小池昌代『怪訝山』(講談社、2010年04月26日発行)
小池昌代『怪訝山』は何を書こうとしているのだろう。「怪訝山」の最初の部分に、小池の書きたいことが集約されていると思う。
「いまこのとき」--これが小池の向き合っているものだ。書こうとしているものだ。「いま」というのは誰にでもある。けれど、その「いま」とは何だろう。「いま」の何を知っているだろう。より正確に言えば、「いまこのときの自分」、「いま」と「自分」の関係について何を知っているだろう。あるいは「とき」と「自分」の関係について何を知っているだろう。
もしかすると、「自分」と誰かを隔てているのは「とき」なのではないだろうか。「いまこのとき」というのは、それぞれの人間にあって、それは同じではないのではないのか。
これは、奇妙な感じかもしれない。けれど、それぞれに「いま」(いまこのとき)というのは違うのである。
「おふくろは死んだ」というのは「過去」である。「まだ死んでいない」は「いまこのとき」である。母を思う、「いまこのとき」、その「思う」というなかに母は生きている。
「いまこのとき」というのは、単なる過去-現在(いま)-未来のなかの一瞬ではない。それは、いわゆる「直線的に流れる時間」の一点ではない。それは「思う」という意識に深くからみついている時間である。「おふくろは死んだ」と「思う」、その「いまこのとき」、おふくろが死んだのは「過去」であるがゆえに、「いまこのとき」それを思い出すことができる。思うことができる。
最初の引用部分で美枝子が切れた蛍光灯を見ている、そのとき。美枝子は、それを取り替えようとは思わない(意欲がわかない)。そういうときの「いまこのとき」。その「思う」の空白の時間……。
「いまこのとき」の「とき」は空白なのである。空白であるから、それはあるときは「過去」をも「いま」にしてしまう。そこでは時間は直線的には流れず、思うときに、その瞬間に浮かび上がって存在するのである。立ち現れてくるのである。
そして、この「いまこのとき」を小池は「思う」と同時に「肉体」にもかえていく。「思う」自体が空白なのだから、そこを埋めるのはほんとうは「思い」ではないのだ。イナモリが死んだ母を思うのも、真剣な(?)思い、というか、いわゆる「思考」ではない。何かを一つ一つ積み重ねていく思考ではない。ぼんやりした全体--いわば、母の「肉体」のようなものである。母は生きているというとき、そこには母の肉体があるということだ。単に母の感情(たとえば「やさしさ」)、あるいは「思考」ではなく、母が肉体そのものとして思い出されているのだと思う。
思いの空白--その空白としての「いまこのとき」。そこにあるのは、「肉体」である。蛍光灯が切れていると思っているとき、その思いなどというのはぼんやりしている。はっきりしているのは「肉体」である。なにもしようとしない「肉体」がある。
死んだ母を思うときも、それは思いがあるというより、その「思い」を抱え込んだあいまいな「肉体」が「いまこのとき」、そこにあるということかもしれない。
「いまこのとき」の「肉体」。イナモリとコマコのセックスに、そのときの「肉体」の感覚が書かれている。
「いまこのとき」、それは「等身大の生身が戻って」きたときの感じなのだ。何も思わない。「思い」は「等身大の生身」そのものとぴったり重なってしまっている。そして、それは「ここではないごとか」へ行ってきた肉体である。
「いまこのとき」は、どこへでもつながっている。「等身大の生身」は、その「どこか」では等身大を超えているのだが、「いまこのとき」は等身大である。
わけのわからない往復--それを身体はしてしまう。そして、その身体があるとき、それが「いまこのとき」である。
この等身大の生身--そのものから「いまこのとき」を見つめなおすとどうなるだろう。コマコからのセックス、コマコが見たセックスは次のように描かれる。
どんどん入っていくと、突き当たると、そこが「入り口」。
この矛盾。
この矛盾こそが、「いまこのとき」なのだ。それはどこにでも通じている。だから、どこにも通じていない。過去にも未来にも通じていない。通じているのは、身体がかかえる「思い」、その「思い」が動いていく「時間」なのである。過去でも未来でもないから過去でも未来でもある。
何もかもを融合させて、つないでしまう。つなぐことで切り離してしまう。その矛盾した「至福」。それが「いまこのとき」なのだ。
小池昌代『怪訝山』は何を書こうとしているのだろう。「怪訝山」の最初の部分に、小池の書きたいことが集約されていると思う。
蛍光灯が一本切れていて、オフィスのなかはいつもよりも薄暗い。美枝子もイナモリもそれに気づいてはいるが、取替えようという意欲がわかない。誰かがやるだろう。それは明日の自分かもしれないが、いまこのときの自分ではない。
「いまこのとき」--これが小池の向き合っているものだ。書こうとしているものだ。「いま」というのは誰にでもある。けれど、その「いま」とは何だろう。「いま」の何を知っているだろう。より正確に言えば、「いまこのときの自分」、「いま」と「自分」の関係について何を知っているだろう。あるいは「とき」と「自分」の関係について何を知っているだろう。
もしかすると、「自分」と誰かを隔てているのは「とき」なのではないだろうか。「いまこのとき」というのは、それぞれの人間にあって、それは同じではないのではないのか。
これは、奇妙な感じかもしれない。けれど、それぞれに「いま」(いまこのとき)というのは違うのである。
「イナモリさんが、繰り返し見るのは、どんな夢ですか」
「母親が死んだ夢。おふくろはとっくに死んでいない。でも何回も夢に見る。まだ、しんでいないみたいに。あ、そういうことなのか」
自分で言ってイナモリはとっとした。
「おふくろは死んだが、まだ死んでいない……」
「おふくろは死んだ」というのは「過去」である。「まだ死んでいない」は「いまこのとき」である。母を思う、「いまこのとき」、その「思う」というなかに母は生きている。
「いまこのとき」というのは、単なる過去-現在(いま)-未来のなかの一瞬ではない。それは、いわゆる「直線的に流れる時間」の一点ではない。それは「思う」という意識に深くからみついている時間である。「おふくろは死んだ」と「思う」、その「いまこのとき」、おふくろが死んだのは「過去」であるがゆえに、「いまこのとき」それを思い出すことができる。思うことができる。
最初の引用部分で美枝子が切れた蛍光灯を見ている、そのとき。美枝子は、それを取り替えようとは思わない(意欲がわかない)。そういうときの「いまこのとき」。その「思う」の空白の時間……。
「いまこのとき」の「とき」は空白なのである。空白であるから、それはあるときは「過去」をも「いま」にしてしまう。そこでは時間は直線的には流れず、思うときに、その瞬間に浮かび上がって存在するのである。立ち現れてくるのである。
そして、この「いまこのとき」を小池は「思う」と同時に「肉体」にもかえていく。「思う」自体が空白なのだから、そこを埋めるのはほんとうは「思い」ではないのだ。イナモリが死んだ母を思うのも、真剣な(?)思い、というか、いわゆる「思考」ではない。何かを一つ一つ積み重ねていく思考ではない。ぼんやりした全体--いわば、母の「肉体」のようなものである。母は生きているというとき、そこには母の肉体があるということだ。単に母の感情(たとえば「やさしさ」)、あるいは「思考」ではなく、母が肉体そのものとして思い出されているのだと思う。
思いの空白--その空白としての「いまこのとき」。そこにあるのは、「肉体」である。蛍光灯が切れていると思っているとき、その思いなどというのはぼんやりしている。はっきりしているのは「肉体」である。なにもしようとしない「肉体」がある。
死んだ母を思うときも、それは思いがあるというより、その「思い」を抱え込んだあいまいな「肉体」が「いまこのとき」、そこにあるということかもしれない。
「いまこのとき」の「肉体」。イナモリとコマコのセックスに、そのときの「肉体」の感覚が書かれている。
コマコという女は、なにかしら、すべてが巨きい。中へ入ると、ずぼずぼとおぼれ、自分がとても小さなものとなる。イナモリは、コマコの体をとして、ここではないどこか向こう側へ、運ばれていくような感覚にしびれた。達したあとの脱力のなか、身を横たえていると、ごろりと等身大の生身が戻ってきて、そのだるさも、決していやでなかった。
「いまこのとき」、それは「等身大の生身が戻って」きたときの感じなのだ。何も思わない。「思い」は「等身大の生身」そのものとぴったり重なってしまっている。そして、それは「ここではないごとか」へ行ってきた肉体である。
「いまこのとき」は、どこへでもつながっている。「等身大の生身」は、その「どこか」では等身大を超えているのだが、「いまこのとき」は等身大である。
わけのわからない往復--それを身体はしてしまう。そして、その身体があるとき、それが「いまこのとき」である。
この等身大の生身--そのものから「いまこのとき」を見つめなおすとどうなるだろう。コマコからのセックス、コマコが見たセックスは次のように描かれる。
「あたしはもう妊娠しないよ。ヘーケイしたから。ヘーケイすると、女は山になるんだよ。深い野山さ。だからもう、遠慮はいらないよ。わけいって、わけいって、深く入っておいで。さあさあ、おいでよ、どんどんなかへ。もうあたしは産まない。突き当たりさ。突き当たったところの、山の入り口さ」
どんどん入っていくと、突き当たると、そこが「入り口」。
この矛盾。
この矛盾こそが、「いまこのとき」なのだ。それはどこにでも通じている。だから、どこにも通じていない。過去にも未来にも通じていない。通じているのは、身体がかかえる「思い」、その「思い」が動いていく「時間」なのである。過去でも未来でもないから過去でも未来でもある。
何もかもを融合させて、つないでしまう。つなぐことで切り離してしまう。その矛盾した「至福」。それが「いまこのとき」なのだ。
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