詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

志賀直哉(7)

2010-05-13 23:51:24 | 志賀直哉
「早春の賦」(「志賀直哉小説選 三、昭和六十二年五月八日発行)

 「同感」ということばがある。
 「奈良に来て最初の印象は不相変(あひしはらず)の奈良だと云ふ事だつた。」という感想を志賀直哉が持つ。奈良に着くまでは、なんの感想も持っていないような直吉がふとことばをもらす。そのシーン。( 133ページ)

 「何も彼もあんまり同じだね。二年間高田馬場に住んで来たやうな気が少しもしないぢやないか」
 直吉も同感である。 

 特別な「意味」があるわけではない。同じように感じること、考えること--それだけのことばであるけれど、その意味が、すとん、と胸に落ちる。
 それには、理由がある。
 それまでに「同感」ということばをつかわずに、少しずつ違ったふうに書かれているからである。
 丸い山の裾に畑があり、そこに人が働いている。それを見て、「私は和やかないい気分になつた。」その後。

 此感興は再び来て同じやうに感じられるかどうか分らない性質のものだが、現在の感興が私だけの主観でない事は紫峰君も感心してゐる事で私には分つてゐた。只一緒に居る直吉がどう感じてゐたか、これは訊いて見なかつたが、「いい加減にきりあげて呉れないかな。腹がへつて来た」とこんな事を思つてゐたかも知れない。子供は光りのないかういふ静かな景色、しかも寺は、決して愉快には感じないものだらう。(130 ページ)

私は京都で二年、奈良に十三年、前後十五年間此辺の風景に親しんで来たから、久振りに眺める窓外の景色は珍しくないが、何か淡い楽しみとなつた。然るに奈良で生れ、奈良弁を使つて育つた直吉にはこれらの風景に対し、何の感情も持つ風なく、首を不自然な位に垂れて、持つて来た大衆小説に全心惹込まれ、読耽つてゐた。
 「おい。宇治川だ。工兵の鉄舟が浮いてゐる」
 私がかういつても、一ト言では返事もしない。
 (略)
 「木津川に来た。久しぶりで来たんだ。少しはそとを見ろよ」と云ふと、直吉は困つたやうな変な笑ひを浮かべ、本を伏せ、拳固で首筋を叩きながら窓外を見るが、依然何の興味もない風だ。つまり、私のやうな感傷主義がないのだ。(131 -132 ページ)

 志賀直哉の「感傷主義」と直吉の気持ちの違いがくっきりと浮かび上がっているので、直吉が突然「感情(感傷)」をもらすとき、離れていたものが一気にぴったりと重なり、「同感」が「同じ」「感じ」が凝縮して「同感」になったものであることが、すとん、と納得できるのである。
 「同じように感じていた」では、まだるっこしい。「同感」であるからこそ、すとんと胸に響く。ここは、「同感」という熟語であらねばならないのだ。

 志賀直哉は、ことばのリズムの必然性を熟知しているのだと思う。
 それは、いまの「同感」だけではない。たとえば、先に引用した部分でいうと、「おい。宇治川だ。工兵の鉄舟が浮いてゐる」「木津川に来た。久しぶりで来たんだ。少しはそとを見ろよ」この二つの志賀直哉のことばにもあらわれている。短いことばのたたみかけ。文と文とを結ぶことばはなくて、ぶつんぶつんと切れる。それでいて、その文と文とは強い接着力で結びついている。「久しぶりで来たんだ(だから)、少しはそとを見ろよ」というように、ねちねちしない。ねちねちしているほどの余裕もなく、感情が突っ走るそういうリズムのあとに、「同感」ということばがある。
 さらに。

 「おい。宇治川だ。工兵の鉄舟が浮いてゐる」
 「木津川に来た。久しぶりで来たんだ。少しはそとを見ろよ」
 「何も彼もあんまり同じだね。二年間高田馬場に住んで来たやうな気が少しもしないぢやないか」

 この三つを比較すると、もっとおもしろいことがわかる。
 文章が少しずつ長くなっている。
 ひとは、感情が強く動いているときは、長いことばを言えない。感情はことばにならないまま、ことばからはみだしている。
 「おい。宇治川だ。工兵の鉄舟が浮いてゐる」は、「おい。宇治川に来た。工兵の鉄舟が浮いてゐる。そとを見ろよ」なのである。「に来た」「外を見ろよ」はことばにならないまま、声にのみこまれている。その声を志賀直哉は、そのまま書いているのである。そして、その声のなかのことばになっていない部分が正確に直吉につたわっていないと感じたからこそ、次に直吉に外を見ろよ、というとき、それをことばにしている。「外を見ろよ」といっている。理由も「久しぶりで来た(のだから)」とつけくわえている。
 そういうことばがあって、それに同感するとき、直吉は、その重複するものを省略している。
 直吉のことばは次のように言いなおすこともできるのだ。
 「ほんとうだね。久しぶりに来たのに、何も彼もあんまり同じだね。同じに見えるので、二年間高田馬場に住んで来たやうな気が少しもしないぢやないか」
 直吉のことばには、志賀直哉が二度目のことばで言った「久しぶりに来た」と「見る」が省略されている。
 この省略が「同じ感じ」の「じ」を省略する動きにつながっている。「同感」につながっている。


和解 (新潮文庫)
志賀 直哉
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貞久秀紀「日の移ろい」

2010-05-13 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
貞久秀紀「日の移ろい」(「鶴亀」4、2010年04月発行)

 貞久秀紀「日の移ろい」は、ことばが少しずつ動いていく。丁寧に動いていく。

 ともにゆれているいくつかの枝が、そのいくつかに分かれて風にうごき、うごきにあわせてゆれるあたりには、葉をしげらせたどの枝にも日があたり、どの枝についていて、
 まだ枯れない葉にも、そこからそこまでがこの木であるところで乾いた陰日なたをつくり、いまこの世にあまねくひろがる日が、そこでは葉の数に分かれておのおのゆれうごく。

 少しずつ動いていくうちに、主客がいれかわる。最初は、枝がいくつかに分かれ、その枝がゆれる。そこには書いていないけれど、きっとその先端である葉はまたいくつかに分かれ、ゆれているはずである。そのゆれている葉に日の光があたっているのだが、そこでは葉がゆれるのではなく、日の光が「葉の数に分かれておのおのゆれうごく」。
 えっ? 何がいれかわった?
 あ、そう思うかもしれないねえ。
 葉っぱがゆれると光がきらきら反射してゆれる。これは、一般的にいう表現であって、特別変わっているわけではない。
 けれども、よくよく考えると、この光がゆれるというのは、変である。木には幹があり、枝があり、葉っぱがある。つまり、「おおもと」があり、「先端」がある。そしてゆれるのは「おおもと」ではなく、「先端」である。(その先端へむけて、最初、貞久のことばう動いていた。)
 ところが「光」には「先端」というものがない。ひとかたまりのものである。
 それが、いま「葉の数に分かれておのおのゆれうごく」。
 貞久は「おのおの」と書くが「おのおの」なんて、ないはずである。葉っぱは1枚、2枚と数えられるが、光は数えられない。それなのに「おのおの」。

 変でしょ?

 でも、この変にはなかなか気がつかない。
 気がつかないように工夫しながら、それでも必ず気がつくように、ことばを貞久は動かしている。
 
 ともにゆれている「いつくか」の枝が、その「いくつか」に分かれて風に動き、

 そのいくつかに分かれて風に「うごき」、「うごき」にあわせてゆれるあたりは、

 うごきにあわせてゆれる「あたり」には、葉をしげらせたどの枝にも日が「あたり」、

 葉をしげらせた「どの枝」にも日があたり、「どの枝」についていて、

 ひとつのセンテンスには、かならず前のセンテンスの「ことば」が含まれている。カギかっこでくくった部分がそれである。不思議な「しりとり」がそこには隠されていて、そのために、ことばの「おのおの」が奇妙に独立して見える。独立しながら、形をかえていっているように見える。前の文章を引き継いでいるにもかかわらず、引き継ぎながら、どこかへずれていっている感じが残る。(しりとりというのは、ことばを引き継ぎながら、まえのことばとは違うことばへ動いていくゲームだ。)
 特に「ゆれるあたり」と「日があたり」はまったく違う種類のことばなのに、「しりとり」の効果(影響?)のせいで、一種のめまいのような、不思議な気持ちで「日があたり」を、日があたっている「あたり」のようにも感じてしまう。
 あたるという動詞が、あたりという「場」にかわる。動詞、その動く世界、うごきそのものの世界が、動くことで獲得した「領域」としての「場」をつくりだしていく感じがする。
 そして、ことばは、そこから、ことばの運動の領域という「場」を自分自身のものとして、現実の世界に押し返してくるのだ。
 木がある。その「木」が最初、ことばの「場」であった。「木」という領域(場)のなかで、ことばは動き回り、その「場」を枝に、葉っぱに分割したのだが、いまは、そういう分割された「場」(部分)がことばのよって立つべき場所ではなく、ことばはことばの運動そのものを「場」としているのだ。
 そういう奇妙な転換があるからこそ、光が葉の数に分かれて「おのおの」ゆれうごくということが起きるのである。光は、葉の上で動いているのではない。そういう肉眼でみえる「場」で動いているのではなく、「ことばの運動そのものの場」という目には見えない「場」で動いている。
 「おのおの」には、そういう強い意識が働いている。「意識の場」の重力が、ことばの運動に不思議なゆがみ--歪みとはなかなか実感できないような、微妙な圧力をかける。その微妙さを味わうべき詩である。
 「希望」の前半。

 わたしが待ち、このひとが鳥籠から一羽の白い小鳥をだすときにわたしが銘じられているかたわらにいる間、それはこのひとの手の甲に止まり、ついでふたたび同じところに止まって光のなかへひろがりでるよりも前、行くなかで退いて止まり木に移る。

 「学校教科書」にはないことば、「流通言語」にはないことばがある。とりわけ逸脱しているのが「行くなかで」である。「なか」を「過程」ととらえれば、まあ、なんとか「意味」になるのだろう。そういう言い方は、口語でもあるにはある--どころか、しょっちゅう出てくるのではあるけれど……。
 たとえば、私(谷内)は貞久の詩について述べるなかで、貞久のことばの使い方は日常の言語とは違うと書いている、という具合に。
 この場合「なか」というのは、ことばが動いている「場」のことだ。「場」という「ひろがり」をもったものであるからこそ、その「なか」と言えるのだ。それは「場」でありながら、同時に「時間」(過程)でもある。「時間」は「時」と「時」のあいだの、ひろがりをもった「場」である。
 この「時間」と「場」の、一瞬の「融合」(?--ととりあえず、呼んでおく)に、貞久はとどまる。そして、その「場」を少しだけ、ひろげて見せる。そういうことを貞久はしている。
 過激に、過剰にではなく、少しだけ、丁寧に。そこに、何か不気味なものがある。少し、丁寧なものは、一種の着実さをもっている。ひとの意識をあまり刺激しない。そういうことを利用して、ずるずるずるっという感じで、貞久は日本語を貞久語という「外国語」にかえていこうとしているのかもしれない。

 私はいままで貞久のやっていることがよくわからなかったけれど、今回の詩は、とても魅力的に思えた。




空気集め
貞久 秀紀
思潮社

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