詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

志賀直哉(9)

2010-05-30 15:26:12 | 志賀直哉
「早春の賦」(3)(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 雪の描写が美しい。151 ページ。宇奈月温泉へ向かう場面。

陽のあたつた所は桃色に、影の雪は紫がかつて見えた。近い雪の面(めん)は粒立つて光り、地を被ふ雪の厚さは自(おのづか)らそれと知れた。

 桃色と紫。朝の雪はたしかに色が違うのだ。ここでは雪というよりも、朝の光を描写しているというべきなのだろう。
 次のざら雪の描写は、なんでもないようだが、「近い雪の面」の「近い」に私はびっくりしてしまう。
 降り積もった雪が再結晶するというと変だけれど、六角形の美しい結晶がとけて塊、小さな氷になり根雪になる--その根雪の表面の雪。その「粒立つ」感じは「近く」でないと見えない。そんなことはわかりきったことなのに「近い」とわざわざ書く。
 ここに志賀直哉の視覚(視力)の正直さがでている。
 桃色と紫は遠い景色である。その桃色と紫も近くで見ると桃色、紫は意識できない。桃色、紫よりも、雪の「粒立つ」感じの方に視覚が引っ張られるからである。
 「近い」がないと、この描写は生まれてこない。

 視覚の強靱さ、その感覚をきちんと肉体に取り込む力は、剣岳越しに昇る朝日の描写にも強く感じる。155 ページ。

剣山(つるぎさん)の後(うしろ)から湧き上る曙光は恰(あたか)も金粉を吹き出すやうで、後年、伝源信(げんしん)作「山越弥陀(やまごえみだ)」を見て、其時の曙光を憶ひ出し、感心もしたが、未だ物足らぬ気もした程であつた。

 「未だ物足らぬ気もした程であつた。」がとても強い。画家の再現した光よりも、自分の肉体(視力)の記憶を美しい、と志賀直哉はいうのである。
 このあとすぐ、月の描写も出てくる。これも美しい。

月は能登(のと)半島の上へ落ちて行き、その空は銀色に澄んで暗く、東の空は金色から段々明るくなつて行つた。

 富山の早春の朝の、いちばん美しいものだと思う。
 「空は銀色に澄んで暗く」の「澄む」(透明)と「暗い」の対比が強烈である。
 志賀直哉の視力は、ほんとうに驚くほど強い。



志賀直哉はなぜ名文か―あじわいたい美しい日本語 (祥伝社新書)
山口 翼
祥伝社

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河津聖恵『龍神』(2)

2010-05-30 00:00:00 | 詩集
河津聖恵『龍神』(2)(思潮社、2010年04月01日発行)

 河津聖恵『龍神』には、私にはよくわからない部分がある。河津の「肉体」がつかみきれない。
 「野中(一)」の部分。

どこかに到達したい誰かに会いたい--
深い欲望のように幻想はふいに湧く
私たちはいつしか走りだしている
影となり光となり
何度も永遠でも小さな神話のような動作をなぞりつづける
とふたたび知らされた
かつてここに生きて死んだ複数の私が
助手席にあくがれでる

 私は車を運転しない。車に乗せてもらう(助手席に座る)ことも、皆無に等しい。だから私の感覚は多くのひととは違うかもしれない。そういう懸念があるのだけれど、私には、ここに書かれていることがわからないのだ。車が「いつしか走りだしている」と思ったことがない。「いつしか」がまったくわからない。車にかぎらず、どんな乗り物でも、わたしは「動きだす」瞬間を「いつしか」と感じたときがない。「やっと動きはじめた」「やっと浮かび上がった」とは思うけれど、それを「いつしか」とは思えない。
 「いつしか」走り出す--ということもあるが、それは乗り物に乗っているときではない。自分で、歩いていて、なにかに気がついて気持ちが先に行ってしまう。それを「肉体」が追いかけて、「いつしか」無意識に走り出す、ということはある。
 「いつしか・走り出す(走り出している)」のあいだには、「無意識」がある。運転しないで、助手席にいる、つまりその動きに関して主導的ではない人間が、「無意識」を意識するということが、私にはわからない。運転手が「いつしか」(無意識に)スピードを上げすぎていた、というのはわかるが、助手席の人間が、そういうことを感じる? 感じないと思う。--うーん、言い換えると、ここでは河津のことばは「現実的」ではない。「主体」をどこかで放棄していて、いわば「客観的」に動かしている。簡単にいうと、小説のような、作者がいて、登場人物がいて、という感じ。「私たちはいつしか走り出している」というとき、河津はその「私たち」でありながら、そこから離れた場所で「私たち」をみて、「私たち」を描写している。
 もちろん、そういう書き方はあっていいのだけれど、そういう書き方と、

かつてここに生きて死んだ複数の私が
助手席にあくがれでる

 が、なんとも奇妙にずれる。音楽でいうと、音程が半音ずれたような感じ。「助手席に」という「客観的」なことばが、ここは音程がずれているのではなく、半音ずらしているのです(シャープ記号か、フラット記号がついているんです)と言っているみたいなのだが、奇妙に不自然。違和感が残る。
 ある場所に行って、その土地の「いのち」を感じる。そしてその瞬間、そのいのちのひとつひとつ、木の葉や風や光や音や--そういったものが、「私」であると感じる。それも複数の、しかも、生きて死んで、また生き返る私であると感じる。この、つよい感覚と「助手席」が、私の感覚のなかでは結びつかない。
 簡単に言うと、「頭」でことばを動かしているように感じてしまうのだ。

 いま引用した行のすぐあとには、

複眼となって澄みわたり染みわたる
視野をふくらむ紅葉黄葉

 という魅力的な美しいことばが、それこそ「生きて死んだ複数の私」の別のことばとして(言い換え表現として)あるのだが、「助手席」と、省略された「無意識」が邪魔して、しっくりこない。
 複数の私というのは、「無意識」(あるいは意識)とは関係なく、関係あるとすれば、「無我」(無心)と結びついている。--これは、私だけの考えかもしれないけれど、無我・無心・放心というもの、解放された状態があって、そこに「複数の私」が生まれる。「無意識」というのはあくまで「意識」があっての「無意識」である。そこが無我・無心・放心と違うと私は思う。無我・無心・放心というのは、対極のことば(反対の意味のことば)をもたない。

 で、こんなに変な感じをいだきながらも、河津のことばをさらに読み進めるのは、「野中(二)」の最後で、「正直」に動いているからである。そこに「正直」を感じるからである。

ここを訪れ 他者を思う他者の語りに耳を澄ませた時間は
たしかに詩に属するということ
他者と出会い 他者と交錯して
私たちの生の山道は火照るように逸れ
昨日よりも少しだけ深い領域に迷い込むことができる
太陽が隠れ すでに夜の闇をたたえた山と山のあわいを
車は沈むように走っていく

 「他者」の発見がある。「他者」が「私」を揺り動かす。「私」のままでは「他者」に出会えない。真に「他者」に出会うためには「私」は「私」の枠をたたきこわさなければならない。「我」から「無我」へ、「心」から「無心」(放心)へと、見えない「枠」を取り払って「無」になる。そのとき「他者」に出会うことができ、「他者」と交錯することができ、詩が生まれる。「私」が「私」を逸脱して、わけのわからないものになる。それが、詩。
 そういうふうに、「正直」にことばが動いたあとの最後の1行。

車は沈むように走っていく

 ね、「私たちは」ではなく「車は」。主語が自然に違ってきているでしょ? 「野中(一)」とは、そこが違うでしょ?
 この最後の部分には、ちょっとややこしいことも(的学的?なことも)書かれているのだけれど、「野中(一)」の、

何度も永遠でも小さな神話のような動作をなぞりつづける

 のような、何度読み返しても、どこかに誤植・脱落があるのかなあ、と思ってしまうことばはない。
 ほんとうは、その1行に深い深い意味があるのかもしれないけれど、うーん、私はわけのわからないことばは、わからない、信じない。なんだかわかるまで読み返すなんていう面倒くさいことができない。
 この詩集には、とても美しい部分と、わけのわからない「頭」の部分が入り乱れている--私には、そんなふうに感じられる。





河津聖恵詩集 (現代詩文庫)
河津 聖恵
思潮社

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コメント (2)
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