監督 ロネ・シェルフィグ 出演 キャリー・マリガン、ピーター・サースガード、エマ・トンプソン
予告編を見たとき、キャリー・マリガンの魅力がよくわからなかった。頭がよくて、利発な少女というのは、そんなに珍しいものではない。演技をしているという感じも、「地」のナイーブな輝きを発揮しているというふうにも感じられなかった。
ところが。
本編でキャリー・マリガンを追っていると、その表情の変化に呑み込まれていく。
ストーリーは少女がおとなの女性に変化していくという、いわば、ありきたりのものである。そこには当然ずるい男がからんでくる、というありふれたものである。
この映画は、そのストーリーに、しかし、少しだけ特別な味付けをしている。少女の両親(家族)もいっしょに男にだまされる、ということを描いている。
そして、そこにいっしょに騙される両親がいることで、キャリー・マリガンの演技の幅の広さ、素材のおもしろさがいっそう際立ってくる。家族の中では、家族が(特に父親が)、人生の疲労感を家中に満たしてしまう。少女はその疲労感がたまらなく嫌い。その疲労感から脱出するためには父がいうように有名な大学に進学しなければならない、という一種の疲れて切った人生観と向き合っている。そこでみせる若さ。それが、この手の映画ではちょっと珍しい。(学校、校長、担任とのやりとりのなかにも類似のことが起きるが……。)
そのキャリー・マリガンが男の前では一変する。どんどん「抑圧」から解放されていく。若さ特有の無邪気、無防備(うぶ)から、秘密の共有、悪の容認、罪のよろこび……。その果の疲労。そして、そこからの覚醒。
キャリー・マリガンは21世紀のオードリー・ヘップバーンとも呼ばれているらしいが、オードリーと違うのは、キャリー・マリガンは「純粋な夢」、その精神性だけで観客をひっぱるのではなく、もっと肉体を感じさせることだ。肉体といっても、マリリン・モンローのような肉体という意味ではなく、そこに生きているというときの肉体という感じ。キャリー・マリガンの「恋愛」はオードリーの恋愛と違って、あいての男を改心させない(たとえば「昼下がりの情事」)、つまり恋愛そのものとして昇華しない。燃え上がらず、燃え残ってしまう。
その燃え残った何かをていねいに具体化してみせることができる。それがキャリー・マリガンである。この燃え残りの肉体というのは、最初に書いた両親、それから学校の校長、教師の疲労感ともつながっていくものでもあるけれど、それがそうであることを知って、いま、ここ、つまり青春にとどまる--そのときの肉体の強さ。そういうものをしっかりと体現している。
ファニーフェイス(?)の魅力だけではなく、演技力をもった女優として、とてもおもしろい。
予告編を見たとき、キャリー・マリガンの魅力がよくわからなかった。頭がよくて、利発な少女というのは、そんなに珍しいものではない。演技をしているという感じも、「地」のナイーブな輝きを発揮しているというふうにも感じられなかった。
ところが。
本編でキャリー・マリガンを追っていると、その表情の変化に呑み込まれていく。
ストーリーは少女がおとなの女性に変化していくという、いわば、ありきたりのものである。そこには当然ずるい男がからんでくる、というありふれたものである。
この映画は、そのストーリーに、しかし、少しだけ特別な味付けをしている。少女の両親(家族)もいっしょに男にだまされる、ということを描いている。
そして、そこにいっしょに騙される両親がいることで、キャリー・マリガンの演技の幅の広さ、素材のおもしろさがいっそう際立ってくる。家族の中では、家族が(特に父親が)、人生の疲労感を家中に満たしてしまう。少女はその疲労感がたまらなく嫌い。その疲労感から脱出するためには父がいうように有名な大学に進学しなければならない、という一種の疲れて切った人生観と向き合っている。そこでみせる若さ。それが、この手の映画ではちょっと珍しい。(学校、校長、担任とのやりとりのなかにも類似のことが起きるが……。)
そのキャリー・マリガンが男の前では一変する。どんどん「抑圧」から解放されていく。若さ特有の無邪気、無防備(うぶ)から、秘密の共有、悪の容認、罪のよろこび……。その果の疲労。そして、そこからの覚醒。
キャリー・マリガンは21世紀のオードリー・ヘップバーンとも呼ばれているらしいが、オードリーと違うのは、キャリー・マリガンは「純粋な夢」、その精神性だけで観客をひっぱるのではなく、もっと肉体を感じさせることだ。肉体といっても、マリリン・モンローのような肉体という意味ではなく、そこに生きているというときの肉体という感じ。キャリー・マリガンの「恋愛」はオードリーの恋愛と違って、あいての男を改心させない(たとえば「昼下がりの情事」)、つまり恋愛そのものとして昇華しない。燃え上がらず、燃え残ってしまう。
その燃え残った何かをていねいに具体化してみせることができる。それがキャリー・マリガンである。この燃え残りの肉体というのは、最初に書いた両親、それから学校の校長、教師の疲労感ともつながっていくものでもあるけれど、それがそうであることを知って、いま、ここ、つまり青春にとどまる--そのときの肉体の強さ。そういうものをしっかりと体現している。
ファニーフェイス(?)の魅力だけではなく、演技力をもった女優として、とてもおもしろい。