橋正二郎のように、優れた作品を多くの人に知ってもらいたいという情熱をもって作品を収集し、残す人がいるからなのだということを、今回はじめて知った。
今回、久留米の石橋美術館で展示されているのは 100点強である。青木繁、坂本繁二郎、ピカソ、ルノワール、セザンヌ……。どの作品も有名なものばかりである。美術の教科書、さまざまな図録に収録されているもの。ある意味では、なじみのあるものばかりなのだが、その「なじみのあるもの」という印象に、私はまず圧倒された。なぜ、こんな作品を?という疑問が一瞬たりともわかない。あ、この絵も、この絵も、この絵も石橋が収集し、公開しようと力を注いだのか、と驚く。その情熱を受け止める方法を私は知らない。そういう情熱に出会うとは、私はいままで考えたこともなかった。
なぜ、こんなことができたのか。その答えは、私には、いまは、ほんの少しの手がかりさえもみつからない。
*
いつくもの作品に感動したが、2点について感想を書いておく。
青木繁「海の幸」。実物を見るのは、初めてである。教科書や図録では気がつかなかったこと、新しく気づいたことがいくつかある。いちばん印象的だったのは、左の二人の描きかたである。中央の人物にはしっかり焦点があたっていて、その肉体は、ある動きの一瞬を明確に再現している。しかし、左の二人は動きが定まっていない。足が動いている。視界の外側で、アニメーションのように、あるいはぱらぱらマンガのように、足が動いている。下書きというか、形を定める前の、複数の線がそのまま残っていて、それが足の動き、体の動きを連想させるのである。よく見ると、右端の人物も、同じような「ぶれ」の内部に存在する。
横長の構図のなかにあって、左右の人物は「ぶれ」ている。焦点の外側にある。そして、そこに動きがある。その影響が、不思議なことに(当然なことと絵に詳しい人なら言うかもしれない)、中央の人物群をくっきりと浮かび上がらせる。動きを超越した存在感として浮かび上がる。
特に、後ろから4人目の女。ほんとうは男なのだろうけれど、私にはなぜか女に見えた。彼女だけは、進行方向を見ずに、視線を画家の方に(鑑賞者の方に)向けている。その白い顔が、幻想のようにくっきりと浮かんで見える。
ある集団がある。そのなかの誰かとふいに視線があってしまう。そう気づいた瞬間、目に見えるのは視線だけである。その他のものも視界には入っているのだが、焦点の外に弾き飛ばされてしまう。すーっと消える。消えないまでも、ぼんやりしたものになる。
そのときの「視野」そのものを、このえはつかんでいる。進む方向からさしてくる朝日の赤い色、空気のなかに残る夜の影--それが交じり合い、漁師たちを動かしている。それは、いま、ここで生まれた「人間」という感じがする。もう何年も生きているのだけれど、ある方向へ向かって歩く動きと、その動きを突き破って真っ正面からぶつかってくる視線の、垂直なぶつかりあいが、そのなかから何かが生まれてくるという印象となってあらわれる。いま、ここで、何かが生まれているという印象になって、私に襲いかかってくる。
パブロ・ピカソ「女の顔」。ギリシャ古典というか、ギリシャ彫刻につながるような女の顔である。白い肌、白い布が光を強くはじき返している。その印象が、さらにギリシャという印象を強くする。眉の下にできる影、その黒い調子も強烈である。健康的な光があふれている。
ピカソは、この女を「色」だけではなく、「線」でも描いている。耳や顔の輪郭、布の境目(境界線?)を黒い線で描いている。その黒い線の、頬から顎にかけての部分が絶妙に美しい。顔の背景は青。額の部分は、青い背景、白い額の、ちょうど境目にすっきりと線が入っている。黒い線は顔の輪郭そのものである。ところが頬から顎にかけては少し違う。白い肌の内側の方に「ぶれ」ている。輪郭そのものではなく、輪郭そのものよりも内側に黒い線がある。それも、丸いというよりは、どちらかといえば直線的な線である。この不正確な(?)線が、女をとても強いものにしている。たとえて言えば、大理石の彫刻のような頑丈さ。そして、頑丈でありながら、固いのではなく、その固さを突き破ってはみだしていく肉の力。そこには、何か矛盾したものがぶつかりあっている。そのぶつかりあい、その矛盾が美しい。
石橋正二郎とは誰だったのだろう。私はいままでコレクターを中心にして絵を見たことはなかった。いつも誰が描いたかしか見て来なかった。これからも、やはり誰が描いたかしか見ないとは思う。けれど、私のように誰が描いたかだけを見る視点が可能なのは、石橋正二郎のように、優れた作品を多くの人に知ってもらいたいという情熱をもって作品を収集し、残す人がいるからなのだということを、今回はじめて知った。
今回、久留米の石橋美術館で展示されているのは 100点強である。青木繁、坂本繁二郎、ピカソ、ルノワール、セザンヌ……。どの作品も有名なものばかりである。美術の教科書、さまざまな図録に収録されているもの。ある意味では、なじみのあるものばかりなのだが、その「なじみのあるもの」という印象に、私はまず圧倒された。なぜ、こんな作品を?という疑問が一瞬たりともわかない。あ、この絵も、この絵も、この絵も石橋が収集し、公開しようと力を注いだのか、と驚く。その情熱を受け止める方法を私は知らない。そういう情熱に出会うとは、私はいままで考えたこともなかった。
なぜ、こんなことができたのか。その答えは、私には、いまは、ほんの少しの手がかりさえもみつからない。
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いつくもの作品に感動したが、2点について感想を書いておく。
青木繁「海の幸」。実物を見るのは、初めてである。教科書や図録では気がつかなかったこと、新しく気づいたことがいくつかある。いちばん印象的だったのは、左の二人の描きかたである。中央の人物にはしっかり焦点があたっていて、その肉体は、ある動きの一瞬を明確に再現している。しかし、左の二人は動きが定まっていない。足が動いている。視界の外側で、アニメーションのように、あるいはぱらぱらマンガのように、足が動いている。下書きというか、形を定める前の、複数の線がそのまま残っていて、それが足の動き、体の動きを連想させるのである。よく見ると、右端の人物も、同じような「ぶれ」の内部に存在する。
横長の構図のなかにあって、左右の人物は「ぶれ」ている。焦点の外側にある。そして、そこに動きがある。その影響が、不思議なことに(当然なことと絵に詳しい人なら言うかもしれない)、中央の人物群をくっきりと浮かび上がらせる。動きを超越した存在感として浮かび上がる。
特に、後ろから4人目の女。ほんとうは男なのだろうけれど、私にはなぜか女に見えた。彼女だけは、進行方向を見ずに、視線を画家の方に(鑑賞者の方に)向けている。その白い顔が、幻想のようにくっきりと浮かんで見える。
ある集団がある。そのなかの誰かとふいに視線があってしまう。そう気づいた瞬間、目に見えるのは視線だけである。その他のものも視界には入っているのだが、焦点の外に弾き飛ばされてしまう。すーっと消える。消えないまでも、ぼんやりしたものになる。
そのときの「視野」そのものを、このえはつかんでいる。進む方向からさしてくる朝日の赤い色、空気のなかに残る夜の影--それが交じり合い、漁師たちを動かしている。それは、いま、ここで生まれた「人間」という感じがする。もう何年も生きているのだけれど、ある方向へ向かって歩く動きと、その動きを突き破って真っ正面からぶつかってくる視線の、垂直なぶつかりあいが、そのなかから何かが生まれてくるという印象となってあらわれる。いま、ここで、何かが生まれているという印象になって、私に襲いかかってくる。
パブロ・ピカソ「女の顔」。ギリシャ古典というか、ギリシャ彫刻につながるような女の顔である。白い肌、白い布が光を強くはじき返している。その印象が、さらにギリシャという印象を強くする。眉の下にできる影、その黒い調子も強烈である。健康的な光があふれている。
ピカソは、この女を「色」だけではなく、「線」でも描いている。耳や顔の輪郭、布の境目(境界線?)を黒い線で描いている。その黒い線の、頬から顎にかけての部分が絶妙に美しい。顔の背景は青。額の部分は、青い背景、白い額の、ちょうど境目にすっきりと線が入っている。黒い線は顔の輪郭そのものである。ところが頬から顎にかけては少し違う。白い肌の内側の方に「ぶれ」ている。輪郭そのものではなく、輪郭そのものよりも内側に黒い線がある。それも、丸いというよりは、どちらかといえば直線的な線である。この不正確な(?)線が、女をとても強いものにしている。たとえて言えば、大理石の彫刻のような頑丈さ。そして、頑丈でありながら、固いのではなく、その固さを突き破ってはみだしていく肉の力。そこには、何か矛盾したものがぶつかりあっている。そのぶつかりあい、その矛盾が美しい。