竹田朔歩『鳥が啼くか π』(3)(書肆山田、2010年04月05日発行)
きのう、(あるいは一昨日)、私は竹田の詩についてなんと書いただろうか。正確には覚えていない。私は竹田のことばに女を感じない。では、男を感じるのか、といわれれば、それも違う。正確にはセックスを感じない、ということになるのだと思う。(「日記」だから、日々思うことを書くので、書くことは毎日変わっていく。)
この、セックスを感じないということと、「聴覚」「視覚」の問題は、私には重なり合う問題である。
ことばを竹田は「聴覚」(音)として「肉体」に取り込む。その「音」は「頭」をとおって「視覚」に影響し、そこになにかが見えてくる。竹田は、ことばを「聞き」ながら、あるいはことばを「言い」ながら、ことばが描き出すものを「見る」。そして、それを通り越して、ことばを「文字」にしてしまう。竹田にとって、ことばは「文字」である。
この変化が強烈でおもしろいのだけれど、私には、それはなんだかセックスとは無縁のものなのである。つまり、そこには女も、そして男も入って来ない世界なのである。男、女を超越した世界かと言うとそうでもなくて、どうもセックスを拒絶した世界のように感じるのである。
その部分に、私はつまずいてしまう。
この竹田の詩集はとてもいい詩集である。ことばが叩いても壊れない頑丈さを獲得している。それはわかる。わかるからこそ、なにか書きたいと思い、こうして書いているのだが、書きはじめるとどうしても「批判的」なことを書きたくなってしまう。--そういう詩集なのである。私が何を書いても、この詩集がすばらしいことにかわりはないのだが、そうわかっているからこそ、安心して批判的なことが書けるのかもしれない。
なぜ、つまずくんだろう。
セックス、と書いたが、セックスとは私にとって「視覚」であるより、「聴覚」である。「見る」よりも「聴く」、あるいは「声」を発する。
そして、いま、「声を発する」と書いて、突然気づいたのだが、セックスとはようするに自分のなかから何かを出してしまうことなのだ。あ、まるで射精することだけがセックスだ、という男根主義的な考えになってしまうけれど、セックスとは受け止めるだけではなく、受け止めることで、何かを「肉体」から脱出させることである。これをエクスタシーと置き換え、自分自身から脱出すると言いなおす、自分自身ではなくなる、と言いなおすと、男女に共通する「ことがら」(セックスの理想)になる。
視覚(目)は受け止めるだけ。聴覚(耳)も受け止めるだけ。けれど耳で受け止めたものは口で反芻することができる。そして、その反芻をとおして、「肉体」のなからか、なにかが飛び出していく。自分の「外」にあったはずの「音」が、「肉体」をくぐり、あたかも「肉体」にあったものであるかのように飛び出していく。しかも、それは飛び出すとすぎに消えてしまう。存在しなくなる。まるで幻である。同時に、その幻は「声」を発するかぎり、常に出現する。
--この、「肉体」で受け止め、「肉体」で反芻し、そこに何かを出現させるという行為。それは、詩を書くという行為にもつながる。いままで「肉体」が知らなかったことを「肉体」が体験し(受け止め)、それが「ことば」になって飛び出す瞬間--そこに詩がある。そんなふうに見つめなおすことができるかもしれない。
そのとき、飛び出すもの。あるいは、飛び出させるもの。セックスに密接したことばでいえば、射精するもの、分泌するもの。その「もの」の形が、竹田の場合、「音」ではなく、「文字」である。ことばは常に「文字」となって発せられる。
そこに、私はつまずくのである。
私は、それが「文字」ではなく、「音」であってほしいと思っている。ことばは「文字」ではなく「音」であってほしいと願っている。私は「文字」には欲情しない。「音」に欲情するのである。
あ、ほとんど、「前置き」だけの「日記」になってしまうかもしれない。
具体的に言うと……。「水平に佇つ沖縄「久高島(くだかじま)」」の最後の部分。
流離・るり・流離・るり・り・り
陸
は
は
る
か
遠くなり
「流離(りゅうり)」という「音」と「るり」という「音」。そこには、その音だけではなく「流」という「文字」からの「音?」が響いている。「流」は「流浪」と書けば「るろう」の「る」。「る」という無意識の「文字」が「るり」の「る」を誘っている。「音」がことばを動かしているのではなく、ことばは「音」から「文字」にかわり、その「文字」がことばを動かしている。
その「文字」は、ことばそのものを「陸/は」からつづく「水平」のひろがり、そして2行空きという「視覚」にみえるひろがり、「は」と「は」の遠さそのものを引き出し、「は」と「は」が離れて呼び合う形で存在するように、「り」という文字と最後の「遠くなり」の「り」を呼び掛け合わせる。
そのとき、それは「音」であるよりも「文字」として、視覚として、存在する詩である。
私は詩を音読はしない。朗読はしない。(基本的に朗読も聞かない。)もし、この詩を朗読の形で知ったなら、「流離」「るり」(り)と「遠くなり」の「り」の距離の遠さと近さを一瞬のうちに把握できたかどうかわからない。
耳は「音」を順番にひろっていかなければならない。けれども目は(視覚は)、文字と文字の離れ具合を、一瞬のうちに把握できる。
その違いから、竹田の詩は「視覚」の詩であるという印象が生まれる。
「視覚」「聴覚」ついでに、すこし細くすると、「陸/は//は/る/か」の「は」と「は」の2行空きのひろがりのなかに、私は「玻璃」(はり)という「音」を潮騒のように聞き、波のきらめきのように見てしまう。玻璃の輝きが「は」と「は」の遠さによって「り」にという「輝きをもった文字」(ひかり、の「り」)に純化されていくのを感じてしまう。
この美しさに、私は息をのんでしまうけれど、その直後に、やっぱり、これは「文字」があってこその詩なのだなあ、文字なしには存在しない何かなのだなあ、と感じ、その瞬間につまずきを覚えるのである。
そして、このつまずきは、たえば「走る はしる 奔る」という詩の、逆三角形の連を見たとき、もっと強くなる。はげしくなる。つまずきではなく、倒れて立ち上がれなくなる。
走
走る
走る走る
走る走る走る走
走る走る走る走る
走る走る走る走る走る走る
走る走る走る走る
走る走る走る走
走る走る
走る
走
この部分、声を出して読んだひと(声を出さなくても、黙読で1字ずつ正確に追ったひと)、そしてその繰り返しのなかで、ことばのニュアンスがかわっていくことを実感したひとがいるだろうか。
私は引用するために、1行ずつ文字を数えながら入力したけれど、そうでなければ、あ、「走る」が逆三角形になっている、ということしか思わない。それは「ことば」ではなく、「文字」で構成されたデザインである。そしてそれは、独立した文字のかたまりではなく、逆三角形の形を構成することで、新しいひとつの「文字」そのものになっている。竹田は「ことば」を生み出しているのではなく、ここでは「文字」を生み出している。
とても「頭」のいいひとなんだろうなあ、とは思うが、なんというのだろう、その「頭のよさ」についていきたい、という感じにはならない。
この感じも、セックスから遠いなあ。
私なんかはバカだから、セックスしたいということ、ひとが好きということは、ついていきたい、ストーカーしたい、ということと差がないんです。
竹田の詩は「書きことば」の「暴走」の一種ではあるのだけれど、その「暴走」は、スピルバーグ監督の「激突」(最近、見直したばかりなので、ついつい書いてしまう)のタンクローリーの暴走のような力任せの「乱暴」ではない。言うなれば、リニアモーターカーの「疾走」。「頭」のいいひとは、リニアモーターカーの将来(運動能力の可能性)に感嘆し、それを推進するだろうけれど、私は野獣のような生々しい汚らしい美しさ(矛盾)をもったものの方に惹かれてしまう。あとをついて行って、ふいに逆襲されて殺されたらどうしよう--なんて、なんだかわくわくしない? 襲われて、殺されて、自分が自分でなくなる、ほんとうに死んでしまう(「死ぬ」とか「いく」とか言う間もなく、死んでしまう)のは、セックスの極致じゃないかな?
あ、きっと、とんでもないことを書いてしまったんだろうなあ。